八十一番 手傳 四十三歳
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奈良縣高市郡今井村です。半農半商で戸數にすれば、五百戸程の町です。産物とて別にありませんが白絣が出ます。何絣と云ふ名もついて居ません。村の位置ですか畝傍驛の西側です。
實家の父は大正七年母は大正二年に共に亡くなりました。父のは老病でしたし母のは感冒から來た肺炎でした。學校は高等卒業です。私達の時には高等は三年迄でした。兄弟は女二人の男六人私は四男と云ふ事になつて居ます。上が皆無くなりまして今私の上が家事一切を致して居ります。
私は廿の年に今の家に聟に來ました。家が農家でしたから其迄は農業を致して居りました。大正二年に肥料問屋を思ひ立ち傍ら人を使つて製造も致して居りました。製造の方が思はしくありませんから純然たる仲買に代つて大正七年迄は仲買でやつて來ましたが遂に駄目になりまして…。何と云ふ原因はありませんでした。チョイ/\借りた金に利子がつく利子が拂へなくなつて元金に迄繰り入れられると云ふ事になつて行つたのです。子供は四人あります。外に女の子の一番目で今年十九になるのがありますがこれは嫁入させてあります。
大正七年故郷に居られなくなりまして出て來て專賣支局の方に働く事になりました。友人から連れて行つて貰ふたもので桝屋と云ふ下宿屋に居ました。八年の八月一度故郷に歸りましたけれど、やはり面白ありませんから又大阪に出て來ました。同じ年の十二月茶園町の銅管商店に入りましたけれども近頃は學校出の頭のよい人が多勢居ますので私が商館等で人並に働いて行く事は出來ません。一箇月程して竹内謄寫館と云ふのに入りました竹内謄寫館と云ひますと地方裁判所の判決等を借り出して來て謄寫する處です。皆辯護士からの註文なのです。日本の筆で書きます。九年の夏仕事が少なくなりましたから止めて故郷に歸りました。何も別段に惡い事等をした樣なそんな事はありません。竹内に居た折等は、主人から自分に對して惡い事をする同僚があつたならば内密に告げて來る樣にと云ひつかつて居たので段々惡い事をする者を主人に申告しました樣な次第です。然し後に東京から來たと云ふ惡者にひどく恨まれましてね。其者は主人に對して殺すとか殺さぬとか云ふて暴れ込んだりした者で惡い奴でした。竹内に行つて聞いて戴けば皆分明する事ですが私は本當に正直一方に働く者です。
九年十二月四日再び大阪に出まして此の宿泊所に御厄介になり乍ら京町堀の天徳と云ふ會所から勞働に出て居ました。私が毎日連れられてゆく親方は井上と云ふ親方ですけれども他にも色々な親方が來て居ます。今は江戸堀の石中と云ふ親方の處に行つて居ます。親の代から行つて居る親方で立派な人です。一日平均二圓位になります。此樣な譯で私は其本職は肥料屋なのです。製造して居たは燐酸石灰に種々な肥料を配合した品でした。豆粕のみは何處にも向くよい肥料です。仲買の儲けは一駄二三十錢に過ぎません。土地の性質で肥料を違へればよいのですが百姓は皆無頓着です。
今後の方針は多少でも金を殘して息子に遣り度いと云ふ念願です。今私は浮田博士の生活戰術と云ふ本を讀んでゐます。徳川家康の行り口につき精しい批評が出て居ります。家康は實に偉かつた樣ですね山岡鐵舟先生さへも最初は家康の信條並訓戒を熟讀して或程度の力を得たと云はれて居るのですから恐ろしい修養のあつた人と見へます。人の一生は重荷を負ふて坂道を行くも同じだと云はれた條等味へば味ふ程妙味がありますね。家の方は息子が廿一になつて居ますし、妻も何か内職をして居ます。二人で遣り繰つて居るのに私も少しでも送金すると云ふ事になつて居ます。何せ幾分あつた養家の金をなくしたのですから苛責を受ける事が大です。
新聞は朝日に毎日、兩方を見て居ます。小説が好きで讀みます。西野田の圖書館には月に三四回ゆきます。淨瑠璃が好きでやりますし。芝居も月に三回位新世界のいろは座に行つて見ます。宗教は眞宗で禮拜のみして居ます。どうも自分が懸命に禮拜してゐると友人が話しかけたりして困る樣な場合が▼時▼あります。親鸞は法然の弟子です。法然は親鸞と全然同じ見解の人であつたのですが其後法然の弟子が戒律を重じ過ぎたので淨土宗と眞宗と云ふ樣に多少の差異を生じた事になつたものときいてゐます。私共の樣な凡夫にとつては彌陀の▼の▼情に縋つて一切を忘れて働くより外に道がありません。自力でゆけば困難のみ多くして結果が仲々得られぬものと聞きます。煙草は喫みます。月に一回位盃もとる事があります。
今の世に對しては何の不平もありません。勞働運動等については何も考へた事がありません。手傳業者は、勞働運動等に關係する者は一人もありません。お調べになつて見れば直分る事と思ひます。其れも年でも若ければですけれど卅五六から四十にもなれば誰だつて其樣な事にワイ/\云ふて歩くものはある筈が無いのです。何も團體には入つてゐません。先刻も申しあげた通り昔の人では徳川家康、今の世では山縣さんの樣にして成功した人が好きです。 (七月七日)
