松原隆一郎氏からの回答

お返事が大変遅くなってしまいました。申し訳ありません。お手紙は3月上句に「宝島30」担当編集者から受け取りました。

いただいたお手紙は体裁も丁寧なものであるので、私もちやんと書かなけれぱいけないと思うのですが、そうするとまた出すのが遅れてしまうかもしれませんので、失礼かとは思いますがメモめいた様式で書かせていただきます。

まず、私の文章が表現として若干不完全な部分を含んでいたことは認めます。けれども内容としては以下述べますように今のところ変更しなくてもよいのではないかと考えますので、同文を再び発表する機会があれぱその線に沿って訂正したいと思っております。

また、最初に述べておきたいのですが。私は貴会などがテレビ番組等を批判的に検討し場合によれぱ糾弾をもしておられる努カには、共感し敬服しております。

ただ、せっかくの批判や糾弾の内容が当事者の内々に封じられていることを残念に思ってもいます。それを前提にして、以下お返事させていただきます。(1〜4)はお手紙の質問事項の番号です。


1、私の文章は、「・・納得していない(ように見える)、という問題がある」と訂正したいと思います。

ただし、直後に続く文で「 『浅草橋〜』の場合、製作者が陳謝する、と「お詫び」のテロップで流したが、視聴者にはどう映っただろうか。」とあるので、「視聴者の一部にはTV東京側が納得していないように見る人があるだろう」という意味にとれると思います。

『浅草橋〜』以外の二つ場合が当事者間でまったく話し合いのもたれないような、つまり「(ように見える)」と挿入する必要のない極端なケースだったので、「浅草橋〜」については「視聴者には・・」という次の文章で補足しておいたのですが、

三つのケースを同時に扱ってより無理がないようにするには上の訂正をした方がより分かりやすかったかとは思います。

さて、貴会とテレビ東京側が精一杯対話し双方が納得した。ということですが、ああいうテロップが流れた以上、それはその通りでしよう。

ですから。テレピ東京にいくら取材したところで「納得いきました」という返事が返ってくるに決まっているのではありませんか、編集者から伝わったとお手紙にもあるように、私は「互いに良く話し合い、納得された」のだと思っています。

しかしそれにも拘わらず、視聴者、いや我々、ないし私に「納得していないように見える」ことを間題にしたのです。

また、我々以外の視聴者にもそう感じる人がいるのでは、と思えたので「視聴者にはどう映っただろうか」とつけ加えたのです。

そもそも、貴会とテレビ東京はご自分たちの内々でもたれた話し合いによって「ヒッピ一〜」について納得いく処分をされたとお考えのようですが、その内容は視聴者にはテロップと朝日・産経新間以外で知らされておりません。

いや、これこれの手段でじつは広報しているのだ、それについて取材しないのが間違っている。とおっしやるのかもしれませんが、「『 浅草橋〜』の視聴者」というのはその番組を見ている人間のことですから、『浅草橋〜』のテロップその他で知らされない限り、情報が隠蔽されていることになります。

私は、「ヒッピ〜」がかりに差別性を含んでいるのなら、自分も合めた視聴者もまたその差別に気づくべきだと思います。私もあの番組は、ひどいなあ、でも笑えるなあ、と呑気に見ていたのですから、それなりには差別の当事者だったのかもしれません。

ところが貴会とテレピ東京だけがその件については内々で納得されたということで、視聴者はその対話の場(の情報)から差別的に排除されたのです。

もしテレビ東京が納得しているのだとするなら、視聴者にも対話の内客について自主的に伝えるべきではありませんか。

そうしなかった以上、納得していないが納得した風を装ったのだとあらぬ疑いをかけられても仕方ないと思います。

私が指摘したかったのは、そのように一部の人々だけが納得したとするぱかりで、テレビの制作者と視聴者というより大きなコミュニケーションの場へ差別間題が広がっていかない傾向がある、ということです。


