野宿生活者と市民との「共生論」について

                         釜ヶ崎資料センター 松繁逸夫

1.野宿の現状を巡る意見の対立

 「地理学は、地域の資源を目的に沿って位置付ける側面を持つものであるが、今日の各報告には、その視点が欠けているのではないか」という疑問がフロアーから出されたのは、大阪市立大学都市研究プラザ第6回公開セミナーでのことであった。(注1

 4つなされた報告の内、3つは野宿生活者支援活動を軸にしたものであった。報告者の意図とは別に、野宿している場所の占有を前提としたまちづくりという「受け取り」から出された疑問であったと考えられる。

 勿論、3人の報告者にはそのような考えはないのであるが、野宿生活者の「自立支援」が困難を極めたものであることを、野宿生活者への思い入れを込めて(関わるものとして当然のことであるが)の報告が、前述の「受け取り」を招いたのであろう。

 しかし、このすれ違いは、報告者がなした報告の質に責任があるのではなく、野宿問題が長期にわたって解決しないという現実、公園や河川、公共空間に長く野宿生活者がとどまっているという現実から生じたものであると考えられる。

 野宿問題の長期化は、野宿生活者やその支援者から、十分な対策が打ち出されるまでは、現状の野宿は認められるべきであるという訴えかけがなされ、いうならば、暫定的野宿生活者と地域住民との共生が求められるかのような運動イメージを生み出している。たとえば次のような主張である。

 

 さまざまな社会的施策が充実し、野宿をしないでもよい社会が実現するのは喜ぶべきことです。しかし野宿を余儀なくされる人が存在する以上、公園から排除することはゆるされません。ほかに行き場のない人に、「公園から出てシェルターか自立支援センターに入れ」というのは、収容を強制することにほかなりません。不十分な対策しかしないまま、人目につく公園から追い出すことは、野宿の問題を隠蔽し、野宿者の存在を抹殺しようとすることです。私たちはこんな大阪市のやり方に断固として反対します。(『ぶっとばせ!弾圧・排除12・1集会』呼びかけビラ/反弾圧9・27救援会)

 

 なお、日本橋公園の野宿者と近隣住民との関係は非常に良く、近所のマンションの住人の犬を夜の間テントで預かったり、逆に住民がテントの人の犬を散歩させたりという交流が続いていました。公園の清掃も毎日行ない、近隣住民から「あんたたちがいると公園がきれいで助かる」「あんたたちがいるから公園に夜来ても安心だ」と言われていました。野宿しているために近隣住人に著しい迷惑をかけたという事実は全くありませんでした。(日本橋公園テント破壊の裁判への支援・カンパのお願い/日本橋公園裁判を支える会)

 

 一方では、同じ現実から、自立支援の対策に一定の理解を示しながらも、公園の適正化の加速を求める声もあがっている。たとえば大阪市会において船場太郎議員は次のような発言を行っている。

 

 今、お伺いしましたら3分の1に減ったと。3分の1になったか、えらい減ったなというふうに思いますけども、私は毛馬桜之宮公園のすぐ近くに住んでいるんですけども、しょっちゅう、この公園には行きます。行きますけども、そんな実感がないんですね。市長公館の裏にはひょうたん池というところがありましてね、そこにはホームレスの大邸宅がございまして前が池やからアヒルまで飼うてはるんですけども、アヒルを飼うていたり、猫を飼うていたり、犬を飼うているわ、鶏も飼うてはりますな。今、いろんな動物の病気が心配されますんで、その辺も感染のことが大変心配なんですけども、ただ、市民の目から見れば、何かほんまにやっとんのかいな、物足りないなというふうなところが本心ではないかなというふうに思います。