八十二番 料理人 廿二歳
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宗右衞門町の「あしとめ」と云ふ料理屋に居ました。日本料理です。私の仕事は辨當のおかず係でした。辨當は皆お茶屋に入ります。南地の藝者屋です。最初は食ふて十三圓宛貰つて居ましたが後には三十圓宛貰ひました。五六人居る板場の中では喰べて外百圓取つて居たのも居ましたし。七十圓のも六十圓のも居ました。私等は數の中には入りません。
故郷は福井市です。兄弟は男二人の女一人で父は私の三歳の時に死にました。母は五十八で今に達者でゐます。私共の本當の父が死んでから母は再び夫を持ちました。其處で女の兒が生れまして、それが妹なのです。此の樣な事で父は妹のみを大事にしますから兄と私とは家に居るのはつらいのです。尤も兄は私と違つて多少學問もあり長く福井で羽二重の方を行つて居ましたが今度は横濱の方に代つて更に盛大に其方を行つて居ますから家によせつけられない方が反つてよいのです。學問もなし仕事も出來ず私のみは隨分苦勞をしたのであります。
十五の時に家を出ました。大阪に伯母が居て踊の師匠をしてゐるので當時は伯母の處に置いて貰つて居ました。西野田龜甲南の町です。今も踊の師匠です。伯父さんは何もして居ません。何故つて立派な息子があつて家を行つて居ますからです。娘も踊の免許を取つて居ます。最初は伯母さんの處に居て浦江の日本メリヤス會社に通つて居ました。二年して神戸の川崎造船所の職工となりました。メリヤス會社が嫌ひでならなかつたので神戸に遊びに行きましたらポン引きにやられてしまひました。錢は持つて居ました。四圓五十錢程あつた樣に記憶して居ります。十七の年ですから何も分別が無かつたものです。ポン引きは無理に引き立てゝ合宿所につれこみ明日から川崎造船所に出るのだと定めてしまひました。私は承諾の意志も反對の意志も表示しなかつたのですが、默々として居る間に造船會社の勞働者になつてしまつたのです。恐ろしい重い物を擔はせますので二日働いては休み三日働いては休みして居る間に前借が出來まして何日迄しても出られない事になつてしまひました。有難いもので其内に筋肉も漸時丈夫になり、二年半して遂に前借を支拂ひ得ました。前借を支拂つた上は長く神戸に居るのは考へものと亦大阪に歸つて來ました。
大阪に來ては早速今の料理店に入り出前配達から初めました。今年で三年になります。其間料理に關する事は板場の方は何でもやりましたが中でハモの肉を上手に傷つけて行く邊が可なり上手にやれます。近頃何故か横腹が痛くなつて仕事が出來ませんから其旨云ふて出ました。出てから一週間にもなりません。宿泊所のある事は前々から知つてゐました。未だ何も職が見つかりませんから毎日遊んでゐます。うどん屋の出前等の仕事はありますけれども其れでは私の腕に對してすみませんからね。
徴兵の關係は第二乙種で補充兵です。三年に一回の點呼があるきりです。健康は普通です。新聞は朝日新聞をとつて居ます。雜誌や本は見ません。音樂は唱歌が好きです。運動では相撲機械體操ですね。宗教は一向宗です。
煙草は喫ひません。酒も飮みません。喰べ物では夏物は嫌ひです。脂濃い冬物の方ですね。勞働運動ですか。勝つ……、勝てばよいのです。 (七月七日)
八十三番 鐵工所職工 廿九歳
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香川縣三豐郡阿波島村の生れです。父は私が廿二歳母は廿六歳の時に亡くなりました。父の死んだ時は私が善通寺の聯隊に居た時でした一週間の休暇を貰つて歸りました。病氣は足の出來物から毒が身體中に廻つて死んだのですが何と云ふ病氣であるものやら分りません。母の死んだのは全く突然で頓死と云ふてよい位でした。兄弟は四人姉一人兄一人弟一人です。姉は嫁入つて居りますし兄が家取り弟はやはり善通寺の聯隊に入營して居ります。兄は憎くらしい許りです。弟が可愛いです。阿波島の村は四百戸程の漁村です。魚は鯛、鰯、こち等です。漁業の外に農業も少しして居ます私の家の職も半農半漁です。學校は高等一年迄行つて退學しました。
學校退學後は船に乘りました。和船にも乘りまし▼ま▼たが汽船に乘つたのです。十五の時に兄が船員になりたいと云ふ志望で大阪に出て來ました。それに連れられて來たのです。川口の商船會社に出頭して六郷丸の乘組員と云ふ事になりました。六郷丸と云ふのは僅か卅噸の船で明石や淡路等に漁船を引いて往來します。間も無く郵船會社の方に代つて濟洲丸と云ふ船に乘り組みました。此船は四千噸の船で下の關から舞鶴佐渡の相川と云ふ樣に廻つて北海道の小樽邊迄行きます。又此の船が主として木材を積んで歸る處から任意に材木が伐り出されてゐる海岸に向けて航海する事があるのです。目的地に碇泊して材木を積み終る迄凡そ一週間はかゝりませう。其間に海岸には小屋が建てられ酒場が出來て女衆も居ると云ふ樣に直きに金を使はせる工夫が出來ます。鮭等も積んで歸ります。其樣にして徴兵檢査迄海上生活をしました。入營中は別段の事もありませんで一等卒迄上りました。
