はしがき
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 近頃社會問題の頓に喧囂を極むるに至り、學者、經世家某他の貧民窟視察を企てる

ものが漸く多きを加へんとして居るのは喜ぶべき傾向である。茲に附録として掲ぐる

大阪名護町貧民窟視察記の1篇は、明治21年不肖が時事新報社に記者として勤務

したりし當時の産物であって、此方面の研究の殆ど全く閑却せられて居た其頃の社會か

らは少からざる注意を以て迎へられ、多大の賞讃を受けたものである。文章も觀察も今

日から之を觀れば甚だ幼稚の憾はあるが、其當時から今日迄、引續いて貧民問題に興味

をもつて居る不肖にとりては、また忘れ難き記念の一である。30年後の今日、本書の

刊行となつて實を結ぶに至つた余の思想は、此幼稚なる1篇の視察記に若い緑の嫩葉を

見せて居たのである。


大阪名護町貧民窟視察記
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  呑天 鈴木梅四郎


大阪名護町貧民社會の實況紀略
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 年所久しき大都會は諸ろ/\の事情ありて貧民の來集を促がし、中央市區には大廈高樓

甍を列らべ、車馬絡繹して往來の士女錦繍目を驚かすものあれども少しく片寄りて場末の

裏店に至れば壁落ち柱傾きて老幼飢寒に號する者あり。同じ區内にて地獄極樂表裏の相違

を呈するもの和漢西洋其揆一なり。英京倫敦の貧民事情、佛國巴里の裏店社會は書籍に物

せるものありて夙に世に聞えたり日本の都府に於ける貧民少からざる中にも東京市内芝の

新網、四谷の鮫ヶ橋、下谷の山伏此三ヶ町の如きは隨分名高き貧民巣窟なれども、共に其

區域狹く人口少きが故に貧民の貧其度の如何は兎も角も大さに於て未だ貧民社會としての

上乘に非ざれば、尚ほ以て奇觀とするに足らざるに似たり。然れども大阪に於ける舊名護

町即ち今の南區日本橋筋の貧民は其歴史も古く場處も廣く兼て又人口も多き上に、貧困の

度も世に珍らしきものなれば、若し日本貧民社會の事實中には面白きもの痛ましきもの等

あるものなりとせば、此名護町貧民に就て取調べたるもの、先づ最も面白く最も痛ましき

に近きものならん。余は今大阪に在住し社務に徒ふを好機として名護町貧民の有樣を取調

らべたれば、記して讀者の劉覽に供せんとするものなり。余の同町に入りて實情を視察し

たるは去る7月5日、岩崎修省、望月龍太郎、柴四郎の三氏と共にせるを始めとし其後、

或は獨行し或は知人を誘なひ同町に出入すること前後十餘回に及びたれども得たる所は僅

に耳目に屬する事實のあらましに過ぎず。今之を名護町の地理及由夾、同町に貧民の集合

りし事情、同町の戸口及其地籍、同貧民の住居家屋、彼等中憐れなる家居の状態、彼等の

家賃、彼等の衣服及貸物業、彼等の食物、彼等の職業、彼等の盜業事情、彼等の婚禮及出

産、彼等の葬式及死亡、彼等の祭禮、彼等の嗜好、彼等の金融、彼等の衞生、彼等の教育、

彼等の宗教、彼等相互の關係、彼等と家主との關係、彼等の納税、彼等の生活費、名護町

貧民家屋取拂の處分事情の23項に分ち十數日の紙上に記載せんとす。讀者若し一讀し

て名護町貧民の状態を略知し、其痛ましきを痛ましとし、其面白きを面白しとすると同時

に、斯る境遇の貧民も東洋の新文明國たる日本の同胞3千9百餘萬中にあるものなるかと

思惟せば記者の本懷とする所なり。

  明治21年12月1日時事新報社大阪出張所に於て
                     小林梅四郎識す


第1 名護町の地理及其由來
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 此實況紀略に入るの前、名護町の地理及其由來を略説すべし。名護町即ち今の大阪市南區
日本橋筋は、大阪市街の南方に位し肩摩轂撃の繁昌雜沓を以て大阪の第1位なる道頓堀の涯、
日本橋を北より渡りて1直線に南に走りたる市街なり。其東方には高津神社、生玉神社、四
天王寺等の名所も間近く、南方は住吉、境に通じて紀州街道の入口を占めたり。右日本橋の
南橋詰より今の東成郡今宮村までを一二三四五六七八九の9箇町に區別し何れも名護町と區
別し居りしが、右名護町5丁目までの間は商賣も可なりに繁昌して貧民も少く正業者多かり
しにも拘はらす、名護町とさへ謂へば大阪の人々一概に貧民無頼の徒の巣窟なりと認定する
を常とする程なりければ、此間の人民名護町何丁目と稱するを厭ひ、遂に時の奉行に情願し
て日本橋通り何丁目と改稱したるは今より數十年前のことなり。左れば名護町の舊名を稱し
來りしは其5丁目以南なりしに、維新の際此5丁目以南も亦た名護町の唱名を廢し、今の如
く日本橋と通稱し舊と9丁目に分ちし處を5丁目に縮め分ちたり。而して所謂貧民無頼の徒
の巣窟は今の日本橋3丁目より5丁目までの間、即ち維新頃まで名護町と稱し來りし處なり
とす。
 今名護町の由來を尋るに頗る悠遠たるものあり。以て大阪の地勢古より大に變遷し來りた
實跡をも證するものなり。即ち名護町の名稱は名呉ノ浦と稱する海浦の名より出でたるもの
にて、其名呉ノ浦なるものは人皇22代雄略天皇の御宇呉國より織女呉織漢織を獻ぜし際、
船を著けたる海洋にして當時より稱へ始めたる名稱なるよし。舊記の傳ふる所に據れば堀河
天皇の御宇の頃は尚ほ此名護町の場處即ち名呉ノ浦以西は渺茫たる浪速の海にして、今の大
阪難波藏邊より西南の地方は海中の陵土たりしなり。蓋し名呉ノ浦と稱したる頃は、其邊海
岸の風光頗る善く當時の都人士爭ふて來り賞したるものと見え、吟詠の今に傳はる者少なか
らず。試みに其中著名なるもの二三を擧げん。
 萬葉集人丸の歌に
  住吉の名呉のはまへに駒たてゝ玉ひろひしてつゆわすられず
 後嵯峨院の歌に
  かつらぎの岸のかすみを出る日に名呉の濱邊の氷とくらし
 後徳大寺左大臣の歌に
  名呉の海のかすみの間よりなかむれは入日をあらふ沖津しらなみ
名呉の浦は此邊海岸の1地名にて此他舊記に存する所を見るに舖津浦、三津濱等の名稱も此海
岸一部分の名なるが如く、此津々浦々を總稱して大江の岸と唱へたるよし。即ち今の大阪生玉
の邊より住吉郡住吉に至るまで、一帶の海岸を籠めたるなり。斯くて星移り物變るに從ひ此邊
の海面漸く埋まりて、陸地となり名呉の呉も變じて護となり、已に豐公が覇府を定めて、大阪
城を築きたる時分は、此邊松樹を鬱生して名護の松原と稱し居りたる處、當時此場所を大阪城
外郭の馬場として、之れに多くの枳穀を植込みたる所謂枳穀の馬場なるもの、此名護の松原の
一部分なりしよし、既に今尚ほ名護町4丁目7番地と同3丁目11番地には、名護の松原時代
の老松1本宛を存し土人之れを名護の松と唱へ、又枳穀の古木も數株を存せるものあり。而し
て豐臣氏亡び徳川氏代りて覇業を開らきたる後、人家始めて出來茲に名護町の名稱起りたるな
りと云ふ。

第2 名護町に貧民の集りし事情
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 前記の如く名護町は南海道に出入する咽喉の要區なりければ人家も漸次に増加し、文和5年

大阪町奉行久貝因幡守が大阪市中に始めて公許の旗人宿を設けたる時、名護町は旅人宿營業許

可箇所の第1筆にてありし。是れぞ、大阪に旅籠屋株を生じたる起因にして、箇所は名護町

(南海道の入口當時最も人足繁き所なりとて旅籠株十株)片町8軒屋(東海道の入口にて旅籠

屋株8株)曽根崎新地(西海道の入口にて旅籠株5株)の3ケ町旅籠株數は總て23なりと

す。舊記に據れば此時の名護町の旅籠屋は瓢屋、分銅屋、傳法屋、河内屋、大師屋、鍵屋、若

江屋、阪井屋、(玉)の伏見屋、輪違等にして今は其家筋もなく僅かに日本橋筋に一二の家名

のみを殘すに過ぎず。偖て右の多き旅籠屋出來て諸國の人口名護町に宿泊するの道開けたれど

も、未だ貧民を集むる直接の原因とはならざりしが、其後寛文3年時の町奉行石丸石見守の代

に及び諸國より、大阪に出稼ぎする力役者、例へば米搗人、酒造人、油絞等の爲めに始めて名

護町に木賃宿なる1種の旅籠屋を許したるを第1とし、(名護町の木賃宿は總て30株、大阪

全市中に來る諸力役者宿泊の專權を所有し、如何なる事情ありても此等の力役人は此30軒の

木賃宿以外の家にて宿泊せしむるを許さざるの制規なりしに、大阪の市街漸く廣りて後は力役

者の便を計りて各市中に足溜屋今の所謂雇人受宿の如きものを設け、力役者をして之れに宿泊

せしめ、右各足溜屋よりは、月々名護町の木賃宿仲間へ5百文宛を拂ふたる樣の取極めもあり

しよし)其後名護町の繁昌次第に進み諸國より入り込む人多きにつれて、西國巡禮等乞食非人

の類も從つて増加し、天王寺村字邦ケ辻邊は常に乞食非人の野宿所となりて體裁甚だ見苦しき

に至り、更に木賃屋假株2十餘を許可して是等の乞食非人を宿泊せしめしを第2として(一説

には此木賃宿假株を許せし原因は、當時幕府の老中某が大阪巡見の際合邦ケ辻に到り非人乞食

の見すぼらしき有樣を見て、時の奉行に忠告したりと云へり)茲に始めて貧民を集むるの基礎

を作りたり。

 かくて一たび乞食非人等を宿泊せしむる源を開きて以來は、一層此等貧民の來集を促し、從

つて無頼の惡漢も多く來り、今より數十年前には最早相當の身元ある人々は同町に宿泊するも

のなきに至りて眞の旅籠屋は零落し、木賃宿獨り繁昌を極はめ當時世人名護町の名を聞て已に

其貧民無頼の惡漢兇兒が巣窟とせる場所なりと合點する迄に及びたり。最初の程は宿屋業者の

中より年行司2人を選びて、仲間及び宿泊人の取締を爲せしが、其の後惡漢無頼の徒増加する

に至りて制禦行き屆かず爲めに12人の年番を置くに改めたり。此等の年番は自ら宿屋業を營

み兼て又大阪與力同心の手先をも勤め、仲間及び貧民の惡漢等に對しては非常の權力を有し、

官民の間に立ちて取締りを爲したるが故に、禦し難き惡漢をも禦し得て其功少なからざりしが

其弊も亦甚しきものあり。同町より出づる強盜、竊盜、人殺等の諸罪人は此年番の手より與力

に引き渡すものなりしに、一方に於ては此等の惡漢兇兒を自己の裏長屋に匿し置きて、與力に

は其場を善き樣に取繕ふことあり。又時としては進物の代りに罪人を與力に引き渡すことさヘ

もありて、年中自家に賭博場を設け置きテラとて納める賭博場料の如きものを、徴收したるが

如きは與力同心も之れを當り前の所業と、見做したる程なりと云ふ。


第3 名護町貧民の戸口及其地籍地價
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 前節に叙するが如く名護町にて貧民の惡漢無頼輩が巣窟とせるは、其5丁目以南にして現今