 公園側としては、きょう来てもらってえらい申しわけないんですけども、撤去勧告の方をやっていただいているとは思うんですけども、ちょっと優し過ぎるの違うかなと思うんですね。健福局側の方はこれも優しさ一本ですわ。「どないでっか、お体の方は大丈夫でっか」というふうなことで、「もし、よかったら支援センターへ入ってくれまへんか」というふうなことで、いろんな優しさがあろうかと思うんですけども、公園側はちょっと強気に出なあかんの違いまっか。

 物事にはあめとむちというのがありましてね、やくざの取り立てでもそうやて聞いていますよ。1人の方は「あほんだら、ぼけ」と、こう言うやつがおったら、横で「まあ、まあ」と言うのがおって、このバランスでうまいこと取り立てを成功させているというふうなところがありますんでね、ですから、ちょっと公園さん、ゆとりとみどり振興局の方は少し厳しさがあってもいいんではないかなというふうな気がいたします。今後、公園の適正化に向けて一刻も早く解決できるように何とか対策をとってもらいたいと思いますが、その辺はいかがですか。「平成18年3月定例会常任委員会議事録(民生保健・通常予算)-0320日−06号」

 野宿という一つの現実から生まれた対立は、2つの「共生社会」イメージの対立と見ることもできる。

 一つは、生活の質に重点を置き、「野宿生活は、人を社会から排除した結果であり、野宿状態解消なしには共生社会とはいえない。」というものであり、いま一つは、人の意志に重点を置き、「現実的な選択として野宿生活を続ける人がいる限り、多様な生き方の一つとして尊重されるべきで、多様さを容認できない社会は、共生社会とはいえない。」というものである。

 著者は、この2つの間で揺れ動き、野宿生活者と野宿にいたるおそれのある人々を支援することを目的とするNPO法人釜ヶ崎支援機構事務局長の職を投げ出したものであるが、このたび、市内野宿生活者の一面を知ることのできる大きなデータに(注2)接することができたので、あらためて、データによって野宿生活者の現状を確認し、2つの共生社会イメージの折り合い、またはどちらか一方の選択に決着をつけたいと考えている。

 

2.なぜ、野宿生活を「多様な生活様式の一つとして容認せよ」なのか

 野宿生活者が、「自分たちの生き方も認めて欲しい」というようになった背景は、どのようなものであろうか。

 表1は、巡回相談が、2000年に把握した野宿生活者1,311人と2005年に把握した2,795人の野宿期間を区分し集計した結果である(注3)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 2000年と2005年を比較すると、4年未満の割合は2000年の81.9%から2005年の53.8%へと大きく減少しているが、4年以上の野宿期間が占める割合は高くなっている。特に、610年は4倍近くになっている。

 大阪市内の野宿生活者総数は、19988月の8,660人(注)から、2003年国による全国調査での6,603人、そして、200510月の参考数値3,540人(注5)へと減少し続けているが、路上や公園にとどまり続けている人々の野宿期間は長くなっている。野宿生活は、一つの生活パターンとして定着したと見なさざるを得ないであろう。

 長期化は、多くの野宿生活者がテント・仮小屋生活に定着したことを予想させる。市内の公園や道路のテント・仮小屋は、2000年の3,816から、2005年の1,577まで、2,239も減少したとされている。(6)

 2003年全国調査での大阪市内野宿生活者は、6,603人であった。その年の市内の公園や道路のテント・仮小屋数は2,224で、野宿生活者数の33.7%にあたる。2005年のテント・仮小屋数は、1,577で、野宿生活者参考数値3,540人の44.5%にあたる。この数字は、表1、2005年野宿期間4年以上の合計46.3%に近い。野宿生活者総数の過半に達してはいないが、野宿生活者の居住形態で、テント・仮小屋の占める割合は増えている。

 西成公園で仮小屋生活する男性は、「他に方法がないから、ここで生活している。誰も好きこのんで野宿するものはいない。公園の利用者の迷惑にならないよう気をつけている。生きる場所として認めて欲しい」という。