一時故郷に歸りましたが大正四年十二月大阪に出て來て市岡の高橋鐵工所と云ふに雇はれました。最初は一圓。間も無く一圓二十錢になりました。大正六年頃景氣がよくなつて來た頃はやはり其附近の富山鐵工所と云ふに居ました。三年間程勤めましたらう。二圓四五十錢宛にはなりました。今の横川鐵工所と云ふは橋梁の請負を專▼問▼とする鐵工所で近頃やつた大きな仕事は阪神急行の武庫川の鐵橋が一番大きいでせう。滿州の何處かに出した無線電信用の材料も可なりに大きなものでした。職工は三百人程居ます。私の仕事は▼一▼鯨工で一圓九十五錢宛の日給です。此處の仕事は鐵道院の仕事が多いので皆常傭賃銀です。
今後は金を儲けて商賣に代る考へです。商賣の種類については何も考へてゐません。新聞は毎日新聞を讀んでゐます。音樂美術等は一向に分りません。運動では軍隊に居た處から相撲機械體操等好きです年には二三回歸省しますが其れが一番樂しみです。煙草は嗜きです。酒は呑みません。喰ベ物では青物と果物を好みます。一等つらかつた事は實は申しませんでしたが、私は朝鮮航路の方も行つた事がありますもので朝鮮の應基と云ふ處で船が海岸で轉覆しましてね。大變な眼に遇つた事があります。西の宮の高盛丸と云ふ船でしたが。尊敬する人は誰もありません。昔の豪傑でも誰もありません。 (七月十一日)
八十四番 鮟鱇 四十六歳
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鮟鱇です。天滿京橋勞働紹介所から出て居ましたが。近頃は天滿の市場に立つてゐます。玉造の方面に状いてゆきます。野菜を買つても重いので牽けないから牽いて助ける譯です。午後は遊んでます。雨の降る時には三越の掃除に行きます。特別に愛して貰ふ人が居るんで今日は雨が降つて掃除の方が急がはしいから働きに來る樣にと云ふて電話が掛ります。其れで私には休む日とて殆どありません。三越の掃除人は四十八圓位とります。私の收入かね。六十圓以上にはなります。其位ならんとどうもなりません。
故郷は廣島市です。稻荷町。父は私の卅七の時母は十六の時に亡くなつて居ります。學校は修道中學校の三年生迄ゆきました。自分が勝手で止めたものです。よくない事許りしてゐました。其れからは廣島山口、兵庫、岡山等山陽線の驛員をして歩いて居ました。廣島で經理部に出て居た事もあります。最後に大阪に來て莫大小の會社で働き大體職を覺えたので廣島に歸つて金主に金を出させて遣つて居ましたのですが、五年程して之れも失敗しました。自分にもう少し忍耐力さへあつたなら充分に成功したんだつたけれども。卅八の時に大阪に來ました其れからはどうのこうのない。此の樣な仕事をして居ます。
廣鳥の者にて豪傑なんか何時迄たつたつて出來る土地ぢやありません。直き喧嘩をして人を殺したりするけれども腹の出來た者は居ません。大阪の方は何と云つたつて本場ですから勝れた親分も居ります。其れでも九州の炭鑛邊では廣島の者で顏を賣つて居る者が多勢居ます。人情つて廣島の方が厚い、大阪なんかお話になりません。其は廣島は景色もよし軍人なんか豫備後備となると誰も皆廣島に別莊持つて住むぢやないか巳斐の山の手の方は皆別莊ですが家賃は安し月に三圓も出したら立派な家が借られます廣島にお出でなさい。よいです。
廣陵中學校ですか。あれは宇品の田中と云ふ婆さんが五十萬圓に敷地迄出して呉れたので盛にやつて居ます。あの婆さん儲けて居るので。宇品の新街あれの大部分が婆さんの土地になつてゐます。其れを神戸の鈴木が買ふとの話があつたが婆さん高い事云ふて賣らず、知事が中に入つて鈴木に賣れば廣島の發展の爲めによいと云ふので色々奔走してもどうしても賣らなかつたと云ふ人です。慾も深いが出す時には出すらしい。何せあの泥池の中で自然と大きくなる魚許りでも年には二萬圓以上になるのだから大したものです。今は金輪島に海水浴場が出來て居ます。蒸汽で皆金輪に行つて海水浴します。よいとも。沖には廣く柵がしてあるから溺れても流れて出る樣な事はないし。廣島は住みよい處です。私も之れで廣島に歸れば信用はあるのだから歸つて何か仕事をしませう。
