釜ヶ崎・野宿生活者と医療についての歴史的点描
 

(1)スラムとコルネット帽

『 カツテ、幾人カノ外来者ガ、案内者ナクシテ、コノ密集地域ノ奥深ク迷ヒ込ミ、ソノママ行先不明トナリシ事ノアリシト聞ク――このやうに、ある大阪地誌に下手な文章で結論されてゐる釜ヶ崎は「ガード下」の通称があるやうに、恵美須町市電車庫の南、関西線のガードを起点としてゐるのであるが、さすがその表通は、紀州街道に沿つてゐて皮肉にも住吉堺あたりの物持が自動車で往き来するので、幅広く整理され、今はアスファルトさへ敷かれてゐる。それでも矢張り他の町通と区別されるのは五十何軒もある木賃宿が、その間に煮込屋、安酒場、めし屋、古道具屋、紹介屋なぞを織込んで、陰欝に立列んでゐるのと、一帯に強烈な臭気が――人間の臓物が腐敗して行く臭気が流れてゐることであらう。』

 これは、1932年の冬、母の死の三日後に、感傷に駆られた男が、12歳まで住んでいた町、釜ヶ崎を訪れた時の一夜の物語を描いた、武田麟太郎の小説の書き出しである。(注1

 その中には『「兄貴、酒おごらんか、は云へます、そやけと、云へまつか、めし一ぱい頼むとは」と彼が云へば、夜更けの酔払ひたちは口々に、「さうは云へん、云へんもんぢや」と、首を振るのであつた。』という、現在でもまま目にする光景も描かれている。

 昭和恐慌のさなか、釜ヶ崎へは農村で生活を維持できなくなった人や、都市失業者・困窮家族が移住し(注2)、労働による継続的収入を確保する仕事が少ないことから、武田麟太郎の描く世界が繰り広げられていた。

 釜ヶ崎(注3)の原イメージを伝える小説として、「釜ヶ崎」は有名であるが、その発表の同じ年に、コルネット帽をかぶった愛徳姉妹会のシスター達が、釜ヶ崎で社会事業を始められたことは、あまり知られていない。

 小説「釜ヶ崎」の初出は、1933(昭和8)年3月の『中央公論』、シスター達が西成区東萩町30番地に、木造2階建洋館風の建物とこれに隣接する木造平屋を借り受けて「聖心セッツルメント」を開設したのが、同年111日。(注4)聖心会院長マザーマイヤが、裕福な聖心学院の学生や父兄達と、貧しい人々との間に愛の関係を結びたいと望み、釜ヶ崎での事業開始を願って、フランスから愛徳姉妹会を招いたのが端緒である。

 東萩町30番地は、現在の萩之茶屋南公園(通称三角公園)の西南角付近にあたる。シスター達は、熱心に貧しい人々や病人を訪問したらしいが、「事情をよく知らないので、どんな地域にでも出かけていったので忠告を受け、その後は誰かにつれて行ってもらうことにした。」というから、武田麟太郎の主人公が住んでいたという、今の新今宮駅から西成警察署までの紀州街道沿いの路地裏と、東萩町では、町の様相がやや異なっていたようである。

 洋館風の2階建ては、方面委員の紹介を受けたものを対象とする診療所(内科・外科・小児科)として使用され、週3日、午後のみ開いていた。隣接する木造平屋の建物では、子ども会が運営されていた。

 活動を開始した初年度(1934年)半年間の活動実績は、次のようであった。

欠食児童給食 5,027/衣類給与  布団 40、着物 680、古着 250/診療所  診療 2,476、施薬 10,333/患者訪問  童貞見舞 740、医師往診 44

 「童貞見舞」というのは、シスター達の患者訪問のことで、「子ども達も私たちをよく見ようとして、泣いていたのをやめてしまいます。殆ど知覚を失っている病人でも、コルネット(カモメが翼を広げたような帽子)が自分の上に傾くのを見て、嬉しそうに微笑する」と、当時のことが語り継がれている。

 小説「釜ヶ崎」とは異なった釜ヶ崎−確かに、自由労働者や廃品回収者、アオカン(野宿)を余儀なくされるものも多かったであろうが、女性も子どももまた町の中でたくさん生きていたことを知ることができる。

 聖心セッツルメントは、1936(昭和11)年7月に、海道町36番地(今の萩之茶屋中公園―通称炊き出し公園−北西角あたり)へと活動の拠点を移し、1945(昭和20)年313日の空襲で焼失。戦後も、愛徳姉妹会は、現在地萩之茶屋3丁目で活動を続けているが、聖心セッツルメントは再開されなかった。
 