 また、テント・仮小屋を持たず、路上や建物の間で野宿している野宿生活者は、テント・仮小屋を作っておらず、誰にも迷惑をかけていないことを誇りとし、だから、一つの生き方として認め、干渉しないでくれと主張する。(釜ヶ崎支援機構お仕事支援部に、求職登録に来た72歳男性。生活保護(居宅)申請を勧められて)

 図1は、巡回相談が2005年に把握した野宿生活者の野宿期間と年齢構成をクロス集計表(注7)を図示したものであるが、野宿期間の長短にかかわらず、50歳代の占める割合は大きい。また、野宿期間が長くなると、50歳未満は減少し、60歳以上の占める割合が多くなっている。野宿期間11年以上で、60歳以上の占める割合は38.6%にもなっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 加齢により、「人生の選択肢=求職、家庭(ホーム)の再構築等」が狭まっている、あるいはほとんど失われているという自己認識が、現状野宿生活の容認を訴える底にあると考えるのは、穿ちすぎであろうか。

 40歳代は、1年未満に占める割合は22.9%であったが、1~3年では19.4%と減少しているものの、4~5年の17.8%、6~10年の16.2%11年以上の16.5%とほぼ一定割合を占めている。1995年から2000年にかけて、30歳後半、40歳前半であった人たちが、野宿となり、今日までその状態で有り続けていることは、すでにその年齢にして、「人生の選択肢=求職、家庭(ホーム)の再構築等」が狭まっていると感じざるを得ない社会状況が存在すると指摘するのは、やはり穿ちすぎというものであろうか。

 

3.野宿生活者は、何を求めているか

 表2は、巡回相談員が野宿生活者11,547人から聞き取った要望を、整理し一覧にしたものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 単独の項目としては、「無し」の37.4%が最大であるが、「自立支援センター入所」希望と「仕事のよる自立」をまとめると43.2%となり、「仕事による自立」が要望の最大グループということになる。 要望「無し」のグループが、「このままでいい」ということであるかどうかは、判断しにくい。なぜなら、巡回相談事業が福祉相談等のサポートもおこなうとしているものの、自立支援センター入所勧奨に力点が置かれていることは疑いようが無く、それに乗れない、あるいは乗りたくない人が「要望無し」と答える可能性が高いと考えられるからである。

 自立支援センターは、一定期間施設入所し、求職活動をおこなって就職、生活費を貯めて退所することを目的としているが、成功例はそう多くない。次の「経路図1」は、巡回相談員が行政機関等から依頼を受けて面接し、「仕事により自立」要望だった3,074人の内、結果の記録がある761人の経路を示したものである。761人以外の、2,313人については、1回の面接記録だけで、後は不明である。この不明の多さは、注目に値する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 761人の内、733人が自立支援センターへ入所、その他は、ケアセンター利用後不明の13人、福祉施設入所の10人、入院4人、居宅保護1人等となっている。

 このグループで、自立支援センターに入所し、就職したのは、268人(36.6%)である。この数字が大きいか小さいかの評価は別にして、必要な支援システムであることは間違いない。しかし、野宿生活者の就労自立を要望する全ての人が、希望を託すに十分な数字であるかというと、にわかに肯定しがたい。

「大阪ホームレス就業支援センター運営協議会」が、本年7月に実施した「ホームレスの人たちへの就業機会拡大に関する企業アンケート」の報告書に以下の記述がある(注8)。

 

『今回のアンケートは、企業内担当者を通して、現に企業の中にいる労働者のホームレスの人たちに対するまなざしを浮かび上がらせるものともなった。

漠然と「不安」と記入するものから、「戦力にならない」と切り捨てるもの、「偏見と言われればそれまでですが、生理的な社内の抵抗感はぬぐえないものと思われ、受け入れる土壌を持っていない」と指摘するもの。ホームレスの人たちが、労働市場に再参入するための障壁が、当人の職歴や能力だけではないことを指し示すものといえる。