身體は小さいが丈夫です。私は柔道の方は神揚流の免許皆傳です。得意なのはまるめ(巴投げ)で宙に浮いた時に握拳で陰嚢を衝くので落ちた時にはボッとして居るから其の時に襟締めにゆきます。陰嚢でなければ水月を打つて置くとよい。眞劍の時には足の先端で隱嚢を強く蹴潰して後に落す。此時は兩手で敵の兩手を充分に殺して置いてかけます。若い時には得意でやつたもんだが東遊廓の附近に明神座と云ふのがありませう。彼處で相撲取りとよく仕合を遣りました。土俵の樣に疊何疊と定めて置いて相撲は出しさへすれば勝ち。柔道家は締めるか出すかすれば勝つと云ふ事であつたが、何日かは初めのがヤツと來たからまるめて飛ばして遣つた。次ぎの奴が來たので之れもまるめを掛けたら奴さんはづしてのし掛つて來たので襟締めと胴締めを同時にグツと行つてやりました。處が先生ゴー/\咽喉を鳴らして苦しがりながら眞紅な顏して私を外に持ち出したので結局私が負けとなつたのです。見物人は面白い勝負だと云つてヤンヤと喝采した事でした。
新聞は朝日と毎日とを讀んでゐます。私は文章が好きで若い時から作つてゐます。此頃仁丹の標語募集に出さうと思ふて忘れたが『健康は忠孝の一年生』どうですか。俳句もやります。それから新體詩も若い時に女にやる爲めに一生懸命になつて作つたものでした。『戀し廣島後にして難波の里につきにけり』と云ふ樣な具合でね。運動は柔道で前申上げた通り。田邊正右衞門と云ふ岡山の柔道家は嘉納の講道館だとか聞きましたが三段でしたと思ひます。此人は強かつたです。私共の樣な免許をとつたものが交代に七人行つたが平氣だつたからね。宗教は眞宗です。人を鬼と思へと云ふ事も云ふが佛と思へと云ふ事もある。同じくば佛と思ふた方がよいのです。私共は世の中に鬼に見へるものは一つもない。皆佛に見へる。金の無い者には金を遺る品物借りたいと云ふ者には品物を貸す。すると皆不思議に持つて來る。持つて來んでもいゝのに持つて來る。持つて來んで困る丈けは貸さないのだから。私は幸福な男です。それでも貯金四十圓あります。 (七月十一日)
八十五番 仲仕 四十三歳
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君は一體僕を誰だと思つて居る。僕の事を調べて何する。僕は悪い事をしちや居らぬぞ。仲仕だが。此處、此處、之れを見れば分るぢゃないか。憚り乍ら前田の親方は偉いの偉くないの情と云ふものがありますわい。己らもう歸るぞ。君はようもズう/\しい奴ぢや。警察だつて其樣な事を訊きやせんぞ。
前田の親方か姉さんの方もよい人ですわい。可愛がつて呉れるでの。其の代り假りに仕事に行かんとこう云ひまつしやろ。すると行つて呉れ。私は仕事に行つて貰ふ爲めに來て貰ふて居るに仕事に行かん人は
歸【い】んで呉れとこの樣に云ひますわい、其の代りな姉さん少し前貸しの方願はれませんでせうかと云ふとはい/\いくらなりと云ふ樣なものでの。私しやもう此處に七年から働いて居るんぞ。己らもう歸るぞ。此處に居るなら?居るからか。其れもそうぢやの。早うきけや。
父は何時死んだか分からん。母は二十歳の時に死にました。兄妹は六人あります。男五人女一人の兄弟だ。
尋常卒業。十六の時家を出ました。尋常科だけんど己はな君の書く位の字なら筆をとれば何時でも書くぞ。何處に行つたか。石州の銅ヶ丸と云ふ鑛山に行きました。洞と云ふ字を書いてるぢやないか。銅と云ふ字だがな。堀藤十郎と云ふ人が行つて居ます。三千萬圓の財産家です。此の銅山を拓くについては堀藤十郎さんは實に血の涙を流したものぢやぞ。鑛夫をして居ました。其樣な字を書くではありません。坑夫ぢやないか。九州の炭坑?、其樣なケチな處には行きません。四國には行つた。市川? 其の樣な處はありません。市ノ川だらう。其處には居た。別子にも居た。此山は住友吉左衞門さんの山です住友吉左衞門さんは天王寺の茶臼山に居ます。己は三等坑夫迄なつた。三等坑夫の筆頭です。筆頭だがな、あんた等學校だつて試驗と云ふのんがありまつしやろ。僅か一寸の違ひで僕が勝つて次席の男が負けたである。佐々木茂三郎さんには誰も頭を下げます。十年前に死んだんだんがな、主任長です。七つの時から住友の山に居た人です。技師や博士は糞の役にも立ちません。○番坑道を技師が皆右に掘れと云ふたのを誰が何と云ふても左に堀らなければ駄目です憚り乍ら此の佐々木茂三郎は七つの時から住友さんの厄介になつて居ます。萬に一つの間違はありません。とこう云ふたのぢやぞ。それで其の道を堀つたので立派な二丈八尺の鑛石にぶち當つたのだ。住友さんの今日あるは其の爲ぢやないか。三等坑夫になる爲めに十年苦しんだ。一等二等なんてそれは澤山掘るさ。大阪には七年前から來た。喫みます。呑みます。もう歸る/\。 (七月十一日)
八十六番 手傳 廿三歳
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野田の停車場の花徳から出て居ます。手傳の親方です毎日十二三名の若い衆が詰めて居ます。故郷は廣島縣吉良郡廣定村で父は五十八母は五十で共に達者です。兄弟は八人で兄四人、女四人、私は二男です。學校は高等小學校卒業。村の産物なんぞ何もありませんね。牛馬が産物でせう。七塚原には大きな牧場があります。其他米麥の類が出ます。私の家も農家で一町八段程の土地もあり、牡牛を飼つて居ます。私の處の牛は五匹の仔と産みました。種をつけるのには一圓でつけて呉れますが仔が生れて一人で歩く樣になれば百圓以下と云ふ樣な事はありませんから割によい商賣です。其れでも牛も動物ですから喰べ物を澤山喰べます。
