西成区社会福祉関係人権活動推進協議会・人権問題研修

「あいりん地区の現状と課題」ー労働を軸に

釜ヶ崎支援機構 理事長 山田 實

 

この配布した資料は、釜ケ崎資料センターのほうでまとめてあったものですが、基礎資料として最初に頭に詰め込んでもらおうと思って持ってきたものです。他にも、釜ケ崎の形成史については、いろんな方が研究をなさっています。


釜ヶ崎前史

ここでも江戸期のことも少し書いてありますが、幕藩体制がゆるむ江戸の中期ぐらい、大阪に流入するいわゆる無宿・野非人層は、6〜7千人に膨れ上がっていたとも言われています。かれらは、昼間は市内に流れ込み活動し、木戸口がしまる夜になると追い出される形で外に出て行く。こういった人々を包摂する場所として、いわゆる非認可の木賃宿街が南海道とか西街道、あるいは京に向かう、それぞれの街道筋に出来上がっていました。

当時も、いろいろと取締りをしていたみたいですが、効果はあがらずどうすることもできない。やむなく当時の町奉行が紀州街道沿いにある長町に限って木賃宿を認めることにしました。そして、盗賊などになっては困るということで、掘割の改修工事や米つき、季節労働である酒造りとか油絞り、あるいは、行商や車押しなどの雑業につかせて日銭を稼がせ、生計を立てさせることによって、治安の維持を図ろうとしました。当時の政策の方が、現在よりも実情にかなったやり方をしていたのではないでしょうか。

ある研究家の話によりますと、江戸末期の長町は、最下層の人たちや「障害者」の人たちを含めて、8千―1万人になっていたとのことです。

明治以降になりますと、西洋に追いつけ追い越せの殖産・富国強兵策の中で、新たな産業が木津川沿いをはじめ大阪南へと広まっていく。大阪市街の拡張や交通網の整備などで長町の住民はだんだんと追いやられていきます。

今の新世界のところで、1903年におこなわれた第5回内国勧業博覧会のときは、天皇行幸に際して、見苦しいところをお見せするわけにはいかないということで、南へ西へ、今の釜ケ崎や恵美須町あたりへ追いやられました。また、コレラの発生などを理由に強制的に焼き払われ、立ち退かされました。

市更相の近辺に当時のマッチ工場の跡とされるレンガ敷きの箇所がいまだに残っているみたいですが、こうした新たな働き場を基点に近郊の出稼ぎ者なども包摂しつつ細民の街釜ケ崎が形成されていきました。

あと、戦後の復興期も、沖仲仕や土方、都市雑業を軸に再編されていきましたが、1970年ころまでは、おじいちゃんやおばあちゃんもいれば子供も裸で歩いているような、諸外国でも見られるようなスラム的な要素をかなり色濃くもっていたと聞いています。学校に行けない子供もいたりして、それでもいくら貧乏でも家族の形態などは残っていて、それなりに人間的な生活が営まれていたとのことです。


日雇労働者の街・釜ヶ崎

70年を前後して、急速に単身日雇労働者の町に変貌していくのですが、このあたりで行政の施策が、ストレートに絡まってきます。61年の第一次釜ケ崎暴動は、それまでの行政による無政策的放置状態を許さなくなりました。そもそも第一次暴動は、交通事故で倒れていた人を警察が虫けら同然に放っておいたことが引き金になりました。警察は、釜ケ崎の人々を人間扱いしていなかったものですから、生きていようが死んでいようが関心がなく、ゴザをかぶせて放っておきました。それに対する怒りが、それまでの非人間的扱いに対するものもふくめて爆発しました。私が釜ケ崎にきた頃も (1973年) 警官が路上に倒れている労働者を保護するときに無線連絡する場合、「450 ( ヨゴレ )」と暗号化して呼んでいたのを覚えています。

警察は逮捕したやくざに〃ヤキ〃を入れるとき「このヨゴレが!」といって暴力を振るっていました。労働者も最初からそういう目で見られていました。差別的な扱いに対するもって行く場のない怒りは、暴動という形で表すしかなかったのです。

当時の釜ケ崎は、西成署前の紀州街道以外はほとんどが狭い路地で、おどろおどろしいバラック街であったと聞いています。暴動のときは大通りでがんがんやっては、みんな路地中へ逃げ込みます。警察も路地中までは怖いものですから踏み込んでこないというイタチごっこを繰り返していました。

行政はその後直ちに実態調査をおこなったのですが、その過程において行政は、人が人として尊重され安心して働き生活できる場として創りかえる視点がまったくといってよいほど欠落していました。戦後の復興期から高度成長時代へ、人間よりも産業が最優先される時代でしたから無理もなかったのかもしれません。石炭から石油へ、高度成長時代へと国策がらみでの産業構造の転換・発展に伴い、釜ケ崎には炭鉱労働者をはじめ、農村各地から新たな労働者が流れ込んでいました。そのような時代状況に即応する形で、行政は釜ケ崎の街を暴動対策という治安管理に重点をおくと同時に、労働力の調整弁として、集中した安価な労働力の供給基地として再編・整備をしていきました。

迷路のようなバラック街から、車が縦横に走れるような碁盤の目の街に区画整理をおこない、夜でも見通しができるように煌煌と灯りをともし、テレビカメラを街の要所にとりつけ、刑務所並みの監視体制を敷きました。建物は、歩どまりの悪いバラック・木造建てから表3階中6階建て、畳1畳の小部屋で、窓に金網と鉄格子をとりつけた高層の、2万人収容できる「ホテル」街へとつくりかえていきました。

こういった再編と連動し、大阪府は万博をはじめとする関西一円のニュータウン開発に毎日2万数千人の労働力がいるということで、北海道から沖縄までの職安を行脚し、「どうか大阪に人をよこしてください。人手が不足しているのです」といって、人集めをしました。

そして、大阪市は家族もちの貧困層などを「ここは生活する環境ではない」といって、釜ケ崎から出て行くことを条件に、新しくできた南港や瓜破の市営住宅へと生活保護をかけて追い出してきました。建設業の2次3次下請けの末端で手配師人夫出しを通してそれぞれの現場へと日々動員され、こき使うだけこき使い、いらなくなったらポイすてされるという劣悪な労働環境ですから、当然のこととして、足手まといになるような女・子供は要らない、外におっぽり出してしまえ、どつきまわそうがぼろ雑巾にして捨てようが誰も文句を言わない単身の男ばかりを集めようという意識が、行政の側にも働いていたのではないでしょうか。