の日本橋筋3丁目、4丁目、5丁目の間なりとす。(此紀略は總て此3ヶ丁のものなりと知る

べし)舊名護町戸長役場の取調べに據れば右3ヶ丁の總地籍は3萬零4百8十餘坪にして、内

道路芥捨場等の空地を除き、建物のある地籍は1萬7千零50餘坪此地價金合して、金1萬7

千2百97圓96錢7厘なり。又去る9月の調査に依れば名護町貧民の戸口は左表の如く

なりと。

 名護町貧民の戸口表
町名     戸數   人員    男    女
3丁目   709 2531 1324 1207
4丁目   732 3127 1528 1599
5丁目   813 2877 1455 1419
合計   2255 8532 4307 4225

 右は戸籍帳簿の上にて取調べたる同町内居住の戸數人員にして、尚ほ東京、山口、島根其他

の數府縣より寄留し居るものゝ戸數68にして、男女合計百73人あり。左ればこの3町

内即ち所謂名護町貧民の戸數は2千3百23戸人口は8千7百零5人なれども、此内家主な

るもの百45戸あり。此等は決して貧民にあらず。貧民に高利の金を貸し高價の家賃を取立

てゝ、中には隨分富裕なるものも少からざるが故に、眞實の所謂名護町貧民は此家屋百43

戸を除きたる餘の分と知るべし。但し家屋に就て分てば、表通りの家は大概家主にして、左右

の路次より通ずる裏長屋は、大抵貧民として過ちなかるべきか。


第4 名護町貧民の住居家屋
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 前説までは此紀略の序に屬するものにて、演劇にて云へぼ先づ3番叟、寄席にては、所謂前

座の御祝儀寶の入船とも云ふべにき過ぎざれども、本節よりは其本幕に入るものなり。名護町

の家屋全體を籠めて見れば、前に述べし如く北より南へ1直線に表通りあり、之より左右に長

屋を西東に建て連らね、其左右の長屋は大概2棟宛前向き合せに相對峙するものなれども、中

には片側建のものもあるなり。表通り家主の家屋も名護町のものたるを免れずして、矢張不潔

汚穢なりと雖も其構造は尋常の町屋の如く、2階造りにして間取りと云ひ入口と云ひ其他窓戸

の矩合等普通のものなり。讀者は只大阪の尋常町屋にして不潔且つ粗末なる物と合點せば大過

なかるべし。然れども貧民の家屋たる裏長屋の構造は容易に想像に汲み難しとす。故に余は先

づ長屋1棟の構造より叙せん。

 1棟の長屋其の長さは大概2、3十間其高さは屋根を除きて軒下6、7尺に過ぎず、其奧行きは

廣きもの2間狹きものは9尺、其屋根は或は瓦を以てし或は板を以てしたれども、間口に別に

軒屋根を附けたるにあらず、凡そ1尺2、3寸程葦き下ろしたるのみなれば軒下雨雪を除けたる

空地は、1尺内外なりと知るべし。かくの如きもの其1棟にして多きは20戸、少きもの8、9

戸の相長屋と別れ居るなり。但し此長屋二た棟左右前向き合せに相對峙する其中間の空地は、

廣きも左右の軒下を合せて6、7尺、狹きは4、5尺に過きず。其空地は即ち相長屋2、30戸數十

人の庭となり、道となり、濡物の干場となり、子供の遊戲場となり、將た中間に小溝ありて下

水の流れ筋ともなり居るなり。其窮屈想ふべし。

 1棟の構造は右の如し、今度は借屋一と竈に就ての有樣を記すべし。一と竈の借家、大小品

を異にすれ共1棟の中は其間口其奧行とも總て1棟なる大さにして、内部も同じ構造なり、今

名護町長屋の各戸の大小其品を別てば、大概3種に分かるべし。其第1は間口9尺奧行2間の

ものにして1番廣きものなり、第2は間口1間奧行2間のものにして中位に居り、第3は間口

1間奧行9尺、1番狹きものなりとす。

 偖て家内間取は右3種の大小に應じて異れども、大概入口の所、間口の廣さ丈け3尺の間を

土間とし、其奧は床を張りたるが故に、第1の家は疊4枚半と2分の1坪半なる土間たる可く、

第2は疊3枚に2分の1坪の土間、第3は疊2枚に土間は半坪なるものなり。

 入口の廣さは大概4尺と3尺との2種にして戸の如きものあれども、敷居鴨居も完全ならざ

るが故に、戸締りなきも同然なり。かくて入口の處を除きては3方皆壁にて窓もなく、烟出し

樣の空隙もあらざるを以て、空氣の流通惡しく且つ光線も通り兼ねて家内何となく陰氣なり。

家々にて多少の相違はあれども土間の一半は竈場臺所等飮食調理の場處にして釜、手桶、手水

桶等をも安置し其一半には履き物、薪類等を散らし置くが故に、殆んど猫額大の空地なし。疊

の方は食堂、寢室、茶の間、仕事場を同一の場所に兼ねたるが故に、壞れ茶碗もあり、土瓶も

あり、夜具もあり、散亂したる箸もあり、食物の殘物も實體に顯はしてある等、頗る狼藉汚穢

を極めたる中に、一家數口の人々相起居して、或は家内にての坐仕事、即ち傘の骨削り、麻裏

の裏縄編み、マツチの箱張り等を爲すものなるが故に、是又立錐の餘地晝夜ともなきものなり。

 家内の疊破れたるは其肉を顯はし、破れざるは黒色に汚穢物を以て染め出したり。三方の壁、

粘土半ば落ちて骨亦た傷を負ふか、否らずんば煙煤にて汚れたる新聞の腰張所々斑點を穴に留

めて屋外の氣を通じ居れり。軒下の尿壼は四邊に散り、嵩みたる野菜類、魚鳥の骨、及び其他

の腐敗物並に下水の汚水と其臭氣を混同して得も言ふべからず。前條の如き内外の光景なる家

屋に多きは、8、9人少きも4、5人は住居せり。夏日の炎威強き晝、冬日の寒氣嚴しき夜を始め

老幼の病に臥せし砌り、妻女の分娩せる時抔の事を想像せば、讀者容易に是等の貧民家居の状

態を察し得べし。印度土人の一種族シヤンダスと稱するは、6尺4方の矮屋に住居せり。世界

中蓋し最小の家屋を有するものなり云々とは印度誌中の一記事にて見し所なるが、未だ其實地

を見ざれば、比較相立たずと雖も、所謂家屋としては此の名護町の家屋は先づ最下の部類に入

るものなるべし。余が始めて此長屋に入り實際を目撃したる際、貧民中の最も貧窮にして憐れ

千萬なるものゝ家屋の状態は、今尚ほ映じて瞑目の中に現じ居れば次節に其一を記載すべし。

名護町貧民家屋内外の樣子は右の如くなるが之れに附帶して茲に1種の事情あり。其は同家屋

に限り古來火災のありし▼こと▼なき一事なり。其次第は右の如く矮小なる家屋内、別に器具

の燃草となるものなきと、且つは一家多人數を入れて相長屋の人口少くも、數十人に過ぎるが

故に縱令誤って失火しても、その深更たるに拘はらす、▼一▼直に消防の助手を得ること容易

なることに因るものなりといふ。


第5 名護町貧民中憐れなる家屋の状態斑
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 余の柴氏等と名護町に始めて入りし日は、午後より小雨を催ほし至極鬱陶しき天氣なりしが、

名護町3丁目より順次に左右の路次に立ち入りて、視察したる内4丁目中程の東側右手の1棟

は名護町にても可なりの貧困長屋にして、中にいと憐れなる1家居を認めたり。ホノ暗らく且

ついと狹隘なる長屋の戸口には種々の廢泄物、半ば腐敗したるものアチコチに散亂して近寄る

可からず、其傍らには全體を露出して覆ひなき尿壼、尿壷を兼ねたるもの峙てり。土間の一方

には古下駄、朽木の細片となしたる薪、紙屑古切れを入れたりとの名殘を留むる籠、鼻緒半ば

切れ踏底は眞黒に泥上と垢とにて、綱目を漆喰にしたるが如き草履1、2足、其一方には已に形

體を失したる竈、破れ蓋その3分の2を覆はんかと思はるゝを頂きたる釜、青物市場の床下に

落ち散りたるを拾ひたりと思はるゝ切々の萎菜を不整頓に入れたる手桶、湯屋の湯手桶の果て

なりと思はるゝ手水桶の上に(大阪の湯手桶は直徑6、7寸、高さ3寸位の淺き物にて東京とは

違ふと知るべし)伊勢蝦の肉を取りたる骸骨3、4箇と、鳥類の少しく肉を殘したる頭骨2、3を

入れたるブリキの皿を載きたる者及其他筆もて形容し得ざる種々の潔からざる者を認めたり。

床上の疊を見るに由なかりしかど名護町にては廣さ中位に居る3疊敷なり。中央には縞柄布目

の分らざる程に薄き布團1枚を布き、旦つ覆ひたる老婦あり。年齡は54、5なるべく、久し

く病み勞れたりと見え顏色、1種の青昧を含みて、呼吸安からざるの聲あり。余等1行の屋前

に立ち止りしを見れども身動きを爲さず、瞳孔少くゆるめきしのみ。其傍らには7、8歳の男子、

耳邊より頭部全體に藻瘡の握り付けたる如く生じたる者、所所破れたる上袖はムシリ取りたり

と、覺ゆる弊衣を着て不行儀に侍坐し、彼方の隅には土瓶、大小の茶碗、或は重り或は倒れて

散在し、此方には破れたる蚊帳と思はしきもの蟠りて、其一部は老婦の布團の下に敷かれたり。

 余等一行は此情景を見て異臭芬々肌を襲ふが如きをも忘れて暫く止まり、コレハ/\と許り

にて互に相目語せしのみ、余は懷中有合の銅貨數錢を投じて聊か、其憐れを惠みたれども、老

婦及小兒とも別に感謝の状を呈せざりしは、或は余等1行の風體彼等の目には新奇にして、驚

きたるにてやあらんか、察する所當家の主人として働らき此老婦と小兒とを養ふものは、今正

に外出の働らき中にて其留守なりしなるべし。

 かくの如きもの余が目に觸れたる最も憐れなる家居の1なり。但し其憐れなる風物の形容は

余が拙筆其十が一をも、現はし得ざるは殘念なり、讀者其心して讀了すべし。


第6 名護町貧民の家賃
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 名護町貧民の家賃拂方には2種あり。1は1箇月幾何とて月極めにして尋常の家賃の如く、