2、「糾弾の言葉を振り回さずに忌憚ない意見の交換をすべきだった」については、

確かに私の書き方が曖昧かもしれませんので、ここで補足させていただきます。

ここでも私がいいたいのは、テレビ東京が番組の内容に不適切な部分があったと認めた理由について一般視聴者が知らされていない、ということです。

また、その理由が知り得たならぱ別な疑問がまた生じたかもしれませんが、それは放置されたままだ、ということです。

私は美容整形ショーについても差別的ではないかと感じています。ところがそちらはその後も放映されています。

二つのコーナーはどう違うのか。また、「風呂に入れずに野宿者のファッションショウでもやればよかったというのか」というのは、朝日新聞に掲載された「他の若者と違って風呂に入れた云々」という記事から出た疑問です。

貴会とテレビ東京は話し合いで納得されたかもしれませんが、私などはこうした疑問を拭い去れません。「ヒッビーは〜」は視聴者も共有していたコーナーですから、それがなくなる以上は視聴者もその理由を知る権利があるはずでしょう。

貴会やいくつかの団体の糾弾によってコーナーがなくなったのだとするなら、ご自分たちだけの疑間をテレビ東京にぷつけるのでなく、視聴者の代表としてより広範な視聴者層がもっている疑間を解消すべく努カレていただきたかった。

そしてその内容については、一般視聴者から一部当事者にいちいち取材などしないでもアクセスできるようなものにして欲しかったと思います。


3、イ。「野宿者」は、屋外で夜をすごす(過ごさざるをえない)人のことと了解しています。

それに対して「浮浪者」は、一般的な意味、すなわち広辞苑などでいうところの「一定の住居や生業をもたず、方々を徘徊する者」の意味で用いました。

ともに野宿者である両者の違いは、基本的には生業の有る無しだと思います。

浮浪者は野宿者であるが、野宿者は全員が浮浪者ではありません。生業をもちたいが失業状態を余儀なくされ、それゆえ野宿しなけれぱならない人がここでいう「野宿者」であり、「浮浪者」は生業をもつ意志を放棄している人のことかと思います。

私が幾度か、「ヒッピ〜」のコーナーを見た限りでは、浮浪者の回もあったし、野宿者の回もありました。そこで両者を併記したのです。

私は野宿者イコール浮浪者とは考えていません。

浮浪者の場合は生業につく意志を持たないのですから、ヤッピーになることをみずから拒絶しています。

それに対して野宿者は生業につきたいが景気動向その他の当人にはどうしようもない理由で生業につけないでいるのだと思います。

ですから、「ヤッピになれるか」と題されて傷つくのは狭義の野宿者の方でしよう。

浮浪者の場合にも「ヒッピ〜」のコーナーは差別的かもしれませんが、正確にはどうだか、よくわかりません。

ともあれ、どの場合が差別的であるのかを理解するのに事の仕分けが必要と考えたために浮浪者・野宿者を併記しました。

貴会が話し合いの場で「野宿者」だけを使われたのは貴会の活動趣旨から「あいりん地区」の野宿者の回だけを対象としたのかもしれませんが、それならぱ浮浪者を対象とした場合については差別的か否かは間わないことになってしまうのではありませんか。

ロ。これは私があのコーナーのタイトルを誤解していたにすぎません。

両タイトルの相違については、詳細に考えたことはありませんが、今考えれば、「ヒッピからヤッピ」へはヤッピに「なれる」可能性について肯定的であるのに対して、「ヒッピはヤッピになれるか」の方は「なれない」、否定的な感じが強いようにも思えます。

ただし、深読みすれば、肯定的に言った方が、そうなれる現実の可能性が低いことからいって、より皮肉ともいえるかもしれない。

ですから、「なれるか」の方がストレートに差別的でしょうが、「から〜ヘ」もそれなりに陰伏的な形で差別的だとは思います。

ハ。私の「されたらしい」は、新聞紀事によったからであり、テロップやその記事からだけでは批判の理由が述べられていなかったからです。

・前半;意見交換されたのでしよう。しかしおっしやる通りの議論がなされたのなら、テレピ東京はそう視聴者にも広報すべきだったのではないでしようか。

私も、野宿者の服を着替えさせる、というのは半ぱ差別的かと思います。しかし、差別的だと、確信するには至っていない。したがって、どこに差別的か否かの境界線を引くかを理解することが重要事でしょう。