こうして、単身の男だけがいびつな形で集積される現代版「人足寄せ場」としての釜ケ崎が、行政によって意図的につくられてきたのです。


相対的余剰労働力市場の性格

手配師・人夫出しというのは、労働者供給事業を営むもののことです。職安法によりますと、「何人も労働者供給事業をおこなってはならない」といって禁止されています。戦前までは、人入れ稼業や周旋屋が暗躍して人身売買や強制労働は当たり前だったんですが、戦後は GHQが乗り込んできて労働の民主化をうたい、中間搾取や強制労働と並んでこの悪しき苦力制度は一掃しなければならないということになり、結構立派な法律として出来上がりました。国は、61年暴動後の釜ケ崎の労働市場再編過程で、手配師・人夫出しを一掃しようという考えがあったのらしいのですが、大阪府議会が国に対して、「手配師・人夫出しは確かに悪いが、中にはいいやつもいる。手配師・人夫出しがいないとうまくいきません。どうかこのやり方を残してください。」と嘆願・要望したのです。

そうした結果として、釜ケ崎にだけ職業紹介をしないアブレ手当てだけを支給する職安ができ、手配師・人夫出しがそのままはびこりつづけることになりました。かつては、ヤミ手配の青空求人で霞町から花園北交差点 ( 尼崎平野線沿い ) あたりでやっていたのを、わざわざセンターをつくり、その中に違法業者を集めてやらせるようにしました。職安は、自らが法律で禁止している違法業者に職業紹介するわけにはいきませんから、苦肉の策として大阪府の出先機関である民間の財団法人・西成労働福祉センターに業者登録させ、その軒下で勝手に求人活動をしてもよいということにしました。何か問題が起きればセンターが責任をとり、職安・行政本体には責任が及ばないという巧妙な仕組みなのです。

手配師・人夫出しは、日雇労働力を必要な量だけ、効率よく供給する装置としての役割だけでなく、不安定かつ劣悪な労働諸条件を押し付ける装置としても、端的には日雇労働者の就労過程・生活過程全般を支配する装置として存続させられました。彼らのほとんどは暴力団関係者ですが、行政がそれを温存させて使っていった背景には、大きく関西の産業界の意向があったのではと思います。

とくに建設業は、他の製造業などのように新しいヒット商品を発明して能動的に生産し、商売が展開できるような業種ではありません。たとえば、新しい電気釜を年間百万個作って売りさばこうということで、そのための労働力が年間通して千人いるとしたら予備人員も含めて千百人体制でいこうかとなります。これは、上から下までそれなりに安定した常用形態が前提にならざるを得ません。ところが建設産業というのは、景気や金利の変動などいろんなものに左右される受け身型の産業です。図面引きや営業マン、現場監督から我々みたいな雑工まですべて丸抱えにしていたら、会社経営そのものが成り立たない構造なんです。大林組、鹿島建設とか竹中工務店といえども、雇用関係が安定しているのはごく一部の上層の人たちだけです。あとは、下請け化して需要がないときは責任を持たなくてもいいような、トカゲの尻尾きりができるような仕組みが必要となってきます。ですから、この業界にはその末端で必要なときだけ吸引し、いらないときは切り捨てられる装置としての、不安定雇用を前提にした手配師・人夫出し制度が不可欠になってくるんです。

いま派遣業が問題になっておりますが、たとえば我々が竹中工務店にずっと使ってくれといっても、雇用関係がないので働いたその日の日当を支払っておれば、法的には何ら問題はないということになります。雇用関係は、あくまでも直接雇い入れた業者、暴力団であろうが何であろうが、そこにあります。ところが、そういう人夫出し業者は、上の業者からたとえば5人いるからよこしてくれといわれて手配して工事現場に送り込むだけですから、そこでずっと雇ってくれといっても、どうしようもありません。雇用関係と使用関係が分離させられ、違法であることを承知した上での手配師・人夫出し業ですから、当然そこは暴力団関係者しかできないという構造になります。

一番問題なのが、それらからする労働環境です。もう少し健全な、せめて法律並みの環境にしていてくれたならば、もっと違った釜ケ崎になっていたのではと考えられるからです。手配師・人夫出しは、自分たちがアウトローであることを自覚しています。働いた分の賃金を支払ってくれといってもなかなか支払わない、昔はほとんどの業者がそうでした。支払わなければ自分のところがつぶされるという状況にならない限り、絶対に支払わないのです。

相手は暴力団ですから、「文句があるならいつでも来い」といって開き直られます。「来い」といわれても一人では怖くて誰も行けません。それで労働基準監督署に相談に行きます。「不払いだから何とかしてください」と。監督署は電話をかけるだけです。そういう業者というのは、監督署に対して「払わない」とは一切いいません。「取りに来たら払ってやる」といいます。監督署は「支払うといっているから、あなた行ってきなさい」というだけでいっしょには行ってくれません。一人で行ったらどうなるか、過去に何人もけがを負わされたり、殺されたりしていますから、怖くて行けません。結局泣き寝入りです。警察に相談しに行っても、これは民事問題だから介入できない、殴られて刑事事件になってから来い、ということなのです。けがをしたり、殺されたりしたくないからお願いしているのに、結局警察も役にたたないのです。そして、職安に違法業者を何とかしてくださいとお願いしても、職安は「戦後一貫して労働者供給事業の禁止ということで取り締まったことはない」といって開き直っているわけです。

まともに働いてもきちっと賃金を支払ってくれない、けがをさせられても泣き寝入り。違法業者を取り締まるのではなく、逆に野放しにしてもっとやれといって奨励しているのが実情なのです。何のための法律なのでしょうか。法が法として日雇労働者の働く権利を守ってくれないのであるならば、どうしたらよいのでしょうか。

もう10数年前になりますが、景気のよいときです。それでも野宿している人は2−300人いました。その人たちにアンケート調査をしたんです。そのうちの8割方のひとは、労災もみ消しや賃金不払いなどのくりかえしで働けなくなったり、働く気力を奪われてしまっていました。「いくら働いてもヤクザを超え太らすだけだ」といって、公園や路上で酒を飲んで当り散らし、開き直って生活せざるをえない、ということでした。ところが、そうした原因を知らずに新今宮から降りてきますと、汚くてくさいし、路上に平気で寝転がっている人がいる。昼間から酒を飲んでわめき、ワンカップを投げつけたりして通行人に当り散らしている人がいる。なぜそのようなことになっているのか通行人にはわからないものですから、「この人たちは生来こういうタチなのか」と思ってしまう。そこでまた偏見が植え付けられていき、差別感情が倍増されていくわけです。その人たちが何故そうなっているのか、なぜ朝から酒を飲むのか、という問題です。みんな生まれたときから酒を飲んで、ああやって「わー」とあがくわけはないのですが、それがどういうことでそうなっているのか、よくわからない。何故わからないかというと、行政が一般の人には釜ケ崎の実情をわからないようにしてきたからです。