(2)戦後処理の終焉と釜ヶ崎

 戦後の大阪市の福祉行政について、大阪市のホームページに簡潔な記述がある。(注5

『終戦直後のわが国には、戦災者、戦災孤児、引揚げ者、失業者といった生活困窮者が溢れていましたが、彼らに対する当時の福祉事業とは、ともかく応急対策をしていただけで、いわば戦災の救済事業の延長でした。

これを一刻も早く回避するため、GHQは終戦から4か月後の1214日、「救済ならびに福祉計画の件」と題する覚書を日本政府に提出しました。これは第1に社会福祉が国家の責任において行われるべきこと、第2に事由のいかんを問わず最低生活を保障すること、第3に無差別平等に救済が行われることの3点を含んだ詳細かつ包括的な計画を、1230日までにGHQに提出することを要求しました。これに対し政府は翌15日に「生活困窮者緊急生活援護要綱」を閣議決定し、昭和21(1946)4月より実施することとしました。

大阪市の活動もこの要綱により軌道に乗りはじめました。例えば、大阪駅周辺の罹災者、戦災孤児、引揚者などを保護するために駅構内に設けられていた市民相談所は、昭和2111月その設備を拡充し梅田厚生館として発足しました。同館ではこれらの人々を一時保護し、健康診断や身上調査、適性検査などを行い、それぞれに適する施設へ送致する役割を果たしました。また帰郷する者には、鉄道公安室を通して帰郷させました。昭和2011月から23年3月までの間に同館に収容され、病院や他の施設に収容された者の合計は19,649人でした。

梅田厚生館とともに終戦後の大阪の民生事業に携わった施設に弘済院があります。昭和2011月から2112月の間に梅田厚生館から他の施設へ送致された件数は7,739件、内約40%を弘済院各施設が引き受けていました。そして昭和40(1965)梅田厚生館と弘済院長柄分院は、市立中央更生相談所に統合されました。

勤労宿泊所建設綴[含今宮勤労宿泊所増設一件](昭和22)−写真説明

戦後、駅周辺や広場に集まり、野宿する人々(当時は浮浪者と呼んだ)への救済事業として、塩草、今宮、豊崎などの勤労宿泊所に収容し、自力更正させようとしました。』

 「大阪市民生事業史」(1978.3 大阪市民政局)によれば、敗戦の年(1945年)8月から12月末までの大阪駅周辺屍体処理件数は、321件、翌年は1月から12月で421件であったとされている。(292頁)
 

表1.梅田厚生館における相談及び送致取扱件数の推移(大阪市民性事業史332頁。男性%は著者が付加したもの)
  20年 21年 22年 23年 24年 25年 26年 27年 28年 29年 30年 合計
送致 392 5,716 6,731 3,497 2,745 3,252 2,824 3,129 3,997 7,298 4,392 43,973
128 2,041 2,516 1,482 1,084 1,026 787 604 875 994 594 12,131
520 7,757 9,247 4,797 3,829 4,278 3,611 3,733 4,872 8,292 4,986 56,104
送致男性% 75.4% 73.7% 72.8% 72.9% 71.7% 76.0% 78.2% 83.8% 82.0% 88.0% 88.1% 78.4%
相談 569 6,314 7,407 4,631 6,191 6,760 5,136 4,316 7,644 11,224 6,030 66,222
235 2,347 2,704 2,442 2,079 2,347 982 1,130 1,307 1,544 597 17,714
804 8,661 10,111 7,073 8,270 9,107 6,118 5,446 8,951 12,768 6,627 83,931
相談男性% 70.8% 72.9% 73.3% 65.5% 74.9% 74.2% 83.9% 79.3% 85.4% 87.9% 91.0% 78.9%

 

 表1は、梅田厚生館の送致と相談の年度ごとの件数をまとめたものであるが、それによれば、『送致は2122年に多く両年度で17,004人となっており、23年度からは半数となっている。これは引揚者、復員者、戦災者の問題は表面上ある程度解決したと理解できることをしめすものであろう。25年からはじまった朝鮮戦争によってこの数はさらに減ずるのであるが、戦争終結とともに不況時代に入って29年度には激増し、8,000人を超えている。

相談件数では2122年ごろは送致件数をやや上まわっている程度であるが、25年度と29年度では、収容保護以外の相談が多くなり、送致を行ったケースは23年ごろから少なくなって、29年度に多くなっている。このことは23年ごろから一応の戦災処理がなくなったことをしめすと考えられ、29年の送致の増加は不況によるものと推測される』(331頁)
 