一は1日幾何として日日に納むるものなり。前者は貧民中の徳義あるものにて、定まれる業務

に從ひ貧困ながら相應に口過ぎをなして、一定の借家に永住し年來の關係もありて、家主の信

用篤きものにあらざれば約束整ひ難し。後者は1定の職業もなく勤怠時なく、隨分不正をも行

ひ今日茲に住居しても明日は其影を匿すことも間々あるが如き不信用の貧民が拂ふべきの家賃

方法なり。名護町の貧民中日極めの家賃を拂ふもの、其7分にして月極めは3分に過ぎずと云

ふ。此日極め家賃取立法は日々夕方貧民の出稼ぎして歸り來る時、家主が待ち構へて徴收する

ものなり。住居家屋の構造部に於て記載を省きたれども、是等裏長屋に通ずるの路は、表家即

ち家主の家の傍らか若しくは其1部に細く仕切りたるものにて、一方口なれば相長屋數十人の

貧民は出入をも必ず此細路を過ぎざるべからざる樣に構造して、恰も芝居小屋興行小屋の木戸

口の如くなるが故に、時刻至れば家主は其木戸口に立ち、從つて歸れば從つて徴し、若し滯る

ものは直ちに立退きを命じて容赦なき仕組みなるが故に、案外に不納者は少なきよし。但不信

用ながら木戸口の取立までを要せず、日々貧民自ら納め屆くるもあれば、中には此方法に據ら

ざる家主もありと知るべし。

 偖て又家賃の高は如何と云ふに種々の品あり。先づ月極めの分は上等60錢より30錢まで

とし、其日極めの分は最上等2錢5厘より8厘までの間を限りとす。家賃の割合としては名護

町貧民の家賃甚だ不廉なりと雖も、其實決して然らずと申すは、右月極めも日極めも上等も下

等も大概は釜1個、竈1個、手桶及手洗桶を附屬せしむるは、勿論尚ほ夏には蚊張1、冬期に

は布團1枚を籠めて借し與ふるものなればなり。其日の朝飯を濟して晝飯の用意なき程の貧民

の身分にして可なりの釜あり、又蚊帳等あるのいと不似合たるもの、畢竟之が爲めなりと知る

べし。


第7 名護町貧民の衣服附損料貸業
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 名護町貧民の着するものには所謂衣服らしきものあらず、秋氣冷涼を催して朝夕の風、肌を

襲ふ頃に及び大阪にて有名なる古着市場即ち天王寺、難波等に至りて成丈廉なる古切を買ひ求

むるものなり。此等の市場にて賣捌く品物は、彼の屑屋の籠より出生したる中其最も下等なる

ものに屬し、1枚の袷には羅紗の部分もあるべく、唐棧の箇所もあるべく、又其單衣には兵兒

帶、前垂、犢鼻褌等を洗ひ晒したる分もあるべしなど、1種の綾模樣あるもの少しとせず。而

して此類の衣服も一家内一樣に相纏ふにあらず。只外出して働くものに限り、其他老幼の家内

にあるものは、家主より家屋に添へて貸與したる薄き布團を覆ふて、僅かに寒氣を凌ぎ中には

寒夜犬を抱きて、其體温に依頼するものさへありと云ふ。斯くの如くにして三冬を過ごし、春

風一たび和氣を催し來れば大概は幾何錢の價もなきものながら冬着一切を典賣し、殘す所は僅

かに外出して違警罪に觸れざる程のものに過ぎず。是故に夏季家に居るものにて、衣服の形あ

るを纏ふものなく婦人の如きも、只腰部を僅かに覆ひ匿し居るのみの者十中の7、8なり。但し

右は名護町貧民一體の衣服の模樣なれども、中には不正業即ち掏拘摸杯を働く輩は、尋常人の

如く着飾り居るも少からずと知るべし。

 偖て又彼等平生の衣服は前條の如くなる代りに同町には衣服の損料貸をなすもの多く貧民中

必要なるものは、大概此損料貸に依頼して辨じ居る事なり。此等損料貸屋を營む者は大概家主

なるが、貧民を相手にして危險多ければにや其損料は格外に不廉なり。當今の相場なりと云ふ

を掲げんに、上等秩父縞の袷、襦子の女帶(此等を借るものは頗る稀なれども年若き女子に間

々あるべし)博多男帶は共に、各1日3錢、二子織の袷、小倉の男及女帶は共に1日2錢5厘、

木綿の單衣2錢其他下等の物にても1品1錢より廉なるものなし。又大布團は一夜2錢5厘、

敷布團は同1錢5厘、右何れも1日限りの約束なりと云ふ。


第8 名護町貧民の食物▼附▼同市中の商賣
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 貧民中上等の掏摸を働く者及び遊藝人(千日前杯の興行場にて)等は、尋常人も及ばぬ程の

美食をなすものあり。四邊の風物家屋の有樣いと見すぼらしきに似ず、夫妻差し向ふて煮鍋の

晩餐を喫し居る杯は、余の視察中往々にして目撃せし所なり。然れども此等は眞に百中の1、2、

滔々たる貧民の食餌は頗ぶる粗末を極めたり。最下等の白米少許に薩摩芋、豆腐粕等を混じて

炊くものは、最上等部類に屬し大概は大阪鎭臺諸營の殘飯並に大阪市中牛肉屋、鳥屋抔の殘飯

及び尋常の市人より貰ふと同樣にして得たるもの等、精粗剛柔米麥各種を交せ合せたものを、

販賣する者より買ひ得て、或は之れに水を和して粥にし或は其儘にして食するもあり。尚ほ此

等以下に至りては、各青物市場より拾ひ集めたる蔬菜の屑、燒芋屋の屑芋等の中に名のみなる

少許の米、麥、若しくは引割、下等麥糊(フスマと稱する小麥の皮を糊にしたるもの)等を入

れて食するもの多し。偖て又添菜としては鷄肉屋の臟物、蒲鉾屋、料理屋、魚市場等より得た

る諸魚類のアラ(アラとは魚類の腸杯の類を云ふ)伊勢海老の骸骨、鰯の頭等苟も食し得べき

もの僅に附着して居るものは、總て名護町貧民の食膳に上るものなりと雖も、其大部分を占め

たるは大根、人參、蕪、唐菜等の野菜類とす。此等の野菜は錢を投じて買ふものありと雖も、

大概は今宮附近の田畑に入りて竊み來るもの多しとす、斯れば農夫等も古來種々に工風して防

禦すれども多數の貧民晝夜其隙を窺ひ居るものに對しては、迚ても敵し難く今日の勢多少の野

荒しは、據ろなきものと諦め居るに似たり。故に名護町近傍の諸田畑は爲めに其市價格外に、

廉なる程の次第なり。以て其一斑を推知すべし。

 食物に因み深きもの多きが故に、名護町商賣の市況1斑を茲に附記すべし。東京芝區の新網

町、四谷の鮫ヶ橋、下谷の山伏町等には鰹節の削りたるを賣るものあり云々とは、世人の珍ら

しく思ふ所にして毎度右町内に、貧困者多きを稱する1話柄となり居るものなれども、一たび

名護町に入り込み商市の有樣を見れば、鰹節の削りたる者の如きは決して珍らしからざるを知

るべし。同市中にて殊に目立ちて奇態なる商賣品を擧ぐれば古下駄、古杭等を割りて小束とな

し1把3厘若くは4厘位の正札を附したる薪、伊勢蝦の骸骨、鰹の頭、鳥類の腸、魚類のアラ

等を戸板に載せて、1山5厘若しくは6厘なるもの、澤庵及び菜漬の切りたるもの等を重なる

ものとし、又2、3年前までは、彼の鎭臺等の殘飯を粥にし1杯何厘にて賣りたるもありしが、

今は米價下落の爲めか其跡を斷ちたるよし。其他米、麥、糊類、味噌、醤油、煮豆、砂糖、鹽

等何れも3、4厘以上宛の賣捌きを爲し居れり。止むを得ざるはこれ工風の母なり。名護町貧民

の如く晝飯を終りて晩餐の用意なく、1錢2錢、從つて儲け徒つて飮食するものを相手にして

は尤も至極の商賣法なるべし。此等の商賣をなすものは大概小家主にして勢安く買ひ高く賣る

が故に、收益の割合を云へば、世間復た名護町の小賣商賣より利多きはなかるべしと云ふ。

 右の外名護町の商賣は質商、貨物商、人力車貸業、酒屋、床屋、湯屋等にして何商賣とも同

町に同町に限り卸賣業者は1軒もなきことなり。


第9 名護町貧民の職業
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 名護町貧民の職業は種々樣々にして、取調上頗る困難を覺えし所なり。今大阪南區役所并に

同警察署の帳簿によれば其職業の種類及男女年齡を區別して左表を得べし。

職業名 15年未滿の男 同上女 15年以上の男 同上女 男女合計
普通商      80    66       169    162   477
質古物      21    15        87     49   172
傘         79    68       271    175   593
菓物         6    26        56    58    146
飮食         7    14        37    34     92
貸物        12    11        39    28     90
工業        26    25       226   115    392
輓夫         0     0       330     0    330
屑          3     0        39    63    105
マツチ      122   257        51   211    641
被雇       143   102       374   203    822
遊藝        10    18        64    43    135
屑拾       234   261       164   433   1092
無業       556   709        67   384   1716
雜業        72    54       628   352   1106
學生        88    54         0     0    142
乞食       159   123        87   112    481