學校卒業後は家事手傳をして居ました。徴兵檢査は尺が足らぬで不合格になりました。五尺七分しかありませんから。廿二歳の十一日に大阪に出て來て難波河原町の指物屋で箪笥の製造をして居ました。一人で造れますとも箪笥と云ふものは簡單なものですもの。只早く出來ない許りです。私は寸法を間違ふ樣な事は一度もした事はありません。人によると何時でも寸法を間違へて居るものです。皆腕次第に請取でしますので腕のある人は七十圓も八十圓も取りますが、私は喰べて外に三十圓位でした。月拂になつてゐます。六箇月程して脚氣で一度故郷に歸りました。亦出て來て此度は此處に置いて戴く事にしました。先月の廿一日から御厄介になつて居ます。
身體は何處も惡い處はありません。將來は金を貯へて大阪で商賣がしたいと思ふて居ます。新聞は朝日や毎日の夕刊を見せて戴きます。運動は何もありません。宗教は禪宗です。酒も煙草も飮みません。 (七月十二日)
八十七番 鉛筆曾社職工 五十四歳
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北浦江の東鉛筆會社に働いて居ます。職工は八十人位なものでせう。日給は一圓です。故郷は三重縣一志郡八知村です。父には八つの時、母には四十になってから分れました。兄弟は男許り三人で私は次男です。學校は昔の高等を卒業しました。兄は今大阪のある會社に居ります。事情があるので其名を出せません。私も郷里では立派に一戸を張つて商賣して居た者です。十八から商買を始めて廿の時に妻を娶り資本家の側で暮らして居たものです。止むを得ぬ事情で商賣が失敗し四十三の年に妻も亡くなり結局今日の樣になつたのです。子供は四人男許りで今では皆大きくなりました。最後の十七の奴が學校に行つて居ますけれど後の三人が助けて勉強させて居ますから、私から直接に世話しなければならぬ事もありません。
其前に一時大阪に來て中之島の中央郵便局で集配の方を働いて居た事もありますが、暫時で國に歸り昨年九月再び出て來ました。大仁の製帽所にも二箇月程居ました。其後今の鉛筆工場に居ます。鉛筆工場の仕事は鉛筆となる可き板に溝を造り其溝に膠を入れて鉛筆の心を入れ、其に他の半分を持つて來て重ね之れを一本一本と截り離して鉛筆の形となし種な細工をして一本の鉛筆とします。私の仕事は腋線を通すので腋線と云ふは鉛筆を管の中を通らせて全體を固めるのです。
私の考へは年もとつて居ますので多く金を儲けるとか放蕩等をして見たいとか云ふ事はありません。自分の食ふ丈けあればよし其れに貧民の人達に何でも職業を與へて働きに出る事が出來ず家内の人が何をするにしても職が出來ない爲めに悲慘な事になつて居る者かありますがあれは全く女が職を知らない爲めにあんな事になるので政府の方も何と云ふものでせうか少し皆に職を與へる事を考へて戴きたいものですね。職と云ふて内職の樣な手細工の樣なものでも結構なのです。此事は事務所の方に何時か折があったなら話度いと思ふて居ます。此處の宿泊所等でも夜は皆此樣な風に歌等を唄つて遊んでゐますが此中には手細工等が上手なものが居ますから其中から選んで講習會と云ふ樣な事をさせて貰ひたいものです。勿論有志丈けで結構です。多少の金を出し合ふのもよいでせう。一人がすんだなら又他の人に願ふと云ふ樣にしてやります。そうすれば他日必ず利益を受けるに違ひありません。若し此中で講習するのが都合惡いとあらば事務所の方で適當な家を紹介して呉れさへすれば私等は只職を習ふと云ふ意味で賃銀無しで働いてもよいと思ふて居るのです。誰でもが爲すべき職があると云ふ樣に國家の組織なり社會状態なりを改めて行かぬ事には失業者は遂には泥棒を働かねばならぬ事になるだらうと思はれます。
將來は適當な仕事を覺えたなら故郷に歸ります。新聞は朝日と毎日とを讀みます。本は幸に西野田に圖書館がありますので化學工業の本を讀みます。音樂は嫌ひです。繪ならば自己流でも兎も角良否が分る樣に思ひます。其れが本當の鑑定家に見せたのと一致しますから私も可なり目があると云ふ事になります。其他子供の時には劔術なぞを致しました。
