| ホーム | 事業概要 | 事業報告 | 福祉通信 | 資料室 | レクリエーション | ボランティア | 助成金 | 更新履歴 |
   
◇ボランティアさんたちの声 ・田中恵子さん ・脇田寛史さん ・川畑摩紀枝さん ・渡邊翔平さん

 

 

渡邊翔平さん - ボランティアさんたちの声

 渡邊さんは、2006年3月までは大学生でボランティア、2006年4月からは「はれて?」釜ヶ崎支援機構の職員に。京都からほぼ始発電車に乗って、事務所に着くのは朝の7時40分頃。そこからスタートして仕事が終わるのが午後8時すぎ。いかに若いとはいえ一日が終わると、がんばったぶんヘロヘロに。もう少し慣れ、仕事の全体が見えてくるとペース配分がわかるようになるのかな?と、約4年働いて未だにわかっていない私が言うのもなんですが…。
 ボランティアを経験し、スタッフになるということは、ひと粒で二度おいしいということか!?ボランティアだからできること、スタッフだからしなければならないこと、ボランティアでもスタッフでも直面すること。いずれの立場でも、野宿生活者や野宿にいたるおそれのある人たちと関わるということは、その人たちの生と死に向き合い、一時かもしれないけれど、一緒に歩いてくということかもしれません。

<NPO釜ヶ崎スタッフ 尾松>

釜ヶ崎に来た理由 −ボランティアからスタッフになっちゃった人の場合−

 まずはじめに、私が福祉相談部門に来るようになった経緯からお話ししたいと思います。 きっかけは二つあります。一つは、聞き取り調査でした。大学の卒業論文のテーマは「筑豊と被差別部落」。エネルギー革命以降、職を失った筑豊の炭坑労働者が仕事を求めて大阪とくに釜ヶ崎に来たということを知って、ぜひ労働者の話を聞いてみたいと思ったのです。

 もう一つは、大阪駅などで見かけていた路上生活者の存在です。歩道橋の下や、道の端で寝ころんだり、しゃがみ込んでいる姿。その姿に違和感を持たず足早に歩く人達。私は、この風景の中にあって周囲の人達への疑問と、路上生活者の存在への疑問を感じていました。そして、その疑問を解決するために釜ヶ崎に来ることを決めました。また、来るにあたって大事にしたいと思っていたことは、そこで暮す人達の言葉をじかに聞くことでした。

 ボランティアを始めて以来、いろんな人と関わりを持つようになりました。ここでは、その中の一人で、2004年の11月頃から関わりをもつようになったIさんのお話しをしたいと思います。その方は、末期のガンで視力を失っていたため、私はIさんのかわりにご飯を買いに行き、よくお部屋まで届けていました。その後、Iさんが病院に入院した後もたびたびお見舞いにいかせてもらっていました。死期がせまっているにも関わらず、Iさんと、はなしているとなぜか会話の一つ、一つが楽しく感じられました。寝巻きがはだけていたのを見て私は「身だしなみは、ちゃんとせなあかんで、お客さんきたら大変やからな」と声をかけました。「そうやなあ〜」「でも看護婦さんが来たら、びっくりするやろな」「なんで」と私が聞き返すと、「男前が二人もおるから」。病室ではいつもこんな感じでした。2005年5月末日にIさんは、亡くなられました。正直をいうと、その後ボランティアに来ていても目の前のことをこなしているだけの日々が続きました。その後9月頃になって、少しずつIさんの「死」を自分の中で意味づけられるようになってきました。「Iさんは確かに亡くなってしまった、しかし現在も路上で生活する人がいる。また、生活支援を必要としている人もいる。第二のIさんと、目の前の人ともう少し向き合ってみよう」。私は、そう考えて気持ちをつなぎ直しました。

 その後私は2006年の3月頃から、アルバイトとしてNPO釜ヶ崎で働きはじめ、現在は福祉相談部門のスタッフの一員となっています。スタッフといっても、週3回と非常勤ですし、自分自身の福祉についての不勉強もあって力不足は否めません。けれども、3月にここで働くことを決めたとき、毎日来ることはできないけれどもこの活動は続けたい。それでは、自分にできる関わり方で続けていこうという結論に至りました。そういう思いから、今にいたっています。ときどき、自分自身でも「なぜここで働いているのだろう」と自問するときがあります。そんなときは、決まって「(路上生活者の問題が)仕方のないことなんて思えない」「とにかく生きてほしい」と自分に言い聞かせるようにしています。

 以上、私のボランティア体験談はこんな感じです。

<福祉相談部門スタッフ 渡邊翔平>

 

Copyright (C) 2006 Kamagasaki Shien Kiko. All Rights Reserved.