「釜ヶ崎」に新しい思想と文化を生み出す
        生活共同体の拠点建設を!

釜ヶ崎差別と闘う連絡会議(準)
部落解放同盟矢田支部矢田解放塾塾長
 西岡 智


(1)二つの死の意味するもの

「釜ヶ崎」差別と闘う連絡会議(準備会)は1983年2月の横浜での中学生らによる日雇失業労働者3人を虐殺するという衝撃的な事件をきっかけに結成された。

人間を「モノ」として見て、「汚い」「町をきれいにしただけだ」という人権感覚の麻痺は、中学生ら自らの「生命の尊厳性」を殺されているといえる。

その同じ横浜で今年2月16日、小学校五年生が高層団地14階(36.5米)から飛びおり自殺をした。

「紙がくばられた/みんなシーンとなった/テスト戦争の始まりだ/(中略)テスト戦争は人生を変える苦しい戦争」と詩にかく感性豊かな子であった。「学校を破産させたら、先生もいなくなる」という子どもらしい発想を口にし、友達が便所の石けん水を廊下にまき散らした。

担任教節は、その友達の行為のきっかけとなったのが、「この子の言葉である」ときびしく反省を求めた。幼い魂が何を求め、何を叫んでいるのか、それはなぜかということを考えず、「生意気だった」「私の手におえなかった」という教師の独断が、一つの生命を抹殺したのだ。パンを求めている子に、石を与えているのだ。

私たち大人は、自らの精神の荒廃が、子どもの精神を荒廃させているという自覚をせまられている事件である。


(2)「釜ヶ崎」差別を逆転させる発想を!

「釜ヶ崎」は「浮浪者」の街として、差別と偏見でみられてきた被差別部落と重なり合う一面をもっている。

「釜ヶ崎」の生活体験を文学創造のバネにしている黒岩重吾でも

「動物園前で地下鉄を降りた二人は飛田商店街に出た。まだ昼になったばかりなのに娼婦が立ち、地下足袋の労働者が赤い顔でうろついている。、ござを敷いた浮浪者が身体をえびのように曲げて寝ていた。…中略・・・一杯飲屋は昼なのにかなりの客が入り、騒々しい。仕事にあぶれたり、さぼった連中が集まっているのだ。彼等は仕事がないとただ酒を飲み、金が余ると女を買う…中略・・・将来どうするつもりだろう。と考えてしまう。自分の将来について何も考えない人間の気持が正明には理解できない」(さらば星座六巻の下、六四頁集英社刊)

と差別偏見に満ちた文章を書いている。

酒を飲んで、つかれをほぐさねばならぬきつい労働、時には仕事を休んで骨休めをしないと体がばててしまうきつい労働。それらの日雇労働者の現状をみないで、「どうしようもない人間」のように描いている。

故郷の母や妻や子を想い、何とかして一緒に暮せる日をと願うやるせなさなど一顧だにせず、「将来について何も考えない人間」と断定している。

「釜ヶ崎」は人間荒廃の絶望の街なのか。

否である。

最も虐げられた者こそが、人間の尊さを一番よく知っているのである。

水平社宣言でも「ケモノの皮をはぐ報酬として、生々しい人間の皮をはぎとられ、ケモノの心臓を裂く代価として暖い人間の心臓を引ききかれ、そこへ下らない嘲笑の唾(つば)まで吐きかけられた呪われの夜の悪夢のうちにも、なお誇りうる人間の血はかれずにあった。」

「人の世の冷さがどんなに冷いか。人間をいたわる事が何であるかをよく知っている吾々は、心から人生の熱と光を願求礼讃するものである。」とのべている。

釜ヶ崎の日雇労働者の心情も同じものがある筈だ。この人間性への叫びに、どう表現していく力をつけるのか。差別と偏見にまけない主体をつくり、差別と偏見の根元をたち切っていく施策が問われている。


(3)アル中の労働者を尊敬する子ども

「子どもの里」での話である。「今年今宮中学と新今宮中学を卒業した二人が、朝四時半に起き、西成労働福祉センターより日雇いの仕事に就き、「めちゃ しんどかった。」と誇らしげに帰って来た」という。

そして「土方のおっさん、総理大臣より偉いで、あんなしんどい事やっとるんやな、酒飲むのもわかるわ」と語ったという。

アル中の親父や大人がなぜそうなるのか。資本の重圧の中で失業を余儀なくされ、闘うにすぺなく、酒にまぎらわさざるを得ない悲しみ。

一人ではどうすることもできず、さりとて団結するには砂のような狐立した社会−この心の闘いに想いをはせて、くやしさを共有して、いきどおりに転化させていける子どもが育っているというのである。

釜ヶ崎に育っているこの子どもと大人の共生・連帯の中に「明日」が見える力をつけていく芽があるといえよう。


(4)「釜ヶ崎」差別解放の総合計画の第一歩

部落解放運動は、部落を「解放の町」「教育の町」にするため部落解放総合計画を樹立し、部落大衆と連帯の力で、行政を動かし、教育、労働、住宅などの生活環境をかえ、街づくりをおしすすめ、一定の成果をおさめつつある。

この教訓を生かして「釜ヶ崎」解放のための総合計画を樹立 実現の運動を、住民が中心となって起す必要がある。

その第一歩として、新今宮小・中学校跡を、釜ヶ崎の住民労働者、子どもたちの新しい共同体形成の拠点として活用していくべきである。住民に開放されたセンターとして事業予算もつけて運用されるべきである。

多くの芸能人を輩出した天王寺の芸人村は釜ヶ崎にある。ここでつちかった生活の底辺からの笑いと哀感は、庶民文化の根っこであった。

新今宮小・中学校の跡地が、新しい人間観と教育観、豊かな感性をつくり出す共同体の拠点として生れ変ってこそ、この小・中学校をつくった先人の志を発展させるものと確信する。

二十一世紀にむけ、発想の転換をはかって全べての叡智を結集し、釜ヶ崎差別をなくしていく施策を打ち出し、実現させていこうではありませんか。
                        (1985・6月「釜ヶ崎差別と闘う連絡会議」ニュース号外」