 「競争環境の中にある企業に、住居や当面の生活費まで準備しろというのは無理」という、受け入れ拒否理由もある。

具体的な就職活動の前に、解決しなければならない課題の多いことも把握された。』

 

 自立支援センターからの出口への、野宿生活者が抱く懸念は、企業アンケートによっても裏打ちされたといえる。

 

  図2は、要望と年齢区分のクロス集計表(注)を図示したものである。

 「福祉」では、60歳以上の占める割合が大きいが、野宿の現実から、60歳未満にも福祉に対する要望が存在していることを示している。「仕事」では60歳未満の占める割合が大きく、60歳以上の仕事への要望は、限定的であることを示している。

 要望「無し」の人々は、60歳代の占める割合がやや多いものの、「全体」の年齢構成に近く、「仕事」や「福祉」のように偏りを示していない。

 要望「無し」がごく少数であれば、「除外例」で片付けられるかもしれないが、表2で示したごとく、大きな集団をなしているのであるから、その意味が読み取られなくてはならないであろう。

 簡単に言えば、「仕事」、「福祉」に、現在おこなっている野宿生活以上の、現実的な選択肢を見いだし得ないことの反映であるといえるであろう。

 

4.野宿生活者の運動は、何をもたらしたか

 「仕事」、「福祉」で、野宿生活者にとって現実的選択肢となるものを現実化しようとしたのが、釜ヶ崎反失業連絡会であった。(10)

 寝場所確保は、「土の上(集団野営)」から「コンクリの上(センター夜間開放)」、そして、「プレハブの2段ベッド(あいりん緊急臨時夜間避難所)」へと、少しはましなものへとなったが、安定した居所とはほど遠い。夕方5時30分から翌朝5時まで利用できる「あいりん緊急臨時夜間避難所」には、2000年開設の今宮宿所(600人)と、2004年開設の萩之茶屋宿所(440人)の2つがあり、合計1,040人が利用可能である。

 2004年5月に、夜間宿所で釜ヶ崎支援機構が実施した利用者アンケート(回答者は869人)によれば、年齢は、30歳以下が0.5%、30歳代が4.3%、40歳代が12.1%、50歳代が53.5%、60歳代が28.5%、70歳以上が1.2%であった(注10表1の「全体」の年齢構成と比較すると、50歳代の占める割合が10%多く、前後の年齢では少なくなっている)。野宿が続くようになってからの平均期間は2年。夜間宿所を利用するようになった時期は、@「今日が初めて」1.5%、A「数日前から」が12.4%(平均値10.9日)、B「数ヶ月前から」が29%(平均値3.2ヶ月)、C「数年年前から」が57.1%(平均値2.7年)。利用頻度は、「ほとんど毎日」が、64.5%であった。

 夜間宿所は、必要なものであるが、しかし、2年間も、ほとんど毎日利用するために作られた施設ではないことは明らかである。「緊急」対応するため、「臨時」に設置された「夜間避難所」が、6年を超えて存続することは、当初目的を超えて、新しい野宿パターンを作り出したといわざるを得ない。

 釜ヶ崎反失業連絡会は、働くことのできる野宿生活者全てに、就労機会提供事業によって、就業機会を提供し、収入を与え、一時的であれ安定した生活環境を確保せしめた上で、職業相談、講習・訓練事業などを施し、他の職域、あるいは新しく創造される職域に、就業機会提供事業から移行してもらう構想を、実現しようとした。しかし、実現したものは、その構想とは大きくかけ離れた、住む場所も、食さえも確保するに足りない収入を、野宿生活者にもたらすものでしかなかった。

2004年の就業機会提供事業への登録者は、2,874人であった。1日205人が就労できるにすぎず、5,700円(昼の弁当代400円を引くと5,300円)の賃金で、月平均一人あたり3日就労、15,900円の月収となるにすぎなかった。

