釜ヶ崎近況報告
 1997年冬・越冬対策を巡って

11月17日、釜ヶ崎反失業連絡会と第28回釜ヶ崎越冬闘争実行委員会が連名で、以下に紹介する「緊急越年対策要求」を大阪府・市に提出した。

今年の釜ヶ崎の就労面における厳しさは、大阪府・市行政当局に置いても十分に把握されていることと思うが、改めて確認しておきたい。

下のグラフは西成労働福祉センターが把握している現金求人の推移である(当会報9頁参照)。グラフの形は94年に似ている。そして、94年よりも状況は厳しいことを示している。95年2・3月に山が高くなっているのは、震災の影響である。震災は望むべきことではなく、またそう度々あることでもない。だとすれば、釜ヶ崎への求人数の急増は見込めないと考えられる。

しかも、不景気は釜ヶ崎ばかりでなく世間を覆っている。職を求める人々は、右に示した図式によって建設産業に流れ込んできており、釜ヶ崎労働者を一層苦況に追い込んでいる。(⇒は求人の流れを示し、は人の流れを示す)

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だがこれは、不景気ばかりのせいではなく、大阪府労働部に大きな責任がある。大阪府労働部は「万博」の経験に学ばず、「関空」建設の労働力を全国に求め、労働省に協力を要請したのである。

「万博」準備期に釜ヶ崎の労働者は急増した。しかし、景気は急激に落ち込み、多くの労働者が梅田やナンバで野宿を余儀なくされた。その時大阪府は、何事終了前に「バブル経済」が崩壊し、労働力はだぶつくことになった。その後の、震災の影響もあり、関西の建設産業への労働力の新規参入は定着した。このことに、大阪府労働部は責任を感じるべきである。

下の表は、「関空ターミナルビル」工事に「ATUM組」を通して、鳶あるいは土工として就労したと推定される労働者の経験年数を表すものである。(内訳1は連絡先と現住所が西成区で同一の労働者のグループ、内訳2B1は現住所が西成区で連絡先が大阪市内のグループ、内訳2Bは現住所が大阪市内で西成区以外のグループ)

きわめて特徴的なことは、西成区以外のグループの経験年数がもっとも低く、5年未満のものが過半数を超えていることである。「関空」工事に釜ヶ崎労働者が就労していたことが確認されると同時に、先に述べたような新規参入労働力との競争が激化していることも示している。新規参入は大阪市内だけでなく、大阪府労働部のお陰で全国的なものとなっている。

 

 

 

 

 

労働力不足を心配して労働省に働きかけるという施策を選択し行動した大阪府労働部は、労働力のだぶつきについても施策を打ち出し行動する責任がある。にもかかわらず、財政赤字を理由に積極的な施策を実行しない大阪府は、行政担当能力を欠いた烏合の衆のごとくにみえる。しかももつとひどいことには、この烏合の衆は、自分たちのための隠し金や汚職にはたけていることを示すマスコミ報道が頻発していることである。

大阪市も同断である。「人権尊重の街づくり」を掲げながら、多くの労働者に野宿を強い、路上死を見過ごしにしている欺瞞は天地共に許さざるところである。

数年に渡る度重なる要求にも関わらず、際だった改善が見られないことに怒りを持って、再々度、以下を要求する。

緊急越年対策要求

★越年対策の臨時宿泊所開設を前倒し(12月1日から)開所すると共に、期間延長(1月31日まで)されたい。

★早急に、ドヤ券・食券の発行を開始されたい

★早急に、ドヤでの居宅保護を認められたい

1.就労対策を確立されたい。

2.釜ヶ崎地区あるいは周辺に低家賃住宅を建設されたい。

3.緊急性に鑑み、11月25日までに回答されたい

4.以上について当連絡会と話し合う場を設けられたい。

1997年11月17日

 

 

 

 

 


大阪城公園のテントではたらず、府庁玄関でも野営。11.25〜28日まで座り込み要求行動

釜ヶ崎反失業連絡会の要求と行動は、決して独りよがりのものでなく、野宿を余儀なくされている多くの労働者の期待に応えるものでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真の説明をすれば、すぐ上は、雨が降ってきたので大阪市東玄関フロアー内で交渉結果を聞く労働者の姿ですし、二つ上は、西成労働福祉センター内で交渉する労働者たち、真ん中は、西成労働福祉センターに入りきれないのでその前のフロアーで待機している労働者の姿です。