  表2 梅田厚生館より施設送致調べ(民生事業史333頁)            
内訳 送致累計(昭和20.11.1〜23.3.31) 内訳 送致累計(昭和20.11.1〜23.3.31)
  15歳以上 8〜14歳 7歳以下   15歳以上 8〜14歳 7歳以下
施設名 施設名
助松学園     8       8 朝光寮   41         41
助松寮 1   1       2 成美寮   28   1     29
長谷川学園     2 2     4 婦人厚生館   8   2 7 15 32
博愛社 16 2 233 81 72 43 447 聖心隣保館 45 268 99 62 99 80 653
東光学園 18 22 191 43 15 11 300 邦寿会(駒川ホーム) 40 131 63 29 44 48 355
水上隣保館 28 8 96 32 4 6 174 邦寿会(赤川ホーム) 7 12 5 2 5 5 36
高志学園     3 1 3 2 9 悲田院 28 427 75 70 115 118 833
健康ノ里 12 5 99 24     140 豊崎厚生寮 524           524
奈佐原療 2 5 46 7     60 塩草勤労宿泊所 105           105
若楠学園 12   24 3 1   40 大阪自彊館 699 1 2       702
愛育社     1 1 6 4 12 鴻和寮 616 8         624
白鳥学園     40 13     53 青空の家 89           89
四恩学園   2 2 3 16 18 41 北海道炭礦 1,563 3   1 1 1 1,569
桃花塾 21 6 41 15 5   88 弘済院 1,835 651 138 68 118 83 2,893
修徳学院 2 1 49 4     56 長柄分院 623 286 158 48 67 49 1,231
初島学園 35           35 柏原療養所 836 121 195 23 6 2 1,183
大阪幼少年保護所 58 2 157 15     232 浅香山病院 1,425 265 110 15 6 32 1,853
公徳学園 17 6 61 2     86 香里病院 2,005 112 34 9 12 17 2,189
生駒学園 48 5 103 1 1   158 小坂病院 532 737 41 32 36 29 1,407
彌栄学園 36   35       71 刀根山病院 44 2         46
若江学園 13 1 38 16     68 天王寺病院 75 39 16 12 3 5 150
月ノ輪療     44 8     52 大阪養老院 5 5         10
武田塾 1   40 7 1   49 その他 552 244 67 22 12 13 910
小計 320 65 1,314 278 124 84 2,185 小計 11,648 3,389 1,003 396 531 497 17,464
                総 計 11,968 3,454 2,317 674 655 581 19,649

 

 表2は、昭和2011月から233月までの間に梅田厚生館が送致した施設名と年齢別人員であるが、15歳以上男女について柏原療養所以下天王寺病院までを集計すると6,193人となる。これは、小計15,037人の41.2%にあたる。弘済院と長柄分院にも病人が含まれているはずであるから、15歳以上男女で入院したものの割合はもっと高くなると考えられ、梅田厚生館の利用が、病気を原因とするものが多かったと推測される。

 送致先施設は、『左側の施設は児童収容施設。婦人施設は右側の朝光寮・成美寮であり、婦人厚生館・聖心隣保館・駒川ホーム・赤川ホームは母子寮である。老人施設悲田院に多数の児童が収容されているのは、異常な社会状態における福祉の柔軟な対応を示す例であろう。豊崎厚生寮・塩草勤労宿泊所・大阪自彊館・鴻和寮・青空の家は宿所提供施設であり、単身男性をそれぞれ多数収容している。弘済院は病院・老人施設・児童施設をもつ総合施設であり、長柄分院とあわせて4,000人をこえる人々を収容している。浅香山病院・香里病院も多くの病人を収容している。ここに興味あるのは「北海道炭鉱」であり、当時エネルギー源であった石炭業に労務者が不足をつげており、大阪市では民生委員の代表をおくり、現地を視察し、その結果梅田厚生館からも1,563人を送っているのである。』(332頁)

 戦後の混乱が落ち着きはじめると、梅田厚生館の相談内容にも変化が現れた。『再保護ケース(2度以上保護を受けた人)は、昭和33年の9%が37年には38%、40年末では50%をこえているのである。30年代における量的な安定と、30年代後半における再保護ケースの増加は、日常的な状況における大阪市を中心とした社会が生み出す脱落者層の実態を示すものであろう。』(336)30年代になると大阪市の「浮浪者」はしだいに「釜ガ崎」に集中し、戦後いちはやく建てられた簡易旅館とこの周辺地区に建てられたかり小屋の居住者とともに、「スラム地区」を形成し、北の大阪駅周辺の整備とともに「浮浪者」対策の中心はこの南の「釜ガ崎」に移った。』(337頁)

 国勢調査の数字を信じるならば、「大阪市民生事業史」にいう「浮浪者の釜ヶ崎集中傾向」は憶測に過ぎない。1955年国勢調査では、西成区は175人で9.5%を占めているに過ぎない。浪速区も5.7%にすぎない。1960年についても、西成区は4.6%にすぎない。ただし、浪速区は25.3%と5倍にもなっている。「釜ヶ崎」の範囲を大阪府警本部防犯部の「実態調査」で言うそれに合わせると、「集中傾向」といえるかも知れない。

