六十一番 手傳 卅七歳
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 市の寄場です。南の其處(今宮勞働紹介所)の。今日は藤永田の分工場の方に行きました。藤永田の職工は皆懸命に働いて居ます。もう爭議等を起す樣な處は見えませんでした。

神奈川縣保ヶ谷町が故郷になります。横濱の附近です。父は私の生れるか生れないに亡くなり、母は私が卅一の時に亡くなりました。兄弟は五人でした。私は三男と云ふ事でしたが皆死んで今は兄と私と二人しか居なくなりました。小學校は保ヶ谷尋常小學校で私は高等にはゆきませんでした。言葉だつかあまり關東言葉を使ひますと生意氣に見えるから先づ大阪言葉を使ふ樣に努力して居ます。家には澤山の財産があつたのですけれど母が一人で財産を守り得なかつたのです。土地も賣つてしまつて今は何もありません。兄が後を相續して居ます。子が三人居る筈です。

 廿三迄は家業の手傳をして兄の脛をかぢり乍ら遊んで居ました。廿三の年に東京に出て砲兵工廠に入り鍛工と云つて鐵を鍛錬する仕事をして居ました。砲兵工廠には三年程居ました。其後は鍛冶で廻りました。何處から何處迄で歩きました。いえ東京の中です。木挽町にも居ました。白山に居ましたし。本郷に居た事もあります。八年前大阪に來ました。友人も何もあつたのではありません。來た時は梅田の何とか云ふ宿屋に泊りました。もう長い事になりますから宿屋の名は忘れました。其れから大阪鐵工所の櫻島工場にやはり鍛冶をして居ました。其頃は櫻島工場だなんて極めて小さなものでした。 十三【ぢゆうさう】の内務土木監督所で鍛冶をして居た事もあります。

其の頃宿は大東でした。惡い下宿ではありません紹介の方はしません。普通の下宿屋で只幾分安い丈けです。四五十名も止宿人が居ませうかね。食ふて寢て七十錢でした此處に比較すれば惡いがあの位が程度です。個人の經營して居る小さな鍛冶屋も大分歩きました。難波にも居ましたし難波島にも本田にも居ました。鍛冶職はよく代るものでしてね。あつちが儲けが多いぞと云ふと其れなら行かうと云ふて其日にでも行きます。昨年九月から此處に御厄介になつて居ます。手傳は今日此頃の樣に仕事があればよいのですが無いといけません。一時角座の修繕の方で手傳をしても居ました。今は何處と定まつて居ません。

 一度脚氣をやつた事があります。身體は丈夫な方です。風邪はよくひきます。新聞は大阪日日を買つて讃みます。長唄とか淨瑠璃とかも好きですが大體私は乏居が好きなのです。本と云ふて芝居の脚本を買つて讀む位なものです。其れに外國の小説が好きです。黒岩さんの涙香ものと云ひますかね。佛蘭西邊の事が出て來ます。何とも云へぬ程よいものです黒岩さんのものに限らず外國の翻譯ものは例でも好きです。宗教とては成田の御不動樣を信じて居ます。大阪にも支部がありまして此處でも信仰が出來る樣な具合になつて居ます。煙草は喫ひます。酒は少しもやりません。喰べ物では西瓜です。漬物で御飯と云ふ處です。其れで肉も大好きです。夏は肉はいけません。

 世の中の事は誰恨みもしません。自分のやり方が正しくないので此樣な生活をして居ると云ふ事を認めて居ます。勞働運動とか云ふ樣な事は大嫌です。あきません私は近頃思て居ますが是非耶蘇教を信じたい。何故つて耶蘇教の人は皆清い正直な人が多いからです貯金は五十圓出來ました。 (六月廿五日)