貴会とテレビ東京の議論は広報していただきたかったと思います。

「入浴をさせる」が批判理由だ、と朝日新聞には掲載されていたので、それなら「それなら風呂にいれずに・・」ならぱ差別的でなかったことになってしまうじゃないか、と考えました。

朝日の記事では、(1)このコーナーの全体が差別的、入浴の部分はことさらに差別的、(2)このコーナーのうち、入浴させる部分のみ差別的、のうち、 (2)を支持しているようにもとれてしまいます。

(1〉かどうかが間題になったのでしょうから、朝日のような報道は不正確だったというのが私の意図です。

・後半;おっしやることの意味が分かりません。

二。「あいさつ」が異質な人々の集まりである社会においては重要だというのは一般論ですが、「浅草橋〜」にかんして私見を述べるならぱ、「テレビ東京が視聴者に対してあいさつすることが必要」だ、と考えます。

差別的な番組を公共の電波に乗せたと認め、それを放映中止する以上、どこが差別的であったかを述べるのは責務でしょう。

しかし、私はテレビ東京の発した映像とテロップに込められたメッセージについて議論したのであって

貴会とテレビ東京の対話そのものを分析しようとしたのてはありませんから、

貴会に直接にあいさつする必要があるとは思えません。

ただ、文章をより正確なものにすることで、そうした意図を明確にする必要がある、とは思います。


4、私が『浅草橋〜』の場合に考える「糾弾する側」は、貴会および名古屋の日雇労働者支援団体などです。

問題は「差別したとされる側」ですが、こちらは直接にはテレビ東京ですが、間接的にはその番組を見て支持した視聴者もそこに含まれると思います。

ところが視聴者は「糾弾する側」および直接の「差別した側」の間の対話について、テロップや新聞の情報だけしか知らされなかったわけで、まずそこにディスコミュニケーションがあります。

また、第二にそのディスコミュニケーションゆえに、

視聴者はテレビ東京側が「納得した」からテロップを流したにせよ、

「納得していないように見え」てしまう、

「糾弾する側」とテレビ東京との間にはディスコミュニケーションがあつたように見えたまま放置される、

という現象が派生しています。

こういうふうにもっと厳密に書くべきだったかもしれませんが、私のいう「ディスコミュニケーション」は、これらを総称しています。

これらは、「納得」が貴会およびテレビ東京の間で独占されているために生じたことです。

テレビ東京は事後に野宿者差別を緩和するためにニュース番組を放映しているとのことですが、それもまた『浅草橋〜』で視聴者に広報されていない以上、一部の了解でしかない、と思います。

貴会は、テレビ東京との話し合いの中で、どうしてあのようなテロップだけでことが解決したと考えられたのでしようか。

番組を中止し、後は啓蒙的なニュースを流せば差別は緩和されるというのもひとつの立場かもしれませんが、私は視聴者をも当事者とするコミュニケーションの方が有効だと考えます。

これは立場の相違にすぎないかもしれませんが、私が拙文で指摘しようとしたのはこの点です。

斎藤氏の場合は、そもそも小森氏との間で対話が成立していません。

中野氏の場合は、読者も含めて対話が成立しそうになりましたが論争のルールが守られていない、と中野氏が対話の場から降りてしまった(その判断の妥当性と、アグネス論争そのものとは別物です)ために、こちらも対話が不成立となりました。

これらと比べて、『浅草橋〜』」の場合は、視聴者抜きで対話が成立した例としてとりあげました。

私が述べようとしているのは、貴兄がおっしやるような「積極的少数者からの糾弾・・の動き」が「お笑いを楽しんでいる受動的多数者には理無のできない不愉快なもの」だから「積極的少数者に忠告する」、という類いのものではありません。

この誤読は明らかです。

糾弾の動きが多数者にとって不愉快か、それとも糾弾された番組に不愉快を感じるか、は積極的少数者と受動的多数者との間の対話を経た後にしか明らかにはならないと思います。

その機会がなかったことを私は残念と感じる次第です。

松原隆一郎