煙草は嗜きです酒も四合位はのめます。信心は佛ですが私の友人に田川海信と云ふ僧が居ました。其の僧はまだ三十なるやならずの僧でしたけれども修養の出來た男で境内には澤山貧しい者を置いて居ました。年寄りも若い者も適處に適材を置いて見るも氣持よく働かせて居ました。檀家の人達が和尚さんの處には人間が餘り多いではないかと云ふて小言を云ふ者も居た樣ですが先生平氣で自分が一生懸命に働いて自分の働いた金で食はせてゆくのであるから心配は御無用であるとこう云ふて居ました。其後僧職にあつては氣儘がならぬと云ふ事で一時小學校の教員をして居た事もあります。小學校の教員は頭を壓しつける者が居るので自由でない。やはり僧職がよいと云ふて再び僧になりましたが一日私の家に來て海信は未だ修養が足らない自分で反省して見て自身をよいと許す事が出來るまで修養して見るから其れが出來たら其時君に遇ふとこう云ふて何處にか行つてしまひました。
近頃の勞働界の趨勢等につきまして是非にどうかせねばならぬと思ひます。あれは一體どうしたと云ふのですか友愛會は惡いやつですね。古人としては伊藤博文や福澤諭吉先生の意志の強いのに感心します。 (七月十二日)
八十八番 鳶職 廿九歳
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鳶職をして居ます。鳶と云ふと建築の足場を作る職です。東京邊では消防夫をも鳶と云ひます。之れは建築の足場作りが大抵消防夫をして居るので消防夫の事も鳶と云つたのでして無理な云ひ方です。足場作りの方が本當の鳶だと思ひます。元來私の父親が此の職をして居ましたので私も親の職業を受け繼いだのです。父は鳶では相當な方で小さな仕事であれば自分一人で請負ひ多勢使つてやつて居ました。尤も大林組なんかの仕事等になれば、鳶の方は吉野組がする事になつて居ますので私共等は其下を請負する事になります。何も危險な職ではありません。使ふ圓太は杉か檜の直徑二寸五分の長さ三間と云ふ大きさのものですけれど二寸五分が二寸になる樣の事もあります。只繩の掛け方一つが商賣なのです。
西區の三軒家生です。父は五十八母は五十六で達者で居ります。兄妹は弟四人の女一人で私は長男です。ですけれども事情があるので家を出て居ます。何れは家に歸る考へでは居ますけれども。學校は高等二年卒業です。在學中は何と云ふても先づ讀方が得意な方でした。
學校を卒業してから難波の米屋に奉公して居ました。米ですか。上手に計りますよ。あれは上下と下手で大變な違ひですからね。下手にはかられません。其處に居たのは三年程でした。其後は家に歸つて家業の手傳をしました。手傳とは云ひ乍ら何から何迄自分でやつたのです。木谷の親爺の處にも何回もゆきました。あの人は大きな人でお妾は一人しかありませんでせう。何しろ廿八貫と云ふ人ですから。素人相撲では大關でせう。高等工業の相撲の代稽古をして居た事があります。國粹會でも頭株です。此の頃は又村會議員で以て威張つてゐます。あの人のお父さんも木谷清吉と云ふて侠客で通つた人です。何せ頼もしい人ですわ。お父さんはあまり肥えては居ませんでした。
大正六年に友人を頼つて東京にゆき赤羽では友人として同じ仕事の下請等をして居ました。大阪の仕事と東京の仕事とを比較して見ると東京の方は體裁を尊んで美しく仕上げますが其代り時間が長く掛ります。大阪の方は急がはしく早く仕上げます。大阪の者が早く仕上げるのには東京の者が驚いて居ます。仕上りの汚いのにも閉口して居る樣です。其れで耐久力と云ふ事になれば全然同じ事です。結び方は皆人々に流があります。賃銀は其頃は僅か七十五錢かでした。大阪にした處が八十五錢位であつたのが今では二圓五六十錢になつたのですから非常な變化です。東京に居たのは僅かで翌年春頃歸つて來ました。歸つて家の手傳を亦一年程して居ましたが此三年は家に歸りません。今は二圓七十錢宛で小さない商家の仕事をして居ます。仕事が無い樣な日は一日だつてありません。西洋造でも日本造でも半年以上の時日を要する場合は皆針金を用ひて足場を作ります。卷き方等は繩の場合と異りません。落ちて負傷する事は皆無と云つてもよい位です。高い煙突を造る時に鍛冶屋が落る事がありますがこれは鳶ではありません。鳶は一本眞直に立つた細い柱にでも右足を卷いて反り身になつて兩手で働いて居るので落ると云ふ事はありません低い處で冗談に働いて居て落ちたりします。
將來は家に歸つて父の家業を繼がねばなりません。新聞は此處の事務所で毎日新聞を見せて貰つて居ますけれども自分ではとつて居ません。建築、住宅等の本を見ます。運動では相撲が好きです。宗教は眞宗で煙草は好きです。酒は二合位。今の世に何の不平もありません。自分の足らぬ事を思ふのみです國粹會にも入つては居ません。 (▼六▼月十二日)
八十九番 帳簿曾社職工 廿八歳
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慶尚南道晉洲郡文山面蘇文里。父は私が八つの時に死にました。母は四十八歳で生きてゐます。私は七歳から廿一歳迄朝鮮の學校に行きました。朝鮮の學校の上級は皆漢文です。私坊主です。佛學を四年研究しました。朝鮮の坊主は妻を持ちません。此頃は娶るものもあります。