 右表は今年9月3十日の調査に據りたるものにて男女合計8千5百32人職業の大別は17

種なり。中に就きて千7百16人の無業、千百零6人の雜業、千零9十2人の屑拾、4百81

人の乞食、百35人の遊藝、8百22人の被雇等取り留めたる職業なき其數多く、普通商、

傘、菓物、飮食、貸物、工業、輓夫、マツチ等の定りたる職業者少きの1點は讀者の注意して、

宜しく名護町貧民の重なる業は、如何なるものかを想察するに足るの材料たるべしと雖も、各職

業の小區別を擧げて1讀を、煩はすこと1段の興味ありと存するが故に、左に余が取調べたる所

を記すべし。右表中の工業に入りつべきか、名護町團扇と稱する澁團扇は、古來有名の工業品に

して諸國の鰻屋料理屋等を始め1切此地の産を用ひ來りし程なれば、之が製造に從事するもの多

かりしが、天保年度の頃より東京、奈良等に競爭者起りたる以來は、次第に衰微して復た從前の

如くならずと雖も、尚ほ數十戸2、3百人の製造者あるべしと云ふ。次に傘日傘の製造も以前は盛

んにして一廉の産物なりしに、蝙蝠傘流行の爲め昨今は其需用高を減じたれども、尚ほ4百餘人

の製造者あるを見れば、産物としては澁團扇より金額の多きものなり。此2種は同町目貫きの殖

産事業にして之れに從事する職工も先づ世間普通別段に變りなきものなれは、敢て奇とするに足

らずと雖も、此等以外は隨分面白き職業體を現はし居り、即ち棕櫚の繩捻り、麻裏の裏繩編み、

マツチの箱張り、千日前の小興行小屋若しくは市中の門に立つ新内、淨瑠璃義太夫、左衞門、一

つとせい節、女相撲、手品、うかれぶし、軍談、講釋、落語、ヘラ/\踊り、西洋手品等を始め

として人力車の先き輓き、煙管の仕替、古下駄買集め、花賣り、明樽買、ランプホヤ破れ買、紙

屑買、荷車輓き、磨砂賣、古本拾ひ、紙屑拾ひ、其他雀、燕、龜、蜆、鰌等を繁華なる橋上若し

くは會式等多數の人の集る所に持ち行き、相當の代價を得て之れを放つもの、犬殺、猫取、人家

檐下に近き所及橋際等の川に入り河底の泥土をスクヒ擧げ、其中より針、釘、金銀銅貨等の諸金

物類を拾ひ取る河童、塵芥より紙屑、布切れ、金物及び其他撰り別くるもの、西國巡禮(巡禮と

金毘羅參りを職業の1とするは如何なれども、彼等は物貰ひの方便に其裝束をなすものなれば之れ

職業中に入れたり)金毘羅參詣者等の種類等なりとす。左すれば人間世界にあられ得べき下等の職

業は名護町貧民中に殆んど其跡を、止めざるものなしと評し得べし。

 以上の職業其名のみを聞けば如何にも奇態に相違なしと雖も、中には迚ても之れを營業として

活計の道立ちがたかるべくと、思はるゝもの多し。然るに其實際貧しながらも、餓死するに至ら

ざる1義は、讀者の疑ふ所なるべし。然れども是れ決して怪むに足らずと申すは、此等下等の職

業をなす名護町貧民は、此等の職業を表看板として内職に竊盜を行ひ居るものもあること是れな

り。前記の職業中新内節以下西洋手品に至るまでの旅藝人には少しと難も、其以下煙管仕替古下

駄買集め等より西國巡禮、金毘羅參詣者等に至りては、日々市中を隈なく徘徊し人家の隙を窺ふ

て、あらゆる物品を掠め去るの小竊盜多しとて、大阪府人の用心する所なりと云ふ。斯れば大阪

市中の人々は1寸店先きに履き物を脱し置くにも、常に注意して戒嚴怠らざらざるもの1般の習

慣なれども、猶ほ且つ小竊盜の被害者は、之れを他市街に比して數倍多きを見るの次第なり。故

に他地方より始めて大阪に來り、此事情に通せざる者は、最初大概2、3足の履き物を竊取せらる

もの多く、現に余も其1人にして、余が知人中にも亦少なからざるなり。

 されば前記の諸職業は本の名のみにして、其實は他に實職あるものなり。此外に其妻女の名義

を以て、或る職業の鑑札を受け置き職業ありとの體面を裝ひ、自己は市中を横行して竊盜を專業

となすもの少からずと云ふ。さればにや大阪人は勿論少しく名護町の事情を、耳にしたる人々は

同町は古來今に至るまで盜兒の巣窟なりと、信じ居るもの多きことなり。名護町盜賊の事情は、

次に之を記載すべし。


第10 名護町貧民の盜業事情
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 名護町貧民の竊盜は古來1種の職業となり居たるものなるが故に、強盜、竊盜、掏摸、騙盜等

大小の盜賊社曾は、立派に組合の組織立ち組長とも云ふべき頭分ありて、部下の盜賊を統轄した

るものなりと云ふ。今日も實際に此事の行はるゝや否やは、知るべからずと雖も、今その古來の

習慣なりとて、聞き得たる所を略記するに臨み、先づ盜賊社曾一般に通ずる隱語より叙せん。留

守宅即ち不在の家に忍び入りて物品を、竊盜するを明巣と云ひ、市中の諸商店前に陳列せる物品

を盜み取るを揚りと云ひ、洗濯物の未だ洗はずして盥の内にあるを取ることを蜂の巣と稱し、荷

車上の積荷を往來の途すがら竊取するを蜂追と云ひ、夜半人家に忍び入るは夜商、宵の間に忍び

入るを宵泥、土藏倉庫に忍び入るはジンドウ、強盜するを捕へ、掏摸を働く事を松サン、銀行其

他の店頭杯に於て革嚢等を淘摸替ふるを置差と唱へ、盜品を買取る者は居巣、同品を先づ取敢へ

ず持ち込みて竊し置く家は袋、仕合善きをテンカツ、不仕合なるをシケ探偵の入りたるをガシと

稱し、盜業に出掛くるをナダマワリ、首尾よく盜み課ふせたることを商買又は買物と云ひ、入檻

することをカマルと稱する等先づ古來今日に至るまで、名護町の盜賊社會に行はれたる隱語の大

略なるべしとなり。

 さてその盜賊社會組織の大略を掻き摘んで云へば前記の如く盜賊中の智慮あり働きあるもの優

勝劣敗の作用に據りて、首領となり、己れに附置き從ふ部下の群盜を思ひの儘に支配するものに

て、之れを首領專制の仕組と云ふ可きか、而して名護町には此首領たるもの1、2にして止らず、

其處に數多き首領各自に一部落を立て居りしよしなるが、此等の首領は何れも前記の如く、名護

町の支配人にして半ば與力同心の手先きなる12人の又手先きとなつて、表面を繕ひ其裏面には

年番とも心を合はせ、部下群盜の上前を取りて奢侈を極はめ居るものなれども、首領と首領との

間は頗る親密の關係を有して、互に相輔助し各自の商買機關たる居巣、即ち盜品買取人、袋即ち

盜品の預所等と合體して陰となり、日向となり、以て群盜の安寧を保持せるものなり。故に若し

ガシ即ち探偵の入りたる時などには、最も熱心に相盡力してカマル即ち入檻に至らざらんことを

努むるよし、又此等盜賊の機關たる居巣、袋の如きは捕縛入牢の危險少なからざるが故に、報酬

は非常に多く例へば現品十圓の價あるも、居巣は之れを1圓内外にて買落すが如く、又首尾克く

居巣に賣却するに至れば、其賣價の34割は袋の手に徴するが如き慣行なるが、居巣は盜品中彼

物の所有主を判しがたきものは其儘にて賣却すれども、否らざるもの即ち衣服の如く、紋所縞柄

等見覺えあるものは、之れを染め潰ぶし仕立替へて、賣捌くものなりしといふ。

 以上は維新頃までの名護町盜賊社曾の有樣なり。斯る仕組なりしが故に、被害者たるもの此等

盜賊の首領に金を與ヘ、斯く/\の品を盜まれたり。何卒取り返へし得たしと談ずれば其當座の

内なれば、大概其品を囘復し得たるものなりと云ふ。然るに王政1新の後は與力同心の役廢れて、

警察の仕組起り其取締方頗ぶる嚴重となり、名護町盜賊の有力なりしものは、繩に就きしもの多

く又否らざるも名護町は、已に盜賊安を全ふするの地にあらざりしを以て、去つて中央市街地に

轉居するもの多し等にて、此盜賊組合の組織は全く瓦解し、爾後年々盜業を營むもの數を減ずる

に至れリ。然れども前記の如き因縁ある名護町なれば、彼等相互の關係こそ維新以前の如く、秩

然たらざれ自ら1種の交通相行はれて、互に相救護するのみならず、大阪中央市區の内に居を構

ヘたる盜兒も、舊來の親眤を以て名護町と氣脈を通じ居るが故に,警吏探偵をして空しく籠鳥を

取り逃がしたるの思ひあらしむるもの屡々なりと聞く。斯れば同町内の人氣は頗る惡しきが故に、

大阪市中の人々は同町に入ること頗る用心を要する者なりと、相誡め現に行商人即ち飴菓子、菓

物、小間物等を商ふ者さへ1人も尚ほ同町に入る者なき程の次第なり。何となれば若し此等の商

人同町に入り込む時は同町貧民の婦女子互に相謀りて前後左右に取り纏ひ、甲が價を問ふ間に乙

が物品を掠め去る等の所業間々これあるが爲めなりとぞ。今試みに南區警察署の調査に係はる同

町盜犯人員の統計表を掲げて、盜兒多きの1例を示さん。

名護町貧民の盜犯取調表
年度   強盜犯 竊盜犯 掏摸犯  小計
14年度   6    61   13   80
15年度   5    61    5   71
16年度   5    99    9  113
17年度   6   120    6  132
18年度   3   120    3  126
19年度   3    71    7   81

 右表中19年度の分は1月より7月に至る迄の調査にして、7箇月のものなるが故に、5年7

箇月にして盜犯人は全計6百零3人なり、勿論右表は只南警察署の手にて捕縛したるものゝみに

して、他區の警察署の手に捕縛されたる名護町貧民盜犯の數を加へざるが故に、其全數にあらざ

れども猶ほ且つ1年に平均百9人なり。第9、第10の兩章に掲げたる職業表を土臺として、名護

町貧民の15年以上のものを區別すれば、男女合計5千百1人となる。盜犯に15年以下のも

の稀れなるが故に、此5千百1人に前記1年の盜犯者あるの勘定なり。況んや捕縛せられざる

の盜兒は、捕縛せられたるものよりも、常に其數多きものなるをや。盜兒の數決して少きにあら

ざるを知るべし。


第11 名護町貧民の婚禮及出産
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 人事の大禮たる婚姻の方法は、國により處に從つて一ならざる中にも、未開盲眛にして貧窶な