先ほど、70年を前後して、釜ケ崎が再編されていく過程をお話しましたが、行政は、産業構造の転換にともなって生み出される余剰労働力を釜ケ崎に寄せ集め、手配師・人夫出し制度を使って使い捨てる政策をとってきました。東京は、余剰労働力の「集積地」を分散させる政策をとったみたいですが、大阪は逆に釜ケ崎にすべて集めてきました。いずれの政策とも、「治安管理」のためであり、分散させることによって分割統治しやすくするか、1箇所に封じ込めることによってその地域のみを集中管理すれば済むか、という違いです。そのため、釜ケ崎には、東京の山谷地区と比較しても比べものにならないぐらい強力な治安管理が、先ほども述べました強大な西成警察署や街じゅうに張りめぐらされた監視カメラ網に代表されるごとくに敷かれてきました。

釜ケ崎に日雇労働者を集中させていく前には、たとえば阪神電車の千鳥橋や天六あたりにもミニ寄せ場があったのですが、職安行政そのものが、「日雇はうちでは扱わない。日雇をするのだったら“あいりん”に行け」といって全部追いやってしまった。そして、結果として表れる「怠け者、辛抱強くないし、すぐに酒におぼれる生来のダメ人間」といって、一般の人には、「怖いところですから近づかないで下さい。警察で対応します」と隠蔽策をとってきました。その結果、我々釜ケ崎日雇労働者の労働・生活環境は一向に改善されませんでした。

そうしたら、私たちだって人間ですから、持っていく場のない不満や怒りが爆発し、それが繰り返されます。一般市民はそうした状況がわからないから、「またあそこの連中は騒いでいる」と思い込む悪循環です。釜ケ崎のすさんだ状況がどうして生み出されているのか、どこに問題があるのか、しっかりと理解してほしいと思います。


個人責任論と連帯社会>

医療・福祉制度の分野も、景気のいいときには体を悪くしても更正相談所に行ってどこかの病院を紹介してもらい、1−2ヶ月入院して出てきても、またセンターに行けば何とか仕事を見つけることができました。問題点はいろいろありますが、無理をしてでも働きながら体をならして復帰するのも可能でした。今は、病院から出てきても仕事はなく、すぐに野宿しなければならない状態です。その繰り返しの中で、だんだん体を悪くして、道端で亡くなるか、病院や施設で亡くなるか、というコースをたどっているのです。

施設も、我々が入れるところは自彊館か天六の施設くらいですし、野宿せざるをえない1万人単位の人々を包摂することはできません。増設しようとしても、地域住民の反対がありますから、次々建てるわけにはいけません。きれいなビルを建てるといったら地域住民は諸手を上げて賛成するでしょうが、釜ケ崎の労働者の施設をつくるといったら、うちの地価が下がるとか子供がどんな目に会うかわからないからいやだとかいう話が絶対に出てきます。

大阪市も施設をいっぱい造って何とかしたいのでしょうが、どうすることもできない。結果、どの既存の施設も法の基準を超えていっぱいの状態です。そうすると、更正相談所の職員も「まだ元気そうだから待ってくれ」という対応になります。これ以上放っておくと死にそうだという人については、やむなく病院に入院させますが、基本的には、「もっと悪くなって死にかけてからおいで。それまで辛抱してくれ」という対応にならざるをえません。

野宿を繰り返すと、体がボロボロになるだけではなくて、精神的にも「ガタ」がきます。更正相談所に行っても何回も拒否されるので、最後には更正相談所に対して恨みを持つか、あきらめてしまいます。そうした中で、たまたま病院か施設が空いているから入れということになっても、以前の経緯がありますから、今度は本人もぐずって中々入ろうとしません。そうすると更正相談所の職員は、せっかく入れさせてやるといっているのにおまえは行く気がない、つまり体を治す気がないとレッテルをはり、「二度と面倒は見ない」ということになります。先ほどの監督署の話ではないですが、きちっと対応してもらえないので本人は、やけくそ気味に文句を言います。そうすると職員は「税金も払っていないくせに、うだうだ言うな、出て行け」というふうに言います。

税金に関して言いますと、皆さんは当然市民税・所得税とかいやでも納めていますよね。

納めないといけないという感覚を持たされている。ですがこの地域の労働者については、最初から納めてもらう対象からはずされてしまっています。ドヤに住民票を移してもちゃんと納めてくださいという通知もきません。一歩地域外に出てアパート生活をしますと、当然日雇といえどもこれは来るんです。私なんかも73年にきたのですが、当時は納めていません。よほどの事情がない限り、わざわざ納めに行く人は少なかったですね。私も市民税などをきちんと納めるようになったのは、結婚して子供ができてからです。正直なところ、納めてくれってこないのですから、最初はああいいなという面と、これは変だなと思っていた面があります。つまり我々釜ケ崎の日雇労働者は、市民・国民扱いをされていない前提にあるな、と思ったのです。最初からその対象からはずされていると。サラリーマンの人たちだって、他の税金や年金にしろ、ちゃんと会社を通じて強制的に徴収する仕組みをつくっていなかったら、皆が皆自主的に納められるかというと、私はあやしいと思います。強制ではないですが、きちっとした義務としてそのような仕組みを釜ケ崎でもつくっていたなら、もっと違ったかたちになっていたのではないかと思います。はじめから対象外にして不安定な生活をさせておいて、つまり権利を保障することなく義務だけ押し付けるといったやり方では、誰しも納得できないものがあります。「税金もまともに納めていないやつらは、施設か野宿で十分なんだ」という考えは、こういったところからも出てきているのではないでしょうか。

みなさんもよくわかっていると思いますが、百人の労働者がいて、百人が百人とも働ける社会構造ではないですよね。明治以降をとってみても、そのうちで働けるのは6・7割、きちっと安定しているのは5割以下という構造です。パートとかはありますが、結局何割かは完全失業状態にされていると思うのです。ところが、そういう今の世の中というのは、非常に理不尽な、不平等な社会だからとは、行政は言わないでしょう。自由で平等で非常にいい社会なのに、としか言いません。努力したら誰でもいい仕事につけるし、勉強したら大丈夫としか言いません。しかし現実は、安定した仕事につける人は限られています。大半が、パート・臨時工・日雇・派遣、大企業からの下請け発注に依存している中小・零細企業の労働者です。そうしますと、今度は根性がない、努力が足りないからだとか、個人の資質の問題にすりかえられてきます。野宿するにしろ日雇で不安定な生活をするにしろ「好きでやってんだろう。困ったからといって俺んところに言ってくるなよ」ということになるのです。確かにそういった人も見受けられますが、それでもって行政が開き直るのはおかしいと思います。