去年七月大阪に來ました。日本ノート株式會社の加藤云ふ人が朝鮮から私を召して呉れました。來て其儘此處に居ます。出來た理由は日本に來て職を覺えたい爲めです。朝早く佛を拜んで職をします。日本には金がありますから皆金を出します。身體は丈夫です。新聞は讀みません。趣味は何もありません。朝鮮宗教一回入つたら止めるわけにはまゐりません。煙草は寂しいから喫みますが酒は飮みません。朝鮮の學校に入つたものは日本に贊成です。學校に入らないもの日本に不贊成です。 (七月十三日)
九十番 手傳 四十四歳
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滋賀縣犬上郡日夏村です。父は私の十四の年に母は卅二の年に亡くなりました。母の病氣は疝氣だと記憶して居ます。大阪に來て居て亡くなりました。兄弟は五人姉が二人弟は二人私は長男です。家業は農業だつたのですが田畑合せて六段程しか作つて居ませんでした。其外に多少の財産もありましたから暮らすのに別に不自由はありませんでした。それを私が勝手な眞似をして皆無くしてしまつたのです。農業の傍ら行商も致しました。主として木綿物ですが之れでも大分失敗しました。
商賣の失敗許りでもなく自分で遊女に迷つたりもしたのです。郷里に居られなくなつたので大阪に轉住して來て此の中江町に家を持ちました。關西刷子工場に通つて家計を立てゝゐましたが、明治卅七年渡米を思ひ立ち當時は別に嚴しい規則もありませんでしたので北米シャトルに渡り此處でソーミル(製材所)の勞働をして居ました。それからレストランで皿洗もしましたし會社員の家でコツクをして居た事もありました。何と云ふ事なく仕事をして歩きました。向ふの仕事は多く分業になつて參りますので何の仕事をするのでも樂です。日本等とは異つて仕事をさせて置いて嫌な事を云つて見たりする事はありません。叮嚀に仕事を仕込んで呉れます。私の最後に厄介になつて居た家の娘さんでメリーさんと云ふのは恰度十六で美しいお孃さんでしたが私に英語を教へて遣るからと申されまして毎日其時刻になりますと呼びにお出でになり私が行かないと不機嫌でなりませんから迷惑に思ひ乍らも行つて居ました。娘さん達でも日本の樣に恥かしいと云ふ樣な事はありません。それで品行の方はと云ふと日本の娘よりも固いのですからどうしても向の風俗の方が日本よりよいです。其れは私にした處で多少の策略でもう日本には歸らない等と云ふて日本の惡口を言ふたりはしました。其方が長く居ると云ふ事になつて情が深くなりますから。若い時には何と云ふても新しい事を見聞きする事が一等よいです。隨分色々な處を歩きもしましたし向で色々な國の婦人にも接して見ました。爲めに國元に送金した金は前後で五百圓のみです。
日本に歸つたのは明治四十三年コールマインドツクの船に乘つて上海迄來ました。其船は印度から南洋に廻航する船であつたので一人の支那人と共に上海の領事館でペイドオフして貰ひ又他の船に乘つて放浪して見る豫定でしたけれども適當な船が見つかりませんから其儘日本に歸りました。歸つて見たら子供も大きく妻も喜んで呉れたのでありましたけれども其も暫くしたら妻が此のお父さんは家の財産を皆使ひ果した。そしてお母さんとお前等を見棄てゝ遠くの國に逃げて行つた惡いお父さんだから此の人の云ふ事には從ふなよと云ふて子供等に云ふてきかせるものですから兄妹三人とも一番目は廿二歳の男、二番目が廿の女三番目が十六歳の男なのですが皆母の言に從つて私に對して惡口を云ふのです。私は居る事が出來ないで今日此樣な仕事をして居るのです。
私は此年になつて妻や子供に嫌はれるのは何の爲めであらうと色々と反省もして見るのですけれども其理由を見出す事は出來ません。其は若い時には惡い事をして妻に心配をさせもしました。しかしどんな事をしても自分を頼つて來た妻であり乍ら今では子供が大きくなつて衣食に心配なくなつたので私を遠ざける事のみを考へて居ると云ふ事は淺ましい心でないかと思ふのです。私も時々行つて泊つて歸りますけれども。直きに口論になりますから又此樣にして出て居ります。はいはい。來ましたか。來た。妻が來ました。實は妻の方からも何時も尋ねて來ますで只今も來たと云ふ事です。待たして置いて下さい。其れで此の事件について一度福島警察署の方に妻に對して説諭して下さる樣に願つたのでありました。福島警察の言ひ分は君は未だ年が若い年の若いのに無理に家に歸らねばならぬと云ふ理由がない。其れ程嫌はれる妻と同棲する必要が何處にあるか。妻君に説諭するはよいけれども其れで妻君の心はよくなりはせんぞ其樣な心を起すより一つ奮鬪心を起して働くがよからうと云ふのです。阿呆らしくて物も云へません警察の者等は此樣な御粗末な考へですからね。私は多少息子に厄介になりたいと思ひますけれどそれよりも一家圓滿にやつて行きたいと思ふが主なのです。其でも妻は何しろ龍の年生れですから何が前世の惡因縁がまつはつて居るかも知れません。私が働けないで妻や子供に依頼心を起すと云ふのは家庭の不圓滿で神經を使ふから來たので之れさへなく家庭の主人として皆から多少でも尊敬されるなら今迄とは違つて大いに働ける樣になるかも知れません。大分神經を惡くして居ます。