る人民中に行はるゝものは、殊に出色の奇風ある事其常なれども、名護町貧民の婚禮は別に大層

面白きにもあらず。概して言へば日本流の父母干渉派のものにあらず、米國風の所謂自由派にし

て取り留めたる儀式作法を缺きたるものと謂ふべし。名護町貧民の子女其年頃に達したる者、或

は紙屑拾或は興行ものゝ遊藝其他種々の職業上にて相識となり、朝稼ぎに出掛くるの前、タ歸寓

晩飯を濟したる後等1、2囘男女相接して談話すれば早く已に互に慇懃を通じて一雙の夫婦となる

ものなり。何となれば彼等の父母兄弟は、年頃に達したる彼等の身の上に就きて、殊に男女相選

んで相愛する事に就ては、毫厘も干渉することなきが故に、彼等少壯血氣の旺盛なる情欲は、一

切の他の事柄を顧みるの餘地を思案に與へず。一顧一面の相識上より起る男女雙方の慾心をして、

直に逞うせしむるものなればなり。彼等はかくの如くにして夫婦と爲りたりとて別に、知己朋友

に披露し、夫婦同居の式をあぐるにもあらず、衣服も着たる儘なり、携提すべき所持品もなし。

況んや飮食は其日に稼ぎて、其日に盡くし、曾て若干の貯もなき極めて、簡單にして進退自由な

る身體なるが故に一たび慇懃を通ずれば女子は其後間もなく其男子の宅に移るものにして、唯其

旨を父母に告ぐるに過ぎず。勿論女子の父母中格別なる事情あるものゝ如きは月に幾何とか其額

を定めて、新夫婦の手より養老金とも稱すべき金穀を徴する約束もあるよしなれども、此等は一

般に行はるゝものにあらずとぞ。偖て前段の如き婚姻法にて、男女同居し其日常相互の關係は如

何と云ふに、中には夫婦ともに其分を守り互に相愛し、相救護するものなきにあらずと雖も、十

中の7、8人は人倫以外に勝手の行爲を爲すものたりと云ふ。即ち姦通など非常に行はるるは、勿

論殊に甚しきは其夫たるもの罪科により、懲役若しくは入獄等にて不在なれば、女子は直ちに他

の男子に内縁を求めて、之れと同居するも其夫たるもの放免歸家すれば、再び之れと同居する等

も隨分珍しからずして、夫たるもの之れが爲め別段に憤怒するにもあらず、隣人知友も大に其行

爲を非難するにもあらず、斯る事柄は人事にありがちの義と心得るものに似たり。何となれば其

夫たるもの及其隣知友も、之れと同1の所業を爲すものなればなり。斯れば1人の女子にして異

種の兒女を所持するもの多きは天下復た名護町婦人の如きものあらざるべしと云ふ。婚姻の有樣

は大略右の如し。序でに出産の事を記さんに前記の如き無智の貧民なるが故に、出産の屆出も精

密ならずして確然たる統計を得ざる由なれども、之れを普通人民に比較すれば、出産の數凡そ3、

4割も多きは間違なき事實なりと云ふ。然れども學兒を撫育するの道其法を得ざるが故に無事に

成長するものは、至つて少なく出産數の3分の1にも及ばざるものなり。今彼等が出産する當時

の有樣を記さんに、産婦たるもの縦令臨月は及びたりとて、眠食に注意し勞働を避くるなどの事

なく、氣力の許す限りは平生の通り相働きて曾て休まざる程なれば、産氣付きたりとて産婆を雇

ふにもあらず、産婦自ら産婆となつて分娩を遂ぐるものなり。但し嬰兒の初湯は隣傍相助けて一

長屋の甲乙互に土瓶若しくは釜等に湯を沸して持寄る(貧民の事なれば、大なる釜なく精々の處

1升位なるが故に、勢數所より持ち寄らざるべからずと知るべし)者あれども十中の5、6は、夏

なれば冷水を日光に晒して之れを暖め、冬には桶に水を汲み入れ、之れに古下駄古木等を燃して

投じ、一旦投じたる燃木を再び燃して又投じ、人肌位に爲るを待ちて用ゐるものなれども、産兒

の爲めに別に、産着の用意もなく薄やかなる襤褸に捲きて藁屑の中に入れ置くこと、其大概なる

が故に、冬期に生れたるは、凍死するもの多きよしなり。

 偖て又産婦は分娩の後尋常人の如く、攝養を大切にするにあらず。間もなく臥床を離れ常の如

く外出して職業に從事するもの多きは、畢竟活計上已むを得ざるの情實なりと雖も、其割合に身

體を損するもの少きは、世間衞生家の驚嘆する所なるべしと云ふ。


第12 名護町貧民の葬式及び死亡
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 名護町貧民中の活計向き稍宜しき者は其父母兄弟姉妹の死亡したる時、相長屋の貧民を招きて

之れに何角の周旋盡力を依頼し、乞食同樣の僧侶を呼びて讀經の式を擧げ、死者の遺骸を柩若し

くは桶に入れて駕に乘せ、最寄の火葬場に運び半價の燒き賃を以て、火葬を頼めども別に墓を建

つるにもあらず、心掛よき貧民にして僅かに死人の命日に、天王寺に至り彼の所謂引導鐘を撞き

て、弔祭の微志を表するに過きず。故に別に死者の位牌もなく法名もなく、實に3寸息絶えて後

は、5尺の身體茫々土に化して復た、何等の根跡をも止めざるものなり。

 然れども之れ前記の如く貧民中の工面善きものゝ葬祭なり。其所謂貧民に至りては、乞食同樣

の僧侶さへ呼ぶこと能はず、僅かに柩に代用するの古桶を得て、之れに死體を投じ相長屋の貧民

之れを大阪八弘社の火葬場に持ち行き、無代償にて火葬し了りたる後は、何等の供養法事もなく

恰も牛馬鷄犬の葬りと、一般なるもの其過半なりと云ふ出産の統計前記の如く已に詳かならざる

が故に死亡の數も亦然るものありて、茲に其の貧民死亡の數と年齡との割合如何を算出すること

能はざるは頗る遺憾とする所なれども、要するに、高齡に達する男女少く、之れを他人民に比較

して死亡の割合も多く且つ夭死の人多きは、爭ふべからざる事實なりと云ふ。聞く貧民中の稍智

あるものは、身體を大切にすることを知り、病に罹る時は大阪府立病院に入りて、施藥の治療を

乞ふものありと雖も、一般の貧民は如何なる病に罹るとも、其當初に於て醫藥を用ふることなく、

稀れに醫藥に依頼するものあるも、其依頼する時は已に事後れて、治療に功なき時なるを常とす。

是故に名護町貧民に對しては、醫者なるもの只其已に死したる人の診斷書を認る役目あるのみな

りと云ふ。彼等の衣服、飮食、住居、職業の有樣は前記の如くにして醫藥を用ひざること斯くの

如し。其死亡の割合並に夭死の人多き事實あること、決して怪しむに足らざるなり。尚衞生の條

下に於て彼等貧民衞生の有樣を記載すべし。


第13 名護町貧民の祭禮
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 名護町貧民の衣食住は勿論職業の有樣など一切の人事總ての人間らしきもの稀にして、常に窮

困飢餓の間に彷徨し、1日も安樂の生活なきは前記の如しと雖も、彼等も亦た尋常人民の如く、

苦樂悲歡の波瀾中に生息するものたるに相違なし。紙屑拾ひの行く先にて、1日意外の獲物を手

にし、屑買ひの業務上ゆくりなき掘出し物に遭遇せる時は1間9尺の矮屋も俄かに春めきて廣や

かなるが如く、徳利に酒あり、皿に肴あり、一夕の盛膳家族團欒の快樂、己に内に充ちて尚ほ外

に溢れ、隣家の口腹にも多少の滋味を分つものなきにあらず。即ち寒天指を墜すの夜、炎熟燒く

が如き日に際して、或は飢渇に苦しみ、或は冱寒に呻吟するもの其常なる間に生ずる變調の事相

にして、悲歡の波瀾なりと雖も、之れを尋常人民に比するに、悲苦の節長くして多くの歡樂の節

短くして少きを免れず。再言すれば悲苦の時代百日なれば、歡樂の時代は1日に過ぎざる上に此

短且なる小歡樂も時に或は運り來らざる事あるなり。然れども彼等の爲めに命の洗濯とも稱すべ

きは、1年1度の地藏祭にして即ち舊暦7月23、4日の兩日なりとす。名護町の裏長屋廣き間に、

神社佛閣と稱すべきもの、絶えて之れなしと雖も、地藏尊者の偶像は所々に安置しあるを見たり。

彼等が地藏尊を祭るの由緒來歴は之れを知り難しと雖も、此地藏祭りの爲めには、日々の辛らき

生活の中にも、長屋/\多少の相違はありと雖も、1厘若しくは2厘宛の積金を爲し置き、祭り

の當日には貧民不相應に、燈籠を棒ぐるは勿論供者を献ずること、山の如くにして、彼等も亦十

分の飮食に口腹を充たすことなり。最も此等の供物及び飮食物は、貧民等自己の資力のみを以て、

購ふたるにあらず。其數日以前より祭禮を名として、所々方々より種々の物を貰ひ集めたるもの

少からずと知るべし。赤飯色黒くして硬はしと雖も、濁酒味重くして、酸氣を帶びたりと雖も、

彼等の爲めには、百味の美食の如く葡萄の美酒に似たり。不熟ながら澤山の果物、不消化ながら

不足なき食物あるがゆゑに、老幼男女意のままに飮食して、且つ踊り且つ歌ひ、恰かも極樂淨土

の觀を呈するもの正に2日其時間甚だ長からずと雖も、復た以て彼等が平素の苦悶を忘れ、延年

の愉快を盡くすに足るものなりと云ふ。


第14 名護町貧民の嗜好
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 夏は短褐、冬は破袍、1日3度の食事も其品其量豫め定らず、時としては分外に美にして多き

ものあり。時としては非常に少量にして且つ粗惡なるあり。其量の多寡其品の美惡ともに時の仕

合せ如何にある名護町の貧民なれば嗜好など稱するもの之れあるまじと、思惟する人あるべしと

雖も、上品には上樂あり下品には下樂あり、彼等も亦た相應の嗜好を有し居ることなり。彼等の

一般に好める嗜みの一つは、多量に飮食して安臥するにあり。蓋し彼等の飮食と彼等の勞働とは、

前記の如きものなるが故に、滿腹便々として安臥するは、此上もなき樂みたること勿論にして、

之れを上流社會の人々が山海の美味を世界に集めて、大廈高樓に安息したる上に、春は西山の温

泉に秋は東野の遊獵に其心身を樂しましむる樂みに比して、其度尚ほ高きものあるべし。其次は

賭博なり、彼等の賭博を嗜むは、賭博夫れ自身を嗜むにあらずして、其結果なる飮食を嗜むと謂

ふ方、適當なるべし。何となれば彼等は入牢の囚徒の如く、其食物を賭すること多きのみならず、

或は金錢を賭することあるも、其勝敗に飮食にて結局するものなればなり。勿論多數貧民の中に

は、金錢及び衣服什物を賭するものありと雖も、這は賭博を半營業となす者の事にして、貧民一

般の有樣にはあらざるなり。右の外貧民中嗜好の最も高尚なる者は卑猥なる祭文若しくはウカレ

ブシを聽聞することなり。縱令卑猥なるにもせよ、祭文及びウカレブシは已に口腹の外にして、

心の樂に屬するものなるが故に、貧民中の知慧あり工面ありて、粗末ながらも飮食丈けは、適當

になし居るものゝ外は、此嗜好を有する能はず。否有すれども享くる能はざるものなリ。但し名

護町貧民に取りての祭文ウカレブシは、希世の音曲師が弄する絲竹管絃の上流社會に於けるもの

と其快味正に相匹敵すべきものなりと知るべし。


第15 名護町貧民の金融
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 名護町貧民金融の重なる機關は、金貸屋と質屋との2つなり。今先づ金貸屋の營業仕組を記載