仮に私が日雇から違う仕事についたら、私に代わって誰かが日雇のところに来ざるをえない構造でしょう。不安定であろうがなかろうが、日雇労働は社会的に必要とされ、制度的に維持されてきました。今の産業構造の中で必要とされているから存在するのです。ところが労働行政は一貫して日雇という労働形態は本来あってはならないものという見方をとってきました。だから、今でも日雇を助長するような、それを再生産するような仕組みについては認知しないという対応をしています。また、日雇労働力を有効に吸い上げる装置としての手配師・人夫出し制度についても、違法だし本来あってはならないものといってきたのですが、最近の規制緩和の大合唱の中で、派遣業法なんかつくって原則自由だ、大いにやりなさいといっている。何のことはない、「派遣事業」だなどと言葉は違いますが、手配師・人夫出し業です。人入れ稼業です。どれだけいびつにピンはねなどの構造をつくって不安定状態でコキ使うか。ナショナルでもソニーでもどこでもいいのですが、労働者の能力を都合よく吸い上げて、いらなくなったらポイ捨てできる、そういうものとして、もともと釜ケ崎ではずっと昔から利用されてきたことなのです。

こういう行政の、建前と本音をペテン的に使い分けした対応の中で、釜ケ崎労働者は、なかなか言葉もしゃべれないし、文句もいえない生活を強いられてきました。人夫出し飯場での生活を見てみますと、70年代の後半までは、強制労働を強いる前近代的な暴力的な飯場が多かった。今も質的には変わりませんが、飯場の親父や兄貴分に「こら、そこのアンコこっち来い」というふうに扱われても、「親父、兄貴」といってへつらわないことには、仕事もままになりません。そういう環境の中でずっと働かされていたら、人間性そのものがそれになじんでしまい、どうしても普通の仕事では通用しなくなってしまいます。しかも、毎日が穴を掘るとか、運ぶとかの単純作業ですから、それで年をとるといまさら「はい転職してください」といってもダメですね。

この資料の最後のほうにも出ていますが、建設産業総体が、私がきた70年代頃というのは500万人体制でした。それから中盤には550万人となりまして、バブル最盛期には700万人になりました。製造業が百数十万人減ったなと思っていたら、建設産業が膨れ上がっているわけです。建設産業が全体の雇用の調整弁・受け皿としての機能を果たしていたのです。その末端で調整していたのが、日雇労働者であり、いわゆる釜ケ崎なのです。我々はそこで賃金をはじめ、労働諸条件の改善などをやってきたのですが、「もう建設産業は終わりだ」ということで、これだけ総体的に仕事量が落ち込むと、それもできない状況になっています。

ちょうど同じように、手配師・人夫出しも「もうだめだ」といわれているのですが、その経過を見てみますと、センターができた70年当初に、あいりん職安の所長は、手配師・人夫出しは確かに違法だけれども、社会的には必要なんだということで黙認していました。ところが、第一次石油ショックのあと、「建設労働者の雇用の改善に関する法律」ができていく過程で、労働行政は手配師・人夫出しを、業者と労働者が直接相対して労働条件を決めて雇用する「相対方式」として、公然と認める方向を打ち出しました。その結果、センター登録が前提なんですが、大手を振って登録する人夫出し業者が、近畿一円、あるいは全国から押し寄せ、ピーク時には2千数百業者にもなりました。今はもう大分減って、その半分くらいになっていますけれども。

実は、手配師・人夫出しの大半は、在日の韓国人・朝鮮人の人たちで、こういったアウトローの世界に押し込められてやっています。かつては被差別部落の人たちも、たくさんそういう業を営んでいました。我々は、そこに働きに行って痛めつけられます。そこの人夫出し飯場の経営者が韓国人だと、暴力飯場イコール韓国人、イコール韓国人は悪だというかたちで、我々日雇労働者の間では「憎たらしい」ということになってしまいます。社会的に見ると日本人が逆にいじめる立場なんですが、仕事の関係、経済的な関係においては、我々はボロ雑巾のように搾り取られて殴り飛ばされて、下手したら生き埋めにされる立場です。そういうところでのいがみ合いというのが、私がきた頃にはかなりありました。当然、差別感情というのもむきだしでした。

だから、韓国問題を取り上げるというと、労働者から石が飛んでくる覚悟がいりました。「おまえらなんで韓国人の味方をするんだ」というかたちで逆につるし上げられました。そういう重苦しさがありました。今は大分変わってはきていますが、やはりそういうタコ部屋的な搾取構造があるかぎり、口では「差別してはいけません」といっても、これは解決しようがないわけです。そのあたりの問題も考えて、この悪しき労働環境を変えていかないことには、我々自身の内面も引き上げられません。ひいては、釜ケ崎全体に対する差別もなくなっていかないのではないかと思います。そういう意味でも、最初に大前提としてやらないといけないことは、安心して働ける民主的な労働環境の確立です。日雇でもなんでもいいのです。とにかく働いたらきちんとお金をもらえる、安くてもいい、そういうふうに整備していくことです。そして、今一番問題になっている就労の不安定さをどうするかです。働きたくても働けない、圧倒的に仕事が不足していますから、雇用の創出を図ってどう安定していくか、イコール生活を安定させるかということです。現実的には、就労の安定化をはかる中で、悪しき労働環境にメスを入れ、整備していくということになるのでしょうが。

何回も言いますが、行政サイドはこういった対策を一切やらなくて、「個人の資質」「人夫出しで働くのがいやだったら、日雇やめて出て行けばいいじゃないか」という話をされてきました。よく部落差別と対比されまして「あんたら出て行ったらもう別に背負うものはないのだから、出て一生懸命がんばればいいじゃないか」という話をされるのですね。中にはそれで出て行って、逆に親方になって自慢話をする方もおられます。「わしも昔は釜ケ崎にいて、昭和30年頃はたらいとったんや。これじゃあアカンと思ってわしはがんばって、今こういう形でやっている」と。でも、その人が我々をもう少しいい形で雇ってくれるかというと、同じやり方ですけれど。だけれど、大半の人はこの親方みたいにつぶしがきかないし、ある意味では、ここに排除されてきているわけですから、ここの釜ケ崎の実情に見合ったかたちの生きる仕組みを整備してつくってもらわないことには、まず無理だろうと思うのです。