 2004年5月に、就労機会提供事業で就労した1,884人に対して釜ヶ崎支援機構が調査をした結果によれば、寝場所は次のようであった。

@夜間宿所(シェルター) 917人(夜間宿所のみ回答600人)

Aドヤ(簡宿) 428人(簡宿のみ回答222人)

B寮 22人(寮のみ回答5人)

Cケアセンター 89人(ケアセンターのみ回答4人)

Dアパート・マンション 125人(アパート・マンションのみ回答118人)

Eテント・仮小屋 252人(テント・仮小屋のみ回答206人)

Fアーケード・軒下 331人(アーケード・軒下のみ回答191人)

 テント・仮小屋の場所は、西成区では、萩之茶屋・花園公園・西成公園・津守公園など55人、北区では、扇町・中之島など44人、天王寺区26人、浪速区24人、中央区13人、阿倍野区11人、西区9人、等となっていた。4月の平均月収は、25,812円。食事の状況は、毎日三度三度食べられている人が、27.8%に留まり、多数(60.6%)は、かろうじて一日一食、当たっているにすぎなかった。一週間の内一食も食べられなかった日が一日でもあった人は212人にのぼる。

この状況は、現在も変わらず、就労機会提供事業は、野宿生活を支える支援となってしまっている。野宿生活者が安定した生活を確保できるほどの収入をもたらす就労機会提供事業の規模拡大が実現せず、就労現場で息絶える人や、朝の受付や就労現場から救急車で運ばれて亡くなる野宿生活者が少なからずいることから、釜ヶ崎支援機構は、福祉相談部門を立ち上げ、65歳以上の生活保護を活用しての就労事業からの卒業を呼びかけた。「ホームレスの自立の支援等に関する特別措置法」成立後は、60歳以上の卒業に、年齢を引き下げ、「居宅保護」への呼びかけを続けてきた。

 

『野宿の出口として、生活保護がその8割がたを占めていることが、大阪市の近年の(生活保護)の動態と理解することができよう。大阪市の野宿生活の単身高齢者にとって、「目指せ畳の上、居宅保護。そして、ゆっくり次の職探しを」は、あながち誇張ではない。というよりはもっとも現実的な選択として、提示され、選択されてきたといえる。』(注11)

 

にもかかわらず、事業への登録者の構成年齢は、70歳以上については、2001年の4.9%から2006年の2.3%へ、65〜69歳は、2001年の18.3%から2006年の9.5%へ、60〜64歳は、2003年の45.8%から2006年の40.5%へと減少し続けているものの、「まだ頑張れる」という高齢野宿生活者は、まだまだ多い(注12)。

アンドレ・コント=スポンヴィルを模擬っていえば、貧困や失業や排斥するといった問題を緩和するものとしてホームレス食堂をあてにするとしたら、それは、政治問題を道徳問題に変換することであり、問題を決して解決させないことになる。釜ヶ崎支援機構は、社会構成員としての諸個人(政治家や行政機関職員や納税者や非納税者・・・等々)の「愛と明晰さと勇気」を結集して、「連帯」の実態としての就労事業による経済的貧困の克服、生活保護法の活用による人としての最低生活保障実現を目指してきたといえる。

それが未だ十分に現実化していないのは、年月が足りないせいなのか、それとも社会構成員としての諸個人が、「愛と明晰さと勇気」を失い、「経済の秩序」にのみ屈しているせいなのであろうか。(13)「唯一者とその所有」や「相互扶助論」が懐かしい。

 

5.野宿生活と「共生社会」、または野宿生活者と「共生社会」

 