せんに、借主より別段證書を徴するにあらず、全くの借用貸なる代りには其利息非常に高く、金

1圓の日歩4錢位にて其期間は、20日を出でず。日々元利を返し崩し行くものなるが1册の帳

薄を借主に渡し置き之れに貸高を記載し、日々受取りたる元利の高を、其下に書き入れ捺印する

ことなり。然れども其約束は非常に嚴重なるものにて寸毫の假借なく延滯すれば、貸主は有合ふ

家財即ち鍋釜は勿論蒲團衣服をも、忽ち褫ぎ取りて持ち歸るを常とす。故に借主たる貧民、借金

に對する約束は嚴重に相守りて犯すことなし。否事情許す事能はざるものなり。但し、貧民中に

も其進退去就常なくして、信用の置き難きものあり。此等は金貸屋最初より取り合はず、損失な

き樣の貧民を撰らんで、貸金營業をなすものなりと知るべし。偖て又質屋營業はあらゆる品物を

預るものにて衣服、職業道具、鍋釜手桶は勿論、下駄、褌さへ夫々若干錢宛の入質料たり。但し

利息は金貸屋よりも尚ほ高くして、期間亦た短しとす。茲に名護町貧民を相手にする質商に行は

るゝ1種の特例は信用を基として代質を許す事是れなり。例へば或る貧民其衣服を脱して、之れ

を預け若干錢を借り居るもの、無據事にて其衣服を要する際には、其利息さへ拂へば幾時間とい

ふ時間を限り、下駄若しくは草履及び其他の品物にて、几そ衣服の幾十分の1にも價せざる品と

入れ代ふることを得るの仕組なり。此入れ代へに際しては別に證文を認むるにあらざるが故に、

質主たる者違約しても法律上の罪人となるの恐れなしと雖も、貧民は堅く其約束を守りて違ふこ

となし。蓋し若し1度破約する時は、後日如何樣なる難事切迫し來ると雖も、質をとるの相手な

くして金融忽ち閉塞するの恐れあるが爲めなり。此1事は往年雲助社會が、其褌、草鞋若しくは

肩を質に入れて借金したるものと、ほゞ其跡を同ふして信用を重ずるの1點は更に貴きものある

を覺ゆ。何となれば彼れは其肩を質に入るれば、其肩にて籠を擔ふこと能はず。草鞋を典すれば、

草鞋を穿つこと能はざる眼前直接の難儀故障あリたるものなれども、是れは後日金融に差支ゆる

との掛念より未來を慮るものにして、破約しても直接には何の苦痛をも受けざればなり。

 名護町貧民金融の有樣は、右の如きものなるが茲に金融の事に因みて、記すべき1事實は、小

兒の貸借是なり。大阪市中多人數群集する巷に、夜間筵を敷きて34人の小兒を、左右に横臥せ

しめたる上に、1人を負ひ1人を抱くなど見るものをして、難澁至極なりとの感を起さしむる乞

食は、大概借り入れたる小兒にして實子にあらず、其損料は定かならずと雖も、貸借雙方の間に

は必ず金錢受授の約束あるものなりと云ふ。


第16 名護町貧民の衞生
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 名護町貧民の家屋、衣服、飮食の有樣は前節に記載したるが如くにして、衣食住とも既に全く

衞生理外のものたり。其他彼等の職業、彼等の嗜好等總て衞生の法に背反したるもの多きは、讀

者の夙に了知する所なるべしと雖も、茲に掻き摘んで衞生の大概を記さんに、第1彼等は飮食物

に於て既に其分量を過ごし、或は不足し其品質の粗惡不潔なる、若しくは全く腐敗に歸したるも

のさへ平氣に飮食して曾て嫌ふ色なく、殊に甚しきは彼等の用水たる井水は、彼等の下水を濾過

したるに過ぎざるもりにて、1種の臭氣あり、迚も飮料に供すべからざるものなれ共、彼等の多

くは之れを用ひて少しも厭ふのの氣色なき事、第2彼等の衣服は秋期の冷涼に際して、用意した

る冬着を來春天氣温和となりて單衣に移るまで、凡そ6、7箇月間1領を着通し、夏着も亦た斯く

の如くにして、數月の間1囘も洗濯をなさゞるもの多き事、第3入浴も1箇月に1囘若しくは2

箇月に1囘位なるもの多くして、身體の何れの部分にても、總て1掻すれば塵垢爪に滿つるもの

なる事、第4身體各要部の疾病、腫物、負傷、燒傷等あらゆる疾病に罹ると雖も、醫藥に依頼す

ることを爲さず、大概は某自然の成行に任す事を始めとして、其他飮食の時間不規則なる及び其

調理の不熟なる事、家屋内外の掃除、下水、便所の管理も立たずして不潔なる事等、事々物々數

へ擧ぐるに遑なきもの、總て皆衞生上のものにあらざるなり。是故に名護町に入る時は殊に彼等

の本城たる裏長屋に入る時は、1種言ふベからざる惡臭粉々として鼻を襲ひ、殆んど堪ヘ難きも

のあるなり。余と同地に同行したる知人中に名護町の臭氣を形容して、豚小屋の臭氣屎尿の臭氣

及び魚類野菜の腐敗したる臭氣を始め凡そ世にありとあらゆる惡臭氣を集めて混合したる1種の

臭氣なりと評せるものあり。其言1時戲れながら蓋し眞を顯はし居るものなり。東京及び其他各

府縣より大阪に來る官民の有志中、名護町貧民の有樣を實見せんと企て大阪土着の人より其汚穢

臭氣堪ふべからずとの言を聞て却て1層其實見の熱心を高めたるものも已に同町に入りて足12

の裏長屋に及べば、大概は其惡臭に堪へずして逃げかへるもの多きことにして、現に名護町貧民

は大阪市中に於て邂逅しても其臭氣を以て、之れを識別し得べき程のものたり。斯る事の次第な

れば、1朝コレラ病などの流行するに際しては、其傳播の迅速なること意想の外にして、晝夜兼

勤して豫防に盡力する衞生課員も、殆んど爲すところを知らざる勢ありと云ふ。今試みに去る明

治十8年度のコレラ病流行に方り、同町にての患者並に死亡の數を尋ぬるに、

 名護町3丁目の戸數8百88、人口2千6百25人にて患者の戸數は百13、患者は百22人内死亡者百13人。
 同4丁目の戸數は千百96、人口3千3百27人にて患者の戸數百65、患者百89人内死亡者百68人。
 同5丁目の戸數は9百96、人口3千20人にて患者の戸數百44患者百66人内死亡者百48人。

とあり、故に右3箇丁目の總戸數2千9百80戸中患者を生じたるもの4百22戸にして、7

戸毎に1戸のコレラ患者を出だし、又總人員8千9百72人中患者は4百77人にして、毎

18人に1人の患者ありて死亡は患者の9分に當る割合と爲るなり。驚く可きの外あるべからず。

大阪にて名護町移轉の論議沸騰し官民の間に、一時甚だ喧しく現に聯合町村會を開きて、右移轉の

事項を議したるも、全く斯る事實ありて大阪コレラ病の製造元たる觀ありたるに因れりとぞ。

 偖て右は18年度コレラ病の實況なれども、此他平生に於ける同町人民の病患死亡等を擧ぐれば、

一々皆右コレラ病と同1の比例を見ざるなし。故に大阪府廳に於ても同町の衞生に關しては1層注

意を密にする中にも、6傳説病の如きは格段に取締も嚴重にすれども、前記の如き貧民にて醫師を

迎ふるものさへ稀なれば、手の及ばざるもの多く現に種痘の如き貧民には無謝儀にて施種し居る次

第なれども、期日に出所するもの甚だ少きが故に、今後は同町の戸毎に醫師を、出張せしめて施種

するに改むるよしなり。


第17 名護町貧民の教育
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 名護町貧民中には從來所謂教育なるもの行はれたることなく、半年若しくは3、4箇月間其子弟を

寺小屋に入れて、いろは文字の習字を學ばしむる程のものは、貧民中出色の奇特者にして千百中稀

れに見る所なり。故に貧民社會全般は、之れを目に一丁字なき無學文盲の民と稱するも可なるもの

なり。然るに明治の初年政府が小學令を敷きて日本全國に小學校を設け上下一般に教育に盡力奔走

したる際には、1國の文明富強は學校教育にあり。如何なる愚人と雖も教育さへ加ふれば、天晴れ

有智の人となること難からずと迄の議論盛んに世間に流行したるに方り、時の府知事渡邊昇氏が大

に力を教育に盡し、大阪府下の各學校を新築して勸學怠らず、同時に名護町貧民の教育も忽にすべ

からずとして、同町4丁目に1學校を設立し、府知事自ら屡々同校に臨席し貧民を集め子弟を教育

するの必要を演説して入學せしめ、同校には特別の詮議を以て、保護を與へ無月謝なる上書籍其他

の器物をも貸與し、尚ほ登校するに衣類なきものには相當の衣服を授け、或は傘、下駄、紙墨筆等

の如きは、學業上の賞與として之を給するなど、盡力一方ならざる甲斐ありて、一時は4百餘人も

就學するに至り、貧民教育空前絶後の盛を極めたれども、奈何せん其日々の活計にさへ差閊ゆる窮

民の事にしあれば、無月謝の上に筆紙墨其他の品まで、賃與を得るは有難き仕合せながら、相當に

飮食せずしては、學問も身に入らず、殊に男兒女子とも已に78歳に達すれば、紙屑を拾ひ古木を

集め若しくは小堰に鰌を捕へても、幾分か親の手助けと爲る者なりと云ひ、旁々の事情ありて1時

の盛大も漸次に衰へかゝりたる折柄、渡邊府知事は轉任して今の建野知事となれり。同氏も教育の

ことに關して、盡力せざりしにあらずと雖も、名護町貧民の教育は、已に西山に傾きたる太陽の如

くにして復た奈何ともすること能はず。貧民の子弟は次第に退學して學校の門前草を生じ軒に雀羅

を見るに至りて逐に、去る19年度には全く同校を廢するの止むを得ざるに及べり。故に今日の處

にては名護町には只高津尋常小學校の分校あるのみにして、生徒の數80餘名に出でず、是れも百

中の99までは、名護町表通り家主の子弟にして、其所謂貧民の子弟と稱するものは寥々數ふる

に足らざる有樣なり。尤も今日の勢貧民中の奇特なるもの、其子弟に文字を學ばしむるの必要を知

るものありと雖も、何分1箇月の授業料十2錢なる上に、相當の筆紙墨代をも要し、且つは兵式體

操等行はれて學童一樣の衣服なども裁せざるべからざる等の事情ある爲めに、入校せしむるを得ず。

舊寺小屋樣の私立校最寄に12箇所あるを幸ひ、同所に子弟を入るゝ族もまゝ之ありと云ふ。


第18 名護町貧民の宗教
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 名護町貧民元來4方の國々より輻輳して、一社會を爲したるものなるが故に、彼等の祖先を尋れ