日雇労働者だけでやれるものではないですし、また行政だけでやれるものでもないですから、社会的に全体でカバーして、みんなで取り組んでいってもらわないといけないと思っています。

ある意味で、大きく見ると釜ケ崎が存在するかぎり、全体の日本における勤労者の生活というのは、いつもびくびくしていないといけないと思っています。というのは、極端に資本の側から見ると、釜ケ崎というのはより劣悪で悲惨で汚ければよりいいわけなのです。見せしめですから。「君もああなりたいのかね。文句があるならもういい、やめていいよ。あんたもあそこに行きなさい」という脅しになりますから。誰だって、そういう惨めな汚らしい、経済的に見ても嫁さんももらえない、家族ももてないような、そんな生活をしたくないわけですから、言いたいこともいえない、賃金アップしてくれということも言えなくなります。そういう構造であろうと思うのです。だから大きく見たら、そういうものとして釜ケ崎はつくられてきたのではないかと思っているのです。だから、こういった差別と分断の構造にのっかかって、人を押しのけて自分ひとりだけエリートになっていけばいいという人は別ですが、これからの日本社会を、みんなが安心して働いて豊かに生活していけるような社会にするためにはどうつくっていくかということを考えた場合、釜ケ崎みたいなところをどうしていくのかというのに取り組んでいかなければならないと思っているのです。そういう視点で、いろんな事業をみなさん参加してやっておられると思いますので、考えていってもらいたいと、まずお話しました。


失業の対策は雇用で

あと、今抱えている問題ですが、バブルの崩壊以降、高齢の日雇労働者は、真っ先に切り捨てられてきました。今はもう、40代、30代でも、無技能者というのはだめです。建設産業総体がリストラということですから、よほどの「技能・コネ・顔」がなかったらダメです。いくらその人夫出しの親方とコネがあっても、その人夫出し自体が上の業者、ひいてはゼネコンの系列から安定して仕事をもらえるようなところとつながっていなかったら、やはりダメなわけです。そういう状況になっておりますし、さっきも言ったように転職もできません。つぶしがきかないという構造がありますから、きちっとそれに見合った対策をやってもらわないとどうしようもないと思っています。

ところが行政サイドは、いわば公的就労になりますが、自治体あるいは国が仕事をつくってやろうというやり方をしません。戦後の失業情勢の中で、失業対策法ができ、生活保護法を作り、いざというときにはこの二つの法律でもって失業・困窮層をうまく包摂して、何とか緊急時にはフォローしてやっていこうかということできたのですが、失業対策法は、打ち切られて久しいわけです。

この時代、生活保護法だけで包摂するというのは、非常に難しくなっています。戦後プロペラ機であろうとも、いわばこういう形でこっち側は失業対策法、向こう側は生活保護法と両翼にてうまく飛んでいた飛行機が、今は片翼なわけですから、これにみんながぶら下がれるかというと、ぶら下がりようがないわけです。落ちるのが分かっていますから。生活保護法にて対応しようとしますと、その対象者は、生活水準から見ますと今すでに潜在的には120−130万人いるだろうと、ある先生からうかがいました。釜ケ崎だけを見ますと全体が2万とも3万人とも言われていますが、生活保護でさっと包摂して面倒を見るのは簡単だということです。区役所の人も、「ただしこれっきりですよ、という形でしたら」とおっしゃっていました。ところが、際限がないわけです。次から次へと落ちこぼれて、どんどん来るわけですから、3万で済めばいいのですがそれがどうなるかわからないということと、社会的に見て、いざ失業して困っている、野宿して困っているからということだけでは、なかなかパッと生活保護をかけようがないのではと思います。

からだが完全に具合が悪いとか、この人は就労不能だとか、内臓なんかもボロボロになっていてどうすることもできないという人は、すぐに保護することができます。けれど極端な例を出して申し訳ありませんが、たとえばあり金前部はたいてパチンコですってんてんになり、仕方がないから野宿してセンターの周辺でごろ寝をしていても、本当に困っているのかどうかは分からない。現実的には病気・「障害」の人以外は、なかなか生活保護を適用してもらえませんが、生活保護法では何らかの事由によって困窮している人すべてが対象ですから、パチンコやバクチをやってすってんてんになっている人も、ある意味では対象者です。でも本当に困って体がしんどいという人、あるおっちゃんなんかは70歳すぎても手足が動くあいだはアルミ缶を集めてでもがんばるという人もおります。痛い足を引きずり、がんばっている人もおります。1日12時間夜通し歩いてアルミ缶を集めて200円とか300円の収入を得、センターの前で50円20円30円で売っているコンビニの出物を買って生活している人もいます。これらの人も対象ですし、さっき言ったパチンコですってんてんの人も対象になっていて、どう選別するかということです。実際行政の窓口とすれば選別のしようがないのです。だから、そういう問題もかかえて行政の方とすれば、いきなり全員なんでもかんでも生活保護を施すわけにはいかないということになります。

ではなおさら、人間働けるのが一番いいだろうということです。

しかし就労対策をやるといいますと、国のほうが絶対に反対してやらない。もう国のほうで諸個人の仕事の面倒を見るということはしません。戦後50年以上たっているのですから、いまさらオムツを替えたり、ご飯を口に運んでいくような、そういうことはやめようということで、そもそも80年代中期から絵を書いてきてやっと失対を打ち切ったんだ、いまさら失対なんか復活できるかわずらわしいというのが、行政の本音でしょう。失業対策事業は、基本的には、固定化し、硬直したものになる恐れがあるからいやだということでしょう。もう一方で、労働組合ができてそれとのあつれきが高まった経過があります。そういったことになるのもいやなんだというのもあるみたいです。

では、大阪市内で1万数千人といわれている野宿者をどうするのか。生活保護法では、健康でも困っている人には法を適用して、病院・施設あるいは居宅保護などいろんな形でやらないといけませんという法律になっていますから、まずは生活保護法を適用しなさいと、さまざまな団体ががんばっています。私たちのほうは、基本的にはやはり仕事だろうと思います。どんなに歳をとってもちゃんと働けるような仕組みをつくってもらったほうが一番いいのではないかと考えています。仕事をして健康を維持してもらったら、医療費とか治療費とかも少なくなると思いますし、清掃や環境整備など社会にとっても金を出すだけではなくて、それが市民生活の快適さとなって返ってくるのですから、とても有益なものになります。