人が、何らかの事情で野宿生活を余儀なくされることとなり、その状況で「一生懸命」生きる努力をする。野宿状態への適応過程が長くなればなるほど、「頑張っている自分」を大切にしたくなる。対策は、全ての野宿生活者を動かすには十分ではない。たとえ、2000年から2004年にかけて男性508人、女性15人が路上死しているという現実(注14)を体験的によく知っているとしても、野宿生活者は、路上で、公園で頑張り続ける他はない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そのような野宿生活者に対して、たとえば<野宿での生活を認めることは、貧窮者の生活の質を低い方へと誘導する根拠となる。なにしろ、国民年金6万円の受給で生活している人がたくさんいる。だから、生活保護の8万円は高すぎる、と自分の生活を棚に上げて声だかにいう不道徳な政治家が闊歩する日本であるのだから。野宿生活者が3万5千円平均で生活していると知れば、生活保護の生計扶助費もそれでいいと言い出しかねない。しかも、路上での生活は、緩慢なる死への接近ではないか。それを認めては、「共生社会」は実現できない。それゆえに、全野宿生活者は、生活保護申請の窓口に並ぶべきである>という言説を、投げかければ、パターナリズムの最たるものと非難されるであろう。

あるいは、<今となっては、野宿生活者が襲撃されないように、野宿生活者の人権について啓発活動を強め、多様な生き方を認める「共生社会」を築くしかない。野宿生活を余儀なくされる人々がこの社会からが無くなるかどうかが問題なのではなく、これまでの生活歴の延長から野宿生活の継続を望むものについて、野宿状態でも、健康で、安心して生きられる社会の実現が課題なのである>という言説は、野宿生活者が生じた「排除」の問題を問わないものであり、「社会」の破綻から生じた現象を公認することによって「共生社会」を再構成しようとする自家撞着に陥るものと非難されよう。

これらにたいして、<二つの言説はあまりにも短兵急な極論であり、戦術の違いであって戦略的視点がない。野宿予防の制度構築に向け努力を重ね、さらに、野宿から別の生活への移行を促進する多様で豊富な選択肢を野宿生活者に提示し、粘り強く働きかけることのできる支援体制を求めて努力し、その上で、元野宿生活者が社会の中で再び孤立しないようなサポート体制を構築することを、目指すのが正しい>という言説は、おおかたの賛同を得られそうであるが、何も語っていないに等しく、これまでの経緯について無知であると非難されよう。

つの言説を書き並べている著者が、「敗北主義」にとらわれていることは確かである。職を投げ出した証明でもある。

 

 経済と道徳について(つまりは経済の強さと道徳の弱さについて)いっそう明晰になればそれだけ法と秩序に対する要求もますものです。この決定的な秩序(法-政治的秩序という、第三の秩序において個々人の価値が第一の秩序の現実に対してわずかなりとも影響力をもつことを可能にしてくれる唯一のもの)が、こんにちこれほどまでに価値を奪われ評判を落としてしまっているのです。/ですが/民主主義においては政治家の質はあくまでも市民のそれに応じたものでしかないのです。(15)


(注1) 2006年10月21日、人文地理学会・第6回公開セミナー「福祉、まちづくり、地理学」

講演1:成田孝三(大阪市立大学名誉教授)「まちづくりと地理学」

講演2:中嶋陽子(大阪市立大学都市研究プラザ、ビッグイシュー販売員応援団)「まちのハコモノ=公共施設の活用を通じた公共空間の市民的『改造』〜ホームレス支援のくみたてから〜」

講演3:ありむら潜(釜ヶ崎のまち再生フォーラム、漫画家)「ある日、釜ヶ崎に地理学がやってきた〜がんばる地理学、釜ヶ崎内側からの証言〜」

講演4:佐々木敏明(NICEくらし応援室)「ライク・ア・ローリングストーンを旗にして −あるいはすてきなまちの愛し方」

司会進行・水内俊雄/主催: 人文地理学会 後援: 大阪市立大学都市研究プラザ

 

(注2大阪市野宿生活者巡回相談記録で、大阪市立大学大学院都市創造学科島和博教授の働きかけによって、大阪市健康福祉局ホームレス自立支援課から、個人を特定できる部分を除いた情報の提供を受けた。