ば、西薩摩の海の果に住みたるもあり。東陸奧の山の中より來るもあるべくして、從つて宗教如き

も種々に別れ一樣なるを得ず。佛教の8宗は勿論高天原を信ずるもあるべしと雖も、彼等の胸に最

も勢力を占め其信仰篤きものは眞宗にして是れに次ぐは日蓮宗なりとす。その次第は眞宗の宗義と

して、通俗簡易の傳道を主とし、殊に下等無智の人民を教化するの方便に長じたる上、該宗佛徒の

熱心なる夙に、名護町貧民の如きをもその教化の下に置きたるが故にして、日蓮宗は8宗中にて宗

徒の熱心出色のものあり、不治の病患に罹りたるもの若しくは不具廢疾窮困の貧民乞食の徒が、之

を奉じ報謝受惠の方便とし、共に諸國を巡禮遍歴する者も少なからざるがためなるべしと云ふ。然

れども此2派の宗教家も、今は別段に力を盡くさず、貧民も僅かに同教を奉ずると云ふ名のみにし

て、何等の徳化をも受け居らざるに似たり。況んや其他宗旨の如きは、素より言ふに足らざるなり。

但し明治16年の頃なりとか、耶蘇教徒が同町に入り込み、熱心に布教を勸め貧民には粥を給し衣

類を與ふる等、百方盡力したる際には同教の會堂に集りし貧民も多かりしが、同教徒の忍耐力乏し

くして貧民の開宗を爲すに至るまで其辛棒續かざりしか、將た貧民の頑性石の如くにして、到底教

化するの見込なきを察してか、其後會堂をも撤して、今は同教の香りだになき有樣なりとぞ。名護

町貧民の衣食住は前記の如く憐れにして、其の道徳品行は彼れの如く卓し。宗教なるもの若し能く

斯る下等の人民を教化し、人間らしき地位に上ぼし得べきの力あり、宗教家自ら亦斯る卑賤の窮民

を教化することを、其職分とするならば、余は日本の宗教家に向つて名護町貧民の教化は、諸君の

正に大に盡力すべき事業なりとの注意を、試みざるべからず。何となれば名護町貧民は極貧にして、

その道徳も卑劣ながら一社會8千餘人を保ち、日本同胞3千9百餘萬の中に算すべき兄弟にして、

必ずしも教化し得ざる狂暴獰惡の人種にもあらざればなり。


第19 名護町貧民相互の關係
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 名護町貧民生活の有樣と其徳義品行の状況とは讀者の已に了知せる處なるが、茲に彼等貧民相互

の關係を尋るに頗る親密の交情あり。善惡ともに相扶け相憐むの義心に富みたる中にも、相長屋の

間は殊に以て厚情ありとす。例へば同長屋中に病者あり、出稼叶はずして忽ち糊口に差閊ゆる時は

長屋中相談して些少宛の飮食物を持ち寄り、丁寧懇切に慰籍して飢餓の憂なからしめ、又其長屋の

中に竊盜、掏模及其他の犯罪にて1朝警察署へ拘引せらるゝ者ある時は近隣相長屋の女房子供まで

之れを弔し拘引者の跡に付き添ひて警察署まで見送るは勿論、拘留入獄等に至れば屡々訪問して種

々の差入物をなし、刑期滿ちて放免の際には最初拘引せられし時の如く、一同監獄署若しくは警察

署まで行きて、之れを迎ふるが如きを手始めとして、出産、死亡、葬式等あらゆる人事には互に力

を盡して其艱難快樂を共にするの跡あり。貧民彼等自身の關係已に斯くの如くなれば他人民に對し

ても自ら1種自他の區別を立て、仲間の爲めには惡事も努めて之れを掩ひ隱くし、仲間の損は我が

損なり、其耻辱は我が耻辱なりとの一致團結心を有し居れり。蓋し彼等仲間の他に對して懷く所の

此感情は、由來久しき慣習にして一朝に出來たるものにあらざれば、定りて或る形を有する賞罰制

裁の儀式なしと雖も、其根頗ぶる強くして勢力あるものなり。而のみならず被害をして常に此の團

結心を鼓舞せしむるものは彼等の仲間にて、竊盜若しくは掏模等に於てするか、若しくは他の道理

正しき商賣に於てするか、兎に角餘分の儲を得る時は、之れを仲間に分ちて樂みを共にするの慣習

あることなり、其代りには若し彼等の仲間にして善惡とも彼等の内幕を他人に話し、苟くも彼等仲

間一體の故障となるを發見する時は一同相集りて散々之れを懲したる上、同長屋に止り住居ふこと

能はざらしむることなり、是等に彼等の密事は如何に機敏なる探偵吏も、容易に之れを察知するこ

と能はずと云へり。

 偖て又彼等仲間の間にて或は男女の關係より或は物品貸借の事より其他種々の原因より、爭論喧

嘩起る時には隨分烈しき打ち合ひとなりて互に負傷すること珍らしからずと雖も、彼等の仲間にも

自ら彼等の尊重する人物あり、此種の人物が喧嘩者雙方の中間に入りて制裁を下し、以て和解する

時は雙方ともに其所説に服して波風靜かに收まり、曾て苦情を殘すことなしと云ふ。兎に角彼等相

互の間は相一致協合して、患難相救ひ喜樂相共にするの實に近きものありと謂つべし。


第20 名護町貧民と家主との關係
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 名護町貧民と家主との關係は地方に於ける地主と小作人との關係の如くにして尊卑の隔て顯然た

るものなり。兩者の間には相愛恭敬の徳風行はれざるにあらず、家主は貧民を勞はりて疾病事故あ

る時は相應に救助し、貧民は家主を尊敬して其命に服し殊に家主の冠婚葬祭等には、長屋總體休業

して母屋に赴き水を汲み、雜巾を取り使に走り買物に行くなど、▼あゆる▼犬馬の勞に服して曾て

厭はざるものなり。然れども兩者の間には自ら又人情を離れ、約束1片を以て颯々と押し通し行く

の事實行はれて毫も遠慮會釋なきものあり。其次第は前記の如き貧民なれば家主が若し情に流れて

遲々する時は、借りたる金も返へさず家賃も拂はざるまでに、不規則となるの事情あるが故に、家

主は此等約束に關する箇條は、寸毫の假借なくして決行し、貸金滯れば所有の器物を押ヘ、家賃滯

れば忽ち放逐を命ずるの止むを得ざるものあるに因れりといふ。

 右は名護町貧民と家主との1般の關係なれども、個々に就て吟味すれば寛嚴種々の區別ありて、

或る部分は古の仁君と良民との關係の如くなるものなきにあらずと雖も、或る部分には夏桀殷紂と

其反民との如きもありて、可なりの慘酷も行はれ非道もありと云ふ。之れを要するに平均すれば、

家主の構力は少しく過重に失し、貧民の權利は爲に幾分か抂屈せらるゝものなるべし。然りと雖も

家主と貧民との間に非常の大葛藤例へばストライキ樣のものなくして、今日まで穩かに經過し來り

たるを見れば、雙方とも相氣兼して、互に行き掛り爭論の極點に達せざる事情なくんばあらず。即

ち雙方とも自己の利益の爲めに制せられて、此極點に至らざるもの是れなるべし。蓋し名護町の家

主は、其數百4十餘人何れも貧民に其破れ長屋を貸し、貧民の質を取り貧民に高利を貸し貧民に物

品を賣りて以て生活し居るが故に、貧民は其商賣上の福神なることを知ると同時に、貧民にあらざ

れば斯くの如き長屋、斯くの如き高利金及物品を借り、又は買はざるものたることも亦た之れを明

知せり。仍て若し貧民に全く立ち退れてはとの恐懼心、常に胸裏に浮び居れり。現に去る18年度

聯合村會を開きて、名護町移轉の事を議するに方り、當局者の熱心なるにも拘はらず、2度まで之

を否決し去りたるは、全く此家主の利害に根據したりと云へり。是れ家主の貧民に對して、行き掛

りの爭ひ上極點に達せざる氣兼の事情なり。

 名護町貧民の數無慮8千餘人、何れも低廉なる家に住居して貧しながら生活し居るが故に、陰に

陽に家主に向つて恩を謝するものありと云ふは、名護町の長屋にあらざれば、斯くの如く廉に斯く

の如く簡單に借宅すること能はざるを知ればなり。是れ貧民が自己の利害より家主に向つて氣兼す

る事情なり。相手が斯る多數の下等の貧民なるにも拘らず、家主と借家人との間に、古來非常の風

波なきもの偶然ならざることを知るべし。


第21 名護町貧民の納租
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 名護町貧民は前記の如く、土地もなく家もなく甚しきは營業もなきものなるが故に、其所謂租税

と稱するものは、彼等貧民中の定業あるものが、地方税に徴收せらるゝ些少の營業税と、區費に徴

せらるゝ戸數割との2種なりとす。營業税負擔の義務ある貧民は、貧民中の上等なるものなるが故

に、名護町營業税の方には不納者割合に少なしと雖も、區費の戸數割に至りては其不納者頗る多し。

南區役所の調ぶる所に據れば、多き年柄は同町のみにて、公賣處分を受くるもの5百人に達し、少

き年も3、4百人の間にあるよし。勿論單に戸數割のみにして、其割合とても最も輕きものなるが故

に、其金額は5百人ありて僅々4、50圓に過ぎざるものなれども、公費に附する品物も亦た頗る價

値なきものにて、大概は土燒の置炬燵若しくは紙屑籠、手桶位に極まれるよし。但し、年々此公費

處分を受くる貧民は、大概同1の貧民にして該處分を受くるを以て何の事とも思ひ居らず、只々又

も手桶1つを失ふものかと、觀念する位にて如何にも平氣の有樣なるは區吏員の驚く所なりと云ふ。

斯る有樣たるを以て區役所にては、年々定りて名護町の公費處分を行ふこと、頗る繁雜なるのみな

らず、何百戸の公費處分云々との世間の聞えも宜しからざる次第なれば、從來の戸數割を改めて家

屋割とし、家主の方に負擔せしめて貧民には1切區費を負擔せしめざるの企てを爲すこと屡々なり

と雖も、年々區會は之れを否決して改むるに至らざる事情は、獨り名護町のみの戸數割を家屋割と

すること能はざれば、南區内全般に之れを施行せざるべからず、左すれば南區内幾千の家主は、一

般に貧民ならぬ借家主の負擔を自己に引受けて、納租の荷を重くせざるを得ざるものあるに因れり

とぞ。


第22 名護町貧民の生計費
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 名護町貧民の生計費、幾何のものなりやを吟味するは、頗る困難の事柄にして精確なる算用を得