今、地区内に投入されている福祉費とか、雇用保険の失業給付金の支給総額は、200億円とも300億円とも言われています。たったわずか0.62平方kmの地域にすむ日雇労働者、ドヤの収容能力が満杯でも1万9千人。その人たちに対して年間2〜300億円の金というと泉南市の予算とほぼ同じくらいです。議員先生方は「そんなに税金を投入してなんでよくなれへんねん」とおっしゃいます。「ドブに捨てるようなもんや。太平洋にいくら銭ばら撒いてもしゃあないやないか」ということで、やめてしまえというのが大半だったんです。

ところが、よく仕組みを考えてみますと、労働行政はまったく責任をとらなくて、全部民間の手配師・人夫出しまかせなんです。景気任せ、お天気まかせ。手配師・人夫出しはボランティア団体ではないですから、必要なとき以外は雇いません。ゼネコンもそうです。彼らに責任を追及しても仕方がない、限界があります。つまり労働行政は何もしなくて業者任せにし、その結果としてみんな切り捨てられてきているんです。

他方で、民生行政があります。労働は大阪府、民生は大阪市という形でやってきたのですが、大阪市のほうは市立更正相談所を通じての施設入所か病院の紹介だけで、居宅保護は基本的に認めないという形できたのです。そうしますとさっきも言ったように、保護施設はなかなか満杯で入れないから空き待ちです。空き待ちの中で、みんな病気が進行して、行路扱いで救急車で運ばれていきます。さっきの資料でも全国一番の搬送数だと書かれていました。その結果、病院に入院したら一人1ヶ月に最低でも30万円はかかるでしょうし、平均70万円くらいかかるといわれているのです。公園や道端で寝させて、わざと病人にさせて、儲けているのは病院だけなんです。今は医学が進んでいます。2ヶ月ないし半年たったら大概の病気は治りますからひどい病院なんかは、もうおいしくなくなったら、次の系列病院に廻してしまうというのです。最初ケガで入院をしていたのが、次は肝臓が悪いからというので、系列の内科病院に連れて行って、いくらでも治療費を取ります。

ある病院なんかは、腹か胸かしらで救急車で運ばれてきた人に、上から下まで見て「あ、あんたおでこをすりむいている。CTスキャンをとろう。」と言ってきたらしいです。本人は「これは酔っ払ってすりむいたやつだから関係ないです。私はここを見てほしいんです」と言ったらしいんですが、医者は「アカン」といって無理やりCTをとったらしいです。これで莫大な医療費を請求できるわけでしょう。医療・福祉費が100億円・200億円といわれているのは、結局そういう形でそういう病院だけが儲かる仕組みになっているからなのです。だから、釜ケ崎周辺には病院がたくさんあります。あまり病院の悪口は言いたくないのですが、86〜87年頃に病院関係者から聞いた話では、普通一般の病院を立てて元を回収するのに5年から7〜8年はかかるというのですが、釜ケ崎労働者を対象にすると2〜3年で回収できると。それくらいおいしいと言われていました。

だから、いくら行政がいいことと思って施設とか病院に入れてあげても、結局病院がもうけるだけということです。もっとこまやかに地域での居宅保護とか、あるいは開かれた施設という形でうまくみんなが共同して助け合って生活できる仕組みをつくったらと思うのです。今65歳以上の人に居宅保護をかけていますが、一ヶ月にかかる費用は一人12〜3万円くらいです。ところが施設に入ってもらうと、これが24〜5万円になってしまいます。その代わり、施設はきちっとこまやかなケアーをして面倒を見ます。確かに金がかかると思います。ただ金額だけを見ますと、居宅にしたら施設一人分で二人養えるじゃないかという話になります。ましてその前に就労対策をきちっとやって、生活保護とセットにして、働きながら健康を維持しつつ、自立した生活に努めてもらえば、救急搬送も減るし、行路で入院する必要もなくなりますから、今の医療・福祉費は半減すると思います。税金というのは、そういった生きた形で使うものではないかと思うのです。

ところが、今の仕組みというのは、さっきも言ったように、そういうふうにはできていません。「おまえたちにはそういう生活ができない」という偏見が前提にありますから。まして行政は、居宅保護なんかにしたらバクチとパチンコと酒で全部だめになると、最初からそういう考えなんです。昔、居宅での生活をやらせて、ダメだったからこうしたのだというのではないのです。最初から、おまえらはダメだからという形で、戦後の釜ケ崎の政策というのは作られてきたのです。そうした結果、まずドヤに泊まれる人がいなくなっきます。働くことができず収入がないからドヤに泊まれません。ドヤの前とか道端・商店街で寝るということになります。お金がないから、商店街で物を買うこともできない。結果、商店街は廃れていきます。だから、いくら税金を投入しても、効果はあがらず、釜ケ崎の中は空洞化して活気はなくなるし、逆にちゃんと生活しようという人がいても、住み辛くなって出て行ってしまいます。

業者もそうなのです。痛し痒しなんですけれど、人夫出し業者がそこそこきていますが、仕事が少ないゆえ、足元を見て「おまえら飯が食えるだけでもありがたいだろう」ということで、朝の4時から手配されて、仕事から帰ってくるのは夜の7時から8時なのです。洗濯して飯を食ってドヤに入ったら、バタンキューです。毎日朝4時にセンターに出て仕事を探そうと思ったら、朝3時にはおきないとダメですし、遅くとも夜9時には寝ないと体が持ちません。これが人間の生活かということです。昔からそうですが日銭は確かに9千円か1万円はもらえます。その代わりボーナスも何もなしですが。そういうことについて追及するとこれまた業者が釜ケ崎から逃げてしまいます。

規制緩和というのが今のはやりですが、労働法総体も規制緩和です。つまり業者にとってのみ都合のよい規制緩和が行われています。今求人活動というのは、どこでしてもいいようになっています。建設労働者の雇用改善法の中で行政が認めていた、いわゆるあいりん地区とか、あるいは尼崎の出屋敷、神戸の新開地、東京の山谷とか、日雇求人についての特定地域があるのですが、日雇求人をおこなうには、センターや職安に業者登録し、指定された場所にてやりなさい、と表向きはそうなっていたんです。今は直接事業主がおこなうのであれば、梅田駅前でもやってもいいし、京橋駅でやってもいい、どこでやってもかまわないのです。そうすると、もぐりの税金も払わずに人をだまして、ひと現場やって金だけもらったらすぐにトンコするような業者がはびこって求人活動をやっているのです。これを取り締まろうと思ったら、しぶしぶ釜ケ崎にきている業者も逃げかねない、そういう状況ですから、痛し痒しで取り締まりもなかなかやれないのです。ですから、行政も放ったらかしで困ったとしか言いません。