六十二番 鑢會社雜役 卅二歳
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 島根縣氷川郡杵築村です。大社のある町に接續して居る村です。家なんか皆低く石等を乘せて西伯利亞の方から吹きつける風を防いで居ます。松を植ゑて暴風の爲めにしては居ますが一村全部を覆ふに足る防風林もありません。漁村ですから色々な魚が捕れます。出雲に來ましたか鯛口屋にお泊りでしたか其處に年増の後家さんが居ましたらう。其處の若衆が大阪に逃げて來て居ましたので世話をして一時職にも就けました。其後其若衆が居なければ鯛口家が立ち行かないと云ふ樣な事で歸しました。 もう十年にもなりますから今は後家さんも昔の樣に美しくはありますまい。今では驛からの道が鯛口屋の眞前から一直線に大社前迄で通りましたしよくなりました。

今市との戰爭ですか今市に中學校があつたのを杵築が横取りしたので今市青年曾が攻めて來たのです。皆竹鎗を持つて千家の 首【しるし】をあげなければと云ふて來ました。千家の家の子郎黨は勿論杵築の青年會も皆戰つて死ぬと云ふ決心でしたが千家樣が今度此の度今市青年會が攻めて來るに就いては先方が如何樣な行爲があらうとも一切手出しは出來ないと云ふ命命を出しましたから今市が來て思ふ存分な事をしても皆匿れて出ませんでした。一部は千家の塀を越えて臺所に侵入し燃えさしの槙を振り廻して部屋内暴れ歩いた者も居ましたし狼藉至らざる無き有樣でした千家樣には御書院に逃れて御いででしたが暴徒は其方に廻る樣子とも傳えられ町中生色が無かつたのです。暴徒は日の暮る頃今日は之で堪忍してやる。二三日したら又來る。其時は町全體を燒き拂ふし千家の首は屹度貰ふ。左樣覺悟めせいと云ふて歸りました。話の筋は其樣な譯で二回目は警察の手が廻つたか來なかつた樣に記憶して居ます。

 日の岬は少し遠くなります。沖の辨天岩に泳ぎついて遊んだりしたかと云ふのですか。漁村ですが私は漁夫の子ではありませんから其樣に海と親しみ得ませんでした。

 高等科卒業です。家業は雜貨商、父は六十四母は六十一で達者です。兄弟は七人女が二人の男が五人而して私は三男です。學校卒業後は家業の手傳ひをして居ました。大正三年廿六歳の年かと思ひます。何時迄親の厄介になつて居ても仕方ありませんから志を立てゝ東京に出ました。最初は友人の宅に泊つて居ました。間も無く世話する人があつて千住の或電燈請負人の處で働く事となりました。大阪の電燈會社は直接人夫を使つて街燈なり屋内の電燈なりをやつて居る樣子ですが東京の方は會社が仕事を請け負はせて居ます。小さな電燈請負者で人夫は二人主人とで三人でした。電燈屋は尊い人の家にも貧しい人の家にも一切の柄の家々に出入します。大阪等と違つて氣持ちのよい事は何處に行つても茶菓をすゝめ又小晝時になれば一服と云ふ具合で饂飩を喰べさせて呉れます。此樣な具合で金は儲からないにしても住んで住み心地のよいのは東京です。給料は喰べて三十圓でしたから今の金にすれば六十圓餘になりませう。五年して八年七月大阪の方は如何樣の景氣かと思ふてやつて來ました宿屋に泊つて一泊二圓五十錢をとられ宿屋は叶はぬので上福島の北野職業紹介所に一泊七錢と云ふ事で泊りました。南京虫で一夜中睡れず翌朝其處からの紹介で海老江の針工場に紹介され其處に行かふと思ふてやつて來ますと此處の宿泊所が見つかり針工場は駄目でしたので其後は此處の宿泊所に泊めて貰ふ事になりました。友人の紹介で谷本製藥所に一年程通ひ去年十一月から此處の紹介で大開町の鑢會社に働いて居ます。日給は二圓で仕事は易い方です。雜役故鑢製造の方は詳しく知りません。鐵を鑢の形に截り機械で目を立て其後に燒きを入れるものです。