今年の冬は例年より暖かいと言っても、冷え込む日もあれば雨の降る日もありました。それでも、労働者たちは、大阪城公園・府庁前で、市庁前で、センタ前で、冷たさ寒さを越えて、座り続けたのです。

要求に対する回答は、労働者の期待・現実の苦難に応えるものではありませんでした。

大阪府は当初、「屋根くらいは考える」と期待を持たせましたが、結局、「なにもできない」と回答したし、大阪市は「例年の臨泊の定員増以外は無理」と回答しました。

大阪府労働部「あいりん特別対策室」の職員は、「梅雨と違って冬の寒い中、センターの冷たいコンクリートの上で寝ていただくのは、人道上いかがなものでしょうか。」といっていたそうです。

何もしないで、自分と関わりのない路上で野宿し死亡するのは、人道上問題はない、自分の心は痛まないということでしょう。たしかに、センターの夜間開放を行って、センターの中で死者が出れば、直接報告を受ける立場になって、心は痛むかも知れません。センターの公式夜間開放の二日目、いったんシャッターを閉める直前、センター3階・労働福祉センター前フロアーで1人の労働者が死んでいるのが発見されました。これは、公式開放時間外のことなので、直接報告を受けることはなかったのでしょう。「知らぬ事の幸せ」ということでしょうか。

西成労働福祉センターとの交渉で思わぬ事が明らかにされました。

「労働部から、交渉をうち切り、退去勧告を出して、警察を導入してでも事態を正常化しろ、とのファックスが届いていましたが、現場を預かる責任者として人道上できないと、首を覚悟で拒否しました。業務に支障のない範囲で、業務時間に限り交渉に応じるのが精一杯です。」

 

 

 

 

 

行政が何もしないと回答し続けるのに業を煮やした労働者たちの声を背景に、センター管理室に「完全に出入り口を閉め切らないよう」要請(上写真)。センター三階フロアーでの泊まり込みに入りました。

12月5日夜から7日夜の間は「もち代」支給を円滑に進めるために泊まり込みを中止し、8日から再び泊まり込みを開始しました。

センター管理室は、それまで、午後6時少し前に、アナウンスで「1階のシャッターは総て閉まっておりますが、労働福祉センター横通用口は開いておりますので、そちらをご利用ください。」と流していましたが、12月9日には、昨日とは一転、午後7時には総ての入り口を閉めると通告。午後6時35分から三度にわたり場内アナウンスで退去を勧告しました。「業務に支障があるので7時までに全員出てください」と。

放送を聞き今日こそ機動隊による強制排除かの緊張が高まる中、おにぎりを配り、毛布を配って寝る体制に入る。この段階で強制もとどまる要請も誰からもなされず、センターから出たい労働者は自由に退出。それでも、「どこへいけばいいんや。警察が来るなら来たらええやないか」と寝る体制で警察の登場を待った労働者は300名を越えました。

結局、警察を導入しての強制排除は行われず、泊まり込みは続けられ、11日には540名を越え、それまで使用していた三階フロアー南半分では寝る場所がなくなったので、センター管理室に真ん中のシャッター開けるように要請、全フロアーで寝ることとなりました。

 

 

 

 

 

正式にセンター夜間開放が認められ、一階フローアに移ったのは12月20日からです。(表紙下写真参照)

12月18日に大阪府労働部が西成労働福祉センターを通して発表コメントは、

「あいりん労働福祉センターの夜間開放については、これまで、センター本来の設置目的である就労斡旋の昨日が損なわれることや、施設の管理運営上からも支障が生じるおそれがあること、また、地域住民に多大な迷惑をかけることなどから、要望に応じることは困難と回答して参りました。
しかしながら、あいりん労働福祉センターの現状は、これ以上放置しておくことが許されない状況となっております。
また、地域関係者や多くの府民から早期解決を求める意見が寄せられており、さらに、地域住民も一定の理解を示されるに至ったことなどから、夜間開放に向け、代表者と協議を行いたいと存じます。つきましては、明日、午後1時に代表者の方が、府労働部までおこしください。』というものでした。