儲けているわけではないのですが、なんとか維持、あるいは悲鳴を上げているのは、受け入れ施設です。施設はもう満杯で、逆に言ったら基準を超えているのです。厳密に言えば違法であろうと思います。この部屋は10人ですというところを、大阪市も道端に寝させるわけには行かないから、ベッドをもう少し入れて、何とか面倒見てやってと無理を言ってきます。施設側も人命には替えられませんから、20ベッドに増やして、狭いけれどもいてもらおうか、ということになります。10のところを20にするもんですから、いびつになります。なかなか難しい問題も出てきますが、良かれ悪しかれ結局は施設と病院が維持できるだけで、街の中は閑古鳥が鳴いて、商店街は廃れてしまうということなのです。みなさん方が払っている税金が、そういうところだけに集中するという形になるんです。そういう現状があります。

それを転換する方法として、さっき言ったように、就労を軸にしていかないといけないということです。そのためには、やはり公的就労をつくらないと仕方がありません。私たちも仕事保障を求めて建設業協会に行ったことがあるのです。そうしたら、「来るところを間違っているのではないですか。うちは行政機関と違います。ボランティア団体じゃありません」と。「あくまでも営利団体です。あなた方に対しては、日々という形で責任を果たしております」と、はっきり断られました。それはそうです。今の法律では、日々使用した日雇を、ずっと責任を持って保障しなくてはいけないという法律はないのですから、そのために使い捨てできる便利な制度=日雇制度があるわけですから。

かといって、今求人もきているのですよ。たまに一般のところからもうちの NPOに来ます。「雇いたいのですが、野宿者だから安くていいやろ」という感覚があるのです。普通の会社で、組合があるところもあるのです。連合傘下の組合を抱えている業者も求人にきたことがあります。「運転手組合から雇い入れたら1万3千円から5千円かかって高いので、7〜8千円で使いたい」と。「野宿して困っているんやろ、つこうてやる」という発想です。7〜8千円でもありがたいけれど、我々は了解とは言いがたいです。ややもすればそのような形で送り出していったら、今のそういう運転手の賃金水準を押し下げることになりますし、そういうかたちではやりたくないということもあります。とにかくやってくる業者というのは、ほとんどモラルがないのです。もともと私は、資本主義総体にモラルを求めること自体間違いだなと思って言わないのですが、ただヨーロッパのそういう全体の仕組みを見たら、いくら資本主義といえども、キリスト教社会というせいなのかもしれませんが、結構モラルがあると思うのです。日本の企業社会というのは、本当にモラルがないといおうか、典型的には、モグリの業者が3千円ぐらいで「おまえら野宿して困っているんやろう」といってセンターに求人に来る場合もあるんです。また、今は若くてかなり優秀な人間しか雇わないというところばかりですから、つぶしのきかない、もう50歳以上の我々が就職できるわけがないのです。ところが国のほうは、あくまでも常傭化促進、常傭になってもらわないと困るということで、今も自立支援センターの出口には、職安からの人間が派遣されて、職安とタイアップして就職活動をやっているのですが、ほとんど就職できておりません。

だから、どうしても公的な就労をつくって、それをやらないと、いずれにしろ税金で面倒を見ないといけないのですから、非常に下劣な言い方をしますと、ただ飯を食わせてあそばせて、税金で養うか、おなじ税金で養わないといけないのなら、やはり社会的な役割を果たしてもらって、街をきれいにしてもらうとか、行き届かないところを掃除してもらうとか整備してもらうとか、そういう社会的に必要な事業をつくって仕事をしてもらいます。そういうふうにちゃんと働いて生活してもらう、という形でやらないことには、税金を払っている人が納得できないでしょう。これからの社会のあり方としては、困ったらなんでもかんでも、生活保護法があるから全部丸抱えでやるんだといっても、そうもいかないでしょう。そうなったら、まじめに一生懸命がんばって働いている人たちが、腐ってくるのではないでしょうか。その問題をトータルに考えて、行政に生きた政策をつくってもらいたいと、今動いております。

また、人間そういう形で支援したからといって、一度ぐちゃぐちゃにされた心というのは、なかなか回復しません。だから行政には、よく「自分たちがあえて野宿を強いて排除してぐちゃぐちゃにして、いびつな構造のところで生活させた結果なのだから、これは一生面倒を見ろ。ただしこれからは同じことが繰り返されない仕組みをつくってやってほしい。」というのです。私は、その反面教師としても、このひとたちの面倒を見つづけなければいけないよ、との話もしております。

今センターでの現金求人は、盆明けでも3千人ちょっとは出ているんですが、その大半はもうすぐなくなってくると思います。70年代前半までは、センター求人も港湾とか運輸・製造・建設と、それぞれの職種がありました。76年に建労法ができて以降というのは、公共事業依存型ですから、9割方建設産業になってきました。建設産業が、他の産業から落ちこぼれてくる人たちの受け皿になっていたのですが、この建設産業も、これからは縮小していく方向ですから、切り捨てられた労働者は、ますます行き場がありません。だから私は、行政に対して乱暴な言い方をしたこともあるんです。結局大阪府に言っても大阪市に行ってもお互いが責任のなすりあいをやっていて、面倒見るとも見ないとも言わないからです。昔、戦前の恐慌時代には、移民政策という形をとりました。満蒙開拓団なんていうのも、そうではないかと思いますし、ブラジルとか中南米へと、移民政策で一定解決しようとしました。今の時代は、そういう政策も取れません。では、どうするか、極端な話、資本の論理からすると、いらないやつに飯を食わすのは無駄なのです。整理したいのです。しかし、今の時代、まさかナチスのように、どこかの焼却炉に連れて行って、みんな焼き殺すというわけにも行きません。いったいどうするんだと詰め寄ったのです。結局そういうこともできないのだったら、きちっと生きてもらうような施策をつくってやっていかないと仕方がないのではという話をずっとしてきたのです。

ところが、やはりいろいろと利権が絡む社会ですから、先ほどの医療費の問題ですけれども、私は病院とかお寺さんが儲かるような世の中はダメだろうと思っているのです。極端な話、そういうところからも反発が出てくるかもしれません。それに依存している人たちも多いかもしれません。