 

(注3

 表1の「新規面接人員」は、その年に初めて巡回相談員の相談を受けたもので、199910月から20067月までに、11,547人が面接を受けている。「再面接実人員」は、2度目以降の面接を受けたもので、当該年の新規面接者の当該年における再面接と、当該年以前に新規面接を受けているものの当該年における再面接の実人員である。「延べ面接数」は、新規・再面接の区別無く、当該年に巡回相談員が面接した回数である。

 表2は、表1の「再面接実人員」から、当該年に新規面接を受けたものの再面接を引いたものであり、その年に巡回相談が把握することのできた野宿生活者の把握数となる。

 大阪市野宿生活者巡回相談事業は、大阪市の野宿生活者対策として、民間福祉法人に委託されて実施されているもの。自立支援センター入所への橋渡し、福祉相談のサポートをおこなっている。

 なお、同データのやや詳しい解説を、今年12月下旬発行予定の「シェルタレス30号」に書いた。

 

 

 

 

 

 

 

(注420011月、「野宿生活者(ホームレス)に関する総合的調査研究報告書」、大阪市立大学都市環境問題研究会。

(注5200510月には、国勢調査が実施されている。野宿生活者数は参考に集計されたもので、公表はされていない。

(注6)2005年末開催の「大阪市野宿生活者(ホームレス)対策に関する懇談会」で配布された資料、「市内の公園・道路のテント等の推移」を参照

 

 

 

 

 

 

(注7)以下は本文中の(図1)の元データである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(8)ホームレスの人たちへの就業機会拡大に関する企業アンケート」、実施−大阪ホームレス就業支援センター運営協議会/アンケートの総発送数は、5,179通で、回収は376通。発送先は、大阪経済団体から提供された名簿及び宛名印刷ラベルとホームページから入手した業界会員名簿によった。集計・まとめは松繁が担当した。

 

(9)以下は、本文中(図2)の元データである。なお本文中表2の内、「支援センター入所」と「仕事による自立」を「仕事」とまとめ、「福祉」は、「福祉施設入所」、「居宅保護」、「住居確保」、「医療」をまとめた。「全体」には、本文中表2にあって、注10−表1にない項目の数も合算されている。年齢については、「不明」があり、総合計は、表2の総合計と一致していない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(注10)正式名称は、釜ヶ崎就労・生活保障制度実現をめざす連絡会。1993年結成。職と寝場所を求め、個々別の野宿を、集団化し、社会化する集団野営闘争を大阪府庁・大阪市庁周辺で繰り返し展開。「センター夜間開放」、「自主大テント避難所」を経て「あいりん緊急臨時夜間避難所」の設置、「高齢者就労事業」の開始をもたらした。2002929日大阪府庁前で開始された野営闘争は、年明けに市庁前に移動、20031229日までの447日間おこなわれ、延53万6400食の提供、延11万1750人に寝場所を提供した。

 

(11) 20069月、シェルタレス29号「大阪市西成区の高齢者生活保護受給の現状」大阪就労福祉居住問題調査研究会、水内俊雄(大阪市立大学都市研究プラザ兼大学院文学研究科教授)157ページ。引用文中()内は、引用者の引用にあたって補足。

(注12)

 

 

 

 

 

 

 

(注13) アンドレ・コント=スポンヴィル(小須田健/C・カンタン訳)、資本主義に徳はあるか』、紀伊國屋書店、2006年8月。

(14) 20063月。「ホームレス者の医療ニーズと医療保障システムのあり方に関する研究」報告書所収。「大阪市内のホームレス死亡者の死亡原因とその背景監察医による死体検案・行政解剖例の検討」的場梁次(大阪大学大学院医学系研究科法医学教室教授・大阪府監察医事務所主任監察医)116ページ。

(注13) アンドレ・コント=スポンヴィル資本主義に徳はあるか」