現在の職業と云ふのは西野田公園の附近にある西野田衞生組合の仕事をして居るのです、毎日十一人程つめて居ます。之れが市役所の仕事とかなりますと勝手に休む事等は出來ません。けれども西野田許りでしてゐる衞生組合の樣なもんですから。月の中で十日位休んでもよいのです。實際我々の自由が束縛される程の報酬を貰つては居りません。日に一圓五十錢位ですものね。其れよりも茶園町の山本さんの處に行くなら一圓七十錢以上になりますから休んだ時には其方に行くのです手傳業です。神經が惡いんで此の樣な事をやつて居ます。
將來の事は未だ何をするとも分りません。身體は丈夫です。讀書は暇が無いで出來ません。新聞は朝日の夕刊をとつて居ます。音樂は私は筝の笛をふく事が上手で田舍では之れをふいて巡りました。寺にも神社にも何處にも共通な音樂です。遊戲では田舍に居る時に乘馬をしまして時々競馬にも出ました。
煙草は好きです。酒も飮みます。世の中の事を思ふ樣な事はありません。自分の事を考へるのが急がはしいのです。其れに自分の家の事とです。米國歸りの船での生活はボーイでした。唯一人の日本人だつたのです。美しい米國よりも汚ない日本が戀しいですね。 (七月十三日)
九十一番 手傳 三十歳
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岡山縣若田部郡津山町の者であります。津山は松平藩です。名物には初雪と云ふ花霰樣の菓子があります。それに宮川漬、足袋と云ふ樣なものです。産物では米麥丈けです。父母は共に五十七で生きてゐます。津山の中學校二年迄行きましたが、家事の都合で退學したのです。其後廿歳迄家事の手傳をして居ました。家業は菓子屋です。徴兵檢査は東京で受けました。乙種の抽撰免れでした。東京では手傳業をして居ました。國に歸つて又仕事をして居ましたが錢を使つて今年二月神戸に出て來ました。多少金も持つて來て神戸で何處かで菓子屋をと思ひましたが、來ると病氣で下宿屋で寢てしまひ、其事も出來ないでしまひました。只今は京橋の寄場から出て二圓五十錢位宛貰つてゐます。
身體は丈夫です。目は慣れない勞働をするので此の樣に赤くなつたので眼病ではありません。新聞は事務所で朝日に毎日を見てゐます。信仰等と云ふ處迄はゆきません。運動では相撲を見る事が好きなのですが自分ではとれません。勞働運動等は全く價値の無いものだと思ひます。歴史的人物には好きな人はありません。 (七月十三日)
九十二番 手傳 廿七歳
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京都府相良郡田中村の者です。何も分からんもんです。父さんは私の五つの時お母さんは三つの時死にました。兄弟は三人で二人とも兄さんです。二番目の兄は故郷に居ますけれど、一番目の兄が何處に居たか長い間分りませんでした。それが廿五年目に田中村に尋ねて來まして色々兄弟を尋ねる人があると云ふ事で私共も兄弟を尋ねる心で居たものなので、遇ふてあれやこれやを話して見ますと私共の兄に違ひありませんでした。
此の樣にして私は學校には少しも行きませんし字は分りません。父が死んでからは母の實家に子となつて居ました。其家にも子が居りますので私を大事にして呉れませんでした。其處に一年程居て母に從弟が居るので、其の伯父の處に行つて居ました。それは大和の國の十市村です。其處に十年程居ました。百姓家でしたから仕事は大層きつい事ばかりでした。學校には少しもやりませんでした。
廿一の時に大阪に出て來ました。來るとから肋膜炎にかゝりまして手傳をして居ましたが思ふ樣に働けません。去年十一月は此處の食堂に働かせて戴いて居りました。今は又左官の手傳をして居ます。家内はあります。其がやはり私の生れ故郷の者ですけれども私が此樣に病氣持ちなもんで金儲けが出來ません。其れで家内の實家にあづけてあります。子は女の兒が去年出來ました。是非金を貯へてそして一處にならねばなりません。此頃は有難い事には病氣が大體よくなりましたから手傳の方も少しは金になります。一圓八九十錢位にはなりませう。
身體の方は前申しあげた通り丈夫になつて來ました。濟生病院に通つて一時は隨分つらうございました。それでも續けて通へばよいのですけれど金が無いので其れも出來たなかつたのです。宗教は淨土でございます。將來の目的は此樣にしてあちこつちで厄介にばかりなつて居ないで獨立して立派に生きてゆける樣になりたいと思ふて居る丈けの事でございます。酒も煙草ものみません。喰べ物は七八十錢位は掛りませう。貯金は只今では二十圓しかありません。 (七月十三日)