んこと、中々六ヶ敷し。何となれば彼等の飮食物は時の仕合せと不仕合せとに因りて大に善く又大

に惡しく、其量或は少く或は多くして1定せざればなり。然れども此等飮食材に就き品質の善惡、

分量の多少等定りなきは、彼等の間に常に行はれつゝある事柄なりとは云へ、彼等平生の飮食物品

を取調ベて、平均の度を計る時は、一般に當て篏め得べき生計費を算し得ざるにあらず。余は今試

み之れをを3等に分ちて左に勘定すべし。但し貧民の食物4季折々に從つて、其品柄及ひ價格とも

多少の相違ありと雖も、茲に擧ぐるものは現今の品柄、並に相場なり。又貧民の家族は3人5人若

しくは8人なるもあるべしと雖も、6、7十の老人1人に當主の夫婦之れに十歳を頭として、小兒2

人1家5人暮しのものと、假定したる算用と知るべし。

1、白米代金4錢7厘也但し1日分(以下傚之)
 右は1家5口の生命を繋ぐ主要の食品にして、最下等白米1升の價なり。
1、薩摩芋代金1錢3厘也
 右は白米と1所に炊ぐものにして、5百目の價なり。
1、豆腐粕代金7厘也
 右も同じく白米と共に炊ぐものにて、1升の價なり。
1、魚類、野菜、漬物、薪、醤油、鹽代2錢5厘也
1、衣服費金1錢也
 右は春夏秋冬家族5人の單衣冬着等の古着代3圓75錢を3百65分して、1日分を得たる
 ものなり。
1、家賃金2錢5厘也
1、營業税、區費、祭禮積立金及他雜費金5厘也
1、豫備費金5厘也
 合計金13錢4厘也、今之れを5分し1日1人の生計費は、老幼平均して2錢6厘8毛、1箇月
 30日は金80錢4厘、1年3百65日は金9圓78錢2厘となる、是れ名護町貧民上等の
 生計費なり。
1、白米代金2錢3厘5毛也、但し5合、用法前同斷(以下皆之れに傚ふ)
1、薩摩芋代金2錢也、但し8百目の代價
1、豆腐粕代金1錢7厘、但し2升5合の代價
1、魚類、野菜、漬物、薪、醤油、鹽代2錢也
1、衣服費8厘也
1、家賃金1錢5厘也
1、營業税、區費其他雜費金5厘也
1、豫備金5厘也
 合計金11錢3厘5毛也、今之れを5分し1日1人の生計費、老幼平均して金2錢2厘7毛1箇
 月は68錢1厘、1年は8圓28錢5厘5毛、之れ名護町貧民中等の上に當るものなり。其
 中等の下に至りては1日に、10錢位にて事濟むべしと云ふ。
1、鎭臺殘飯代1錢8厘也
 右は並の飯碗1杯にて大概2厘5毛、3厘位なるよし。
1、薩摩芋代金1錢5厘也
 右鎭臺殘飯と共に粥にする材料なり。
1、豆腐粕代1錢4厘也
 右同じく粥の材料たり。
1、魚骨、野菜、漬物、薪、醤油、鹽代2錢也
 此内菜大根は多分を占め居るよし。
1、衣服費金7厘也
1、家賃金1錢也
 合計金8錢零4毛也、今之れを5分し1日1人の生計費1錢6厘餘となり、1箇月は49錢、
 1箇年は5圓87錢6厘5毛となる。是れ名護町貧民最下等の生計費なり。

 偖て右生計費は名護町23の家主に就き聞きたる所を土臺として計算を立てたるものなるが故に、

縱令精密ならずとも、大體に於て間違なかるべしと信ず。世に榮華を極むる人々は、1日幾百圓の

生計費を要するも、珍らしからず。世間貧富の度も亦た甚だ相異なるものあるを知るべし。


第23 名護町貧民家屋の處分事情
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 前條に記述したる所を一讀せば、名護町に開する諸般の事柄は之れを略知するに足るべし。余は

此記略を終るに臨み、先年來大阪府廳が着手し居たる名護町家屋取拂の處分手續並に之れに附帶せ

る23の事實を附記せんとす。

 偖て又名護町は前述の如くにして竊盜、掏摸、博徒も集り遊惰なる乞食も來るのみならず、不潔汚

穢なるが故に、流行病等も自然發生し易きものありて、甚だ面白からざる一市區なり。是故に大阪の

官民同町撤去の事に就ては、多年其心を惱まし居たれども種々の事情ありて行はれざりしが、此5、6

年來大阪の繁華は漸次西南に向つて擴がる勢ありて、往く/\は名護町邊(今は大阪の南の果てたれ

ど)も繁昌なる一市區と爲るべき傾きあるを以つて、更らに同町の撤去を促したる處、去る18年有

名なるコレラ大流行に際しては同町始め其近邊は最も烈しかりしが故に、大阪の官民は治安上、風俗

上、衞生上及び同府の體面上に關して、同町は容易ならざる害物なり。愈々以て撤去せざるべからず

となし、遂に翌19年度には府廳より旨を諭し、聯合町村會を開きて5萬餘圓の金員を集め、同府下

西成郡難波村字窪良の畑地に、1區の長屋村を設け名護町を取拂ひて、貧民を同所に移す企てをなす

に至りしかど、同聯合會に關係すべき筈なる東成郡を加へざりしが故にとて、一且否決したるを以て、

當局者は更に同郡をも加へて、再度の聯合會を開きたれども、内外表裏種々の事情ありて、又候否決

し事全く中止したり。然れども大阪府は爲に同町を、撤去せんとの政略を變更したるにあらず。如何

にしてか初志を遂げんと、欲するの念慮は止まらざりしよしにて、其後長屋建築規則を設け、同府下

一般に施行し名護町貧民家屋の中にても、表通り75戸裏通り3百71戸だけを撤去(この撤去

したるものは、名護町の家屋中最も、汚穢なるものなりしといへばこの記略に掲げたるものよりも甚

だしかるべし)するに至れりと雖も、名護町の大部分は尚ほ依然たり。但し大阪府廳にては、最早此

上に手の下し方とてはなかりしなり。然るに其後南區長小柴景起氏が同村の重立たる地主と會して、

何か諭すところありしが、間もなく名護町舊戸長吉田吉五郎氏外數名が、同町の家主總代となり同町

3丁目より5丁目までを取り拂ふが故に、同地を大阪の遊園地とし、道頓掘の劇場2箇所、千日前の

諸興行物、並に西區新町の遊郭をも移されたし云々の請願をなしたり。然るに其後程經て府廳は、何

等の沙汰にも及ばざりしかば願人等は更に書面を呈し、20年12月限り同町悉皆を取拂ふ間云々と

の追願をなすに及び、府廳は20年7月同地を遊園地として劇場2筒所を新設し、諸興行物を開設す

る丈を許可し、同時に千日前の諸興行物は21年12月限りにて、興行を禁止する旨達したり。是

に於て名護町の家主1同は其望み通りなる許可は得ざりしかど、願意略ぼなりしを以て喜悦したれど

も、千日前の興行主等は、驚くこと1方ならず、殊に興行小屋はその名の如く小屋ならずして、立派

なる新建物漸く成りたる後、間もなき折からなれば、事の次第を具状して禁止取消の議を、大阪府に

請願したり。

 然れ共當時の本紙にも記載せる如く、府廳は書面を却下したるを以て、興行人等は更に東上して内

務省に訴ヘ、右禁止の令達を解かんことを求めたれども是れ亦た意のごとくならず、據ろなくして今

度は興行延期の請願をなして2箇年即ち23年12月迄の延期を得たり。彼れの利は是れの不利な

り、千日前の興行物2箇年の延期となりたるは、名護町の家主等の爲めに面白からず、因て家主等も

亦取拂期限延期を懇願して、明治22年7月20日までに同町3丁目を、同23年1月20日ま

でに4丁目を、同年7月20日までに5丁目を取拂ふ樣の許可を得ることゝはなりたり。斯れば名護

町の運命も最早や差迫りたるものにて來る23年7月20日までには、長屋1切其跡を留めざるに

至る可き都合なれども、今日の勢にては迚も同町の取拂ひは、滿足の結果を得ざるべしと云ふものあ

り。其次第を尋るに、同町の家主等は右貧民より家賃を徴し高利を貸して、相應の利益あるものなれ

ば、千日前の興行物愈々同地に移轉し來れば、地價も騰貴して取拂ひの甲斐ありと雖も、若し然らざ

る時は取拂ふが爲め、非常の損毫を蒙ることゝなり、故に家主等が取拂ふと否とは全く千日前の興行

物移轉すると否とにあれども、同興行人も前記の如き事情あれば、來る23年12月の期限に至ら

ば、再び延期を請願して止まざるべく、府廳も流石に斷然と禁止するにも至り難きものあるべしとす

れば、其の事甚だ覺束なし。又今1つ取拂ひの困難なる事情は、若し愈々取拂ふ上は同町の貧民8千

餘人は、一朝にして忽ち永住の家を失ひ、據る所なきに至るが故に今日に於ても既に多少の團結を遂

げ、其期に至らば腕力に訴へても妨げざる可らずと相談し、折々は暗に家主をも嚇し、殊に右取拂事

件に主として周旋したる小柴南區長抔には、再3の恐嚇を試みたる程なれば、治安上是れ亦た大いに

考へざる可らざるものあるの1事なり。未だ其期に達せざれば如何に運び行くや知り難しと雖も、果

して愈々取拂ひに着手せば、困難の起るは免れ難きことなるべしと云ふ。(完)


奧付
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皇室社會新政奧付
定價壹圓5拾錢
大正7年2月十7日 印刷
大正7年2月廿1日 發行
大正7年4月1日  再版發行
著者 鈴木梅4郎
東京市麹町區4番町3番地
發行者 渡邊估3郎
東京市赤阪區溜池町3十番地
印刷所 千代田印刷株式會社
東京市京橋區弓町十3番地
發行所 東京市芝區伊皿子町4十3番地 振替口座東京34257番
實生活社出版部
電話芝675番
▲こと▲
原本は1文字の変体仮名
▲1▲
口偏に斗
▲あゆる▲
「あらゆる」と思われる
$$

1983年改定JIS規格で入力できない文字や記号については、次のように対応した。
・2字分の反復記号は/\と表記した。
・類似した文字や記号がJIS規格にある場合はそれで代替した。本データでは以下の文字がそうで
 ある。
違・追・遺・海・状・毎・脱・廉・述・教・通・黒・況・噌・進・肩・服・扇・退・福・徳・視・溢
・運・込・過・逃・迫・兼・意・縦・騰・郎・節・境・録・蓮・強・青・前・神・情・刻・肖・這
・尊・崩・朝・触・寒・温・音・朋・穴・墨・諭・造・社・涼・従・消・即・傍・速・房・飴・請
・終・逐・梅・産・貧・緑・習・途・呉・迎・編・返・空・遠・遍・免・割・屡・肉・遇・屑・被
・冬・捨・内・巣・鰹・飯・商・程・締・壁・塞・納・縄・雇・既・顧・宵・煙・尚・騙・縁・濯
・忍・認・呈・遂・益・悦・戸・掻・平・弊・勝・尋・又・近・害・祖・迄・坪・概・迅・分・頼
・判・半・該・適・初・所・説・絶・歴・麻・部
・類似した文字や記号がない場合はデータの先頭から番号(漢数字)を付け▼と▼とで囲み、ファイル
 の末尾で▲と▲とで囲んだ番号の次行で注記した。
◎大見出しにはその次行に「=」を大見出しの幅だけ付けた。小見出しは、その次行には「-」を小見
 出しの幅だけ付した。
◎データ末には「$$」を置いたが、データと非データとを区別するためである。