大阪市はそれに伴い、乾パンと毛布千枚の支給、臨時宿泊所の期間延長(1月16日朝まで、定員1,700人)を発表しました。

臨時宿泊所開設期間中のセンター夜間開放は中断し、16日夜再開、一応、1月一杯ということになりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

市更相での臨泊受付開始前日の12月28日午後3時半頃にはすでに5〜6人が玄関の前の階段に座って並んでいました。

28日午後11時半頃のセンター一階で寝ている労働者の数は700名ジャストでした。

29日午前2時半頃から労働者は起き出して市更相に移動を開始。3時半には完全に起床・片づけの体制となっていました。

上の写真中の時計は12月29日午前3時40分過ぎを指しています。この時刻ですでに発行された整理券は740枚。近所の人が整理券を配っている職員に苦情。「こんなに早く並ばせるのだったら、町内会を通じて知らせてもらわなくては困る。朝早く仕事に出る人もいるのだから」。職員いわく「こんなに早く並ぶとは思わなかったので…」そして「センターで待機してください。この場から早く散ってください。センターに行ってください」。と。

午前11時過ぎで整理券は2,200枚、2,150番以降は翌日の面談となりました。

臨時宿泊所に入れたのは、29日が1,800名、30日が400名で、計2,400名と伝えられています。

「臨泊効果」で、30日夜に三角公園のテントと医療センター軒下で寝た労働者は100名足らずでした。

 

 

 

 

 


しかし、31日夜に三角公園で行われた炊き出し(年越しそば)には800名を越える労働者が列を作りましたし、すっかり野宿層として定着している人たちは臨時宿泊所に行かず野宿を続けています。

また、1月5日からは臨時宿泊所から出される労働者が増えてきます。臨泊そのものが、16日で閉鎖されます。問題は一時的時に緩和されたに過ぎないといえるでしょう。

釜ヶ崎の冬を支えるために・・・・・

 

 

 

 

 


釜ヶ崎の活動は、言うまでもなく釜ヶ崎労働者を中心にしながら、多くの人たちに支えられて成り立っています。

右上は炊き出しの準備が進められている様子ですが、労働者やボランティアによって料理から後かたづけまでが行われています。

越冬期間中にかかる費用は、もち代支給時の労働者からの自主カンパ(今年は3日間で百十万円)と諸個人や釜ヶ崎キリスト教協友会を通してのキリスト者からのカンパ、また、前昼祭として30日に開かれたソウル・フラワー・モノノケ・サミットのコンサートに集まった聴衆からのカンパ(十万円以上)等でまかなわれています。

物資面でも、毎年、諸個人やキリスト教関係者から米や毛布・布団・衣類などが寄せられています。

ほかには、連合大阪からは西成分会を通して使い捨てカイロ五千個、部落解放同盟西成支部から毛布三百枚、西成労働福祉センター労組から米二百キロなどの支援を受けています。

今回の越冬の大きな特徴は、大阪府議や大阪市議、労組団体などが、釜ヶ崎の冬に心をかけ、行政に働きかけられたことだと考えられます。

もちろん、これまでそのようなことがなかったというわけではありません。今回特に際だち、力になったと評価されています。

センター内の商店・食堂のみなさんも協力いただいた方々の中に入ると思います。

そのように多くの人に支えられながら、それでもなを、16日以降は、「非人道的」と誰かが言った冷たいコンクリートの上でのセンター夜間開放しか見えていないのが、釜ヶ崎の現実です。

当会が、年末からの一連の動きの中でどのような役割を担え得たかをみずから問うとき、何もなしえなかった無力さを感じざるを得ません。

せめて、この会報で、経過を多くの人に伝え、16日以降の対策が新たに考え直される一助になれば、当会としていささかの働きをしたと考えらるとの思いで、今号を作成発行いたします。

行政は「町内会は労働者に敵対」といわんばかりに「地元の反対」を事ごとに理由として挙げているようです。「地元」の人々のご意見をお待ちしています。

ご意見をお寄せください。