 

15.浮浪者数 この表は昭和35年国勢調査の際、10月1日午前0時を期して実施された浮浪者特別調査班によって調査された浮浪者の数を調査場所別に掲げたものである。子供は昭和21年以後に生まれたものを再掲したものである。
1)臨時国勢調査(10月1日)2)常住人口調査(8月1日現在)3)〜4)国勢調査(10月1日現在)。
大阪市統計書・第49回・昭和36年版・昭和37年3月10日発行・大阪市行政統計局
  21.浮浪者数 本表は昭和30年国勢調査の際、10月1日午前0時を期して実施された浮浪者特別調査班によって調査された浮浪者の数を調査場所別に掲げたものである。子供は昭和17年以後に生まれたものを再掲したものである。
1)臨時国勢調査(10月1日現在)2)常住人口調査(8月1日現在)3)国勢調査(10月1日現在)「大阪市統計書・第44回・昭和31年版・昭和32年5月20日発行・大阪市行政局統計課
 
調査場所 総数 子供(再掲) % 調査場所 総数 子供(再掲) %
1)昭和22年 427 339 88     1)昭和22年 427 339 88    
2)23年 380 286 94     2)昭和23年 380 286 94    
3)25年 528 445 83     2)昭和25年 528 445 83    
4)30年 1,839 1,699 140 71              
35年 862 807 55 27   30年 1,839 1,699 140 71  
浪速区 218 208 10 2 25.3% 浪速区 105 95 10 3 5.7%
新世界一帯 101 99 2     新世界映画館グラソド前 52 44 8    
南海高架線下 27 24 3     新世界映画館世界座前 13 13      
堺筋(日本橋3丁目〜戎橋筋) 34 31 3 1   新世界映画館国際劇場前 18 16 2 3  
日東町方面 56 54 2 1   新世界映画館敷島劇場前 15 15      
            新世界映画館公楽座前 7 7      
北区 201 189 12 7 23.3% 北区 506 486 20 5 27.5%
大阪駅付近一帯 127 119 8 4   大阪駅付近一帯 341 329 12 2  
阪急ビル周辺 3 3       阪神ビル裏側付近 25 25      
扇町公園 52 48 4 3   阪急デパート裏付近 16 15 1    
阪神新阪神ビルー帯 13 13       扇町公園 51 49 2    
中之島公園 6 6       市立工業研究所付近 25 25   2  
            水道局庁舎付近 22 22      
            中之島公園 26 21 5 1  
天王寺区 147 133 14 7 17.1% 天王寺区 503 453 50 21 27.4%
天王寺公園.内 135 123 12 7   天王寺公園一帯 458 412 46 19  
天王寺駅前一帯 12 10 2     四天王寺境内 20 17 3 2  
            夕陽丘町泰聖寺裏 3 3      
            東平野町5丁目夕陽丘児童園前 1 1      
            生玉神社境内 16 15 1    
            上六公園 5 5      
南区 81 76 5 2 9.4% 南区 165 158 7 2 9.0%
高島屋デパート周辺 40 39 1 1   高島屋デパート周辺 39 38 1    
御堂筋大丸デパート周辺 9 9       南街劇場 19 19      
中橋川畔 1 1       千日前 14 14      
末吉橋 11 10 1     八幡町御堂筋勧銀前 1 1      
板屋橋 1 1       御堂筋大丸デパート前 35 35      
湊町木綿橋 2 2       御堂筋十合デパート前 10 10      
千日前・千日前デパート周辺 10 8 2     久左衛門町大黒橋及び浪芳橋 11 8 3    
瓦屋町公園 5 4 1 1   鰻谷西之町旧文楽座裏 17 15 2 1  
難波スバル座前 2 2       塩町4丁目心斎橋筋 6 5 1    
            問屋町東横堀川畔 3 3      
            長堀橋筋1丁目長堀川畔 5 5      
            西賑町高津原橋 3 3   1  
            日本橋北詰 2 2      
阿倍野区 60 57 3 1 7.0% 阿倍野区 222 214 8 2 12.1%
近鉄デパート周辺 39 37 2 1   近鉄百貨店及び地下鉄附近 143 138 5 1  
アベノ筋1丁目近鉄前 21 20 1     天王寺駅小荷物置場附近 70 67 3 1  
            阿倍野橋南詰地下鉄西口階段 9 9      
西成区 40 38 2 4 4.6% 西成区 175 170 5 3 9.5%
南海本線ガード下 33 31 2 4   山王町1丁目(176調査区) 10 10      
動物園前地下鉄付近 7 7       山王町1丁目(177調査区) 20 18 2    
            山王町1丁目(178調査区) 13 13      
            山王町1丁目(179調査区) 17