その辺の問題も含めて、やはり行政が大鉈を振るって、働きながら生活できる仕組みをつくってもらわないといけないと思っています。ただ、いくら歳をとってもみんながんばる、といっても、事情の分からない一般の人から「野宿しているのは、働くことが嫌いでなまくらだからだろう。そういう人たちに仕事を与えるとはどういうこと?おかしなことを言うんじゃないよ」と、私もかみつかれることがあります。「あの人たちは好きで酒かっくらってごろごろして、どこに働く要素があるねん」といわれたりもします。だから、実際にいくら口でいっても、理解してもらいようがないわけですから、具体的に事業化して、本当にきちんと働くし、怖くもないのだというところを、まずやってみせないと仕方がないだろうということです。

そう言うことで、やっとこの間、府・市にて高齢日雇労働者特別就労事業などをつくってもらって、55歳以上の人たちが登録し、輪番紹介で毎日働きに行ってもらいました。保育所なんかもずっとペンキ塗りなどに行かせてもらっています。最初は保育所の先生方も「子供が大丈夫か、暴れたりしないか」「子供にへんなこといわないだろうか」と思われていたようです。だけど、ちゃんと私たち指導員がついていってやっていますから、今のところそういう問題は起きていませんし、けっこう喜んでもらっています。雨が降っても仕事はカッパを着てやってますし、暑い日照りの中でも、麦わら帽子をかぶってやってもらっています。実際にそういうのを見てもらうと、怠け者とは違うのだな、となりますし。これからもいろんな事業をする場合でも、具体的にそういった仕事をつくっていって、その上で働くのか働かないのかを見極めてもらわないと、今までにつくられた偏見をベースにして、いいのか悪いのかとされると、たまったものじゃないなと思うのです。そういう形でいろんな事業を手がける中で、いろんな人に理解してもらって、どれだけ有効な施策をいっしょにつくってもらえるか、ということでがんばっています。

もう一点、ちょっと補足して人夫出しの構造について話します。先ほど手配師・人夫だしには在日韓国人・朝鮮人の方が多いといいました。よく賃金不払いや労災もみ消し、暴力事件等の相談を受け、いろんな飯場に出向いていったのですが、人夫出し飯場の経営者たちは、労災をもみ消したりしてはいけないということについて「何でやねん」という感覚でした。「自分の不注意で怪我したのを何で面倒見んとアカンねん」「また日本人が弱いものいじめに来た」といって、一世の親父とおかみさんに大分かみつかれたことがあります。二世の息子さんが「親父、今はそういうやり方はダメなんだ」といっても、なかなか納得しませんでした。いろいろと話を聞いてみると、戦前、日本に連れてこられてどつかれながら強制労働をさせられたことや、戦後本国に帰ろうと思い下関まで行ったが帰れなかったこと、仕方がないので日本人に叩き込まれたやり方で一生懸命がんばってきたことなどを聞かされました。日本人と同じ事をしてきただけなのになんで文句を言われるのか、納得できない様子でした。またある人からは、どんなにがんばって大きくなっても、市の入札を受けられるようになるには、日本人にならないとだめなんだという話も聞かされました。

労災などは、ゼネコンそのものがよくもみ消しを図ります。それがうまくできないときは、下請け業者に責任を押し付け、「おまえらで金を出して処理しろ」ということになります。不払いの原因も、元方が金を支払っていなかったケースが多々ありました。人夫出し業者が元方に文句を言うと、「もうおまえのところは使わない」ということになるわけです。結局彼らはどんなにがんばっても、元方やゼネコンの都合によって翻弄される位置に押し込められているわけですから、余計にアウトロー的にならざるをえません。彼らも社会的な差別構造の中で他につぶしがききませんから、どんなに嫌われても開き直って人夫出し業をやらざるを得なかったのです。

そうしたリスクを背負っての仕事ですから、どうしても労働者からのピンはねもきつくなり、結局彼らと我々労働者が末端でけんかをさせられて、どちらかが泣きを見るはめになります。ゼネコンはちっとも困らない。これではいかんということで、人夫出し業者のグループなんかとも話し合ったこともあるんです。とにかく働いた賃金はきちんと支払う、労災もきちんと面倒を見るという形で業者としての質を高めてくれないことには、社会的にこうむっている差別も、労働者がもっている怒りや差別的な感情もなくなってはいきません。私たちも克服できるようなものをつくっていきたいという話をして、大分進展した経緯があります。

今みたいに景気が悪いだけではなく、完全に構造的におかしくなってしまうと、先祖がえりしてしまいました。今大半の飯場は仕事もないのに、労働者をほぼ満杯にして詰め込み、飼い殺しの状態に置いています。かつての賃金の半分で飯場代で全部吸い上げ、「野宿するよりましやろ」といわんばかりに、飯場内アブレを強いています。こういった問題もひっくるめて、本当にどういう状態になっても野宿しなくてもいいような、きちんと働いていけるような、そういう就労構造、労働形態を最終的にはつくっていかないことには、どんなに福祉的充実を図っても、限界があります。福祉政策というのは、基本的にそういうところから生み出されてくる、ケガをした人とか、病気になった人たちをうまくフォローしていくような対処療法的な領域ではと思っています。釜ケ崎の大きな現状から見たら雑草の上っ面だけをきれいに刈り取っても、根っこから掘り起こさないかぎり、問題は解決しません。大きく見ると、野垂れ死にを生み出す諸悪の根源は、悪しき就労構造にあると思います。これをどうつくりかえていくか。日本のひとつの産業構造というか生産様式の、国家を揺るがす問題ですから、これはとてもではないけど革命をするしかないじゃないですかと、大阪府の職員に言われたことがあります。釜ケ崎の現状からする課題は、それぐらい根底に大きな問題を抱えているということです。

だからといって福祉の領域はどうでもよいということではありません。緊急性も含めて、なくてはならないきわめて重要な領域です。この分野においても現状では、高齢・野宿者に十分に対応しきれておらず、早急なる充実化が望まれています。従前からの施設も当然必要ですし、拡張もしていかねばなりません。今痴呆老人も多くなってきていますし、細かくグループホームをつくるとか、そういった人の面倒を見るようなグループなどを育成して、町内会が連動してやっていけるような、街ぐるみで全体で助け合って生きていけるような仕組みができたらな、と思っています。

現実的に担っていただくのは、一番最先端でやっておられる福祉のエキスパートのみなさん方です。どういう形でやっていこうかということで、考えていただければと思っています。最後ですが、よろしくお願いします。