 病氣をした事は殆どありません。現在の仕事は一時的と思ふて致して居ります。運動等は仕事が運動で少しもした事はありません。新聞は毎日新聞で雜誌や其外の本は何も見ません。音樂は三味線ひく事が好きで流行歌等をひいて樂しみます。芝居は好きで月に一回は屹度行きます。落語も好きで時々聞きます。

 神道です。心が惡い方に向はない爲めに朝晩神を拜みます。將來の事は何も分りません。東京に出る前役場に一時出て居ましたから讀み書きは人並に出來ます。算盤も出來ます。其方に何か口でもあつたらとも思ひます。

 煙草喫ひません。酒は少し飮みます。職工等が多勢を頼んで無勢の資本家に無理云ふて困らせるのは感心した話ではありません。私の會社の職工は賀川さんの新進會のに入會して居る者が大多數です。私は入會して居ません。尊敬するのは乃木將軍で平民的な處が好きです。平民的で無いと云はれるのですかそうで無い樣にも思はれるのですがね。貯金は六十圓に達しました。 (六月二十七日)


六十三番 硝子會社職工 二十歳
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 島田硝子に勤めて居ます。現在職工數は男女合せて五百名餘と聞いて居ます。日給一圓九十錢です。賞與は六月と十二月とですが今年は此の不景氣故あるともないとも音沙汰がありません。

 故郷は三重懸一志郡波瀬村です。津に二里程の農村で米麥野菜の類を津に出して居ます。一家は農家だつたのですが大正三年一家を擧げて大阪に出て來ました。父は四十九母は四十四で達者です。兄弟は兄と二人で兄の職業が洋服裁縫な所から現在の家業は洋服裁縫と云ふ事になつて居ます。私も一時裁縫の方を習ひましたが硝子等の荒い職を習ひましたので微細な仕事が出來なくなつてしまひました。

 尋常小學校卒業後は家事の手傳をして居ました。皆問屋の方から來る品物を作るのです。大正五年十六の年に世話する人があつて今の島田硝子に入りました。生産部に居ます。主として電燈の附屬品を製造して居ます。色つけの硝子ですか棒の先端に溶解した普通の硝子をつけ其上に色のついた硝子を卷いて吹き伸ばすと中が普通で外側に色の着いた硝子が出來上ると云ふ樣な道理です。模樣を入れる時は型で入れない場合には硫酸で燒きつけます。私の日給一圓九十錢は先づ中の下位な處で三圓四圓と取つて居る人もあります。精巧な品を作り得る人は收入も澤山ある譯ですが其樣な人は長く勤めて居る人に多く年功によつて取つて居ると見ても同じ樣な事になります。

負傷をした事は一度あります。私が仕事をして居る時他の者が誤つて私の頭に硝子の器を當てましたから器は壞れて頭は深く切れました。藥代等は會社の方で出して呉れました。一週間程休んだのでしたが日給は貰ふたやら貰はなかつたやら忘れました。負傷する者は日日澤山あります負傷と云ふよりも火傷の方が主でせう。燒けた硝子故皮膚に觸れゝばヂリツと燒けます。手袋等しては少しも働けません。しても火故手袋位直き燒き通します。身體は強健です。現在の職業は好きで働いて居る樣なものですが永久的の仕事とも思ふては居ません。未だ徴兵の方もすんで居らず其内ゆつくりと考へるつもりです。

 新聞は何と云ふ事なく讀んで居ります。雜誌は衞生學に關するものを讀みます。芝居浪花節の類は好きです。碁、將棊も少し運動は機械體操で海老上り位の程度です。宗教は神道です。崇拜して居る人は誰もありません部長に頭を下げる位の處です。貯金は九十五圓になりました。 (六月二十七日)


六十四番 鐵工所職工 四十二歳
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 鐵工所の仕事は何と云ふて名もついてありませんが雜役とは違ひます。鐵管から湯を送つてやつて仕事の下準備をするのです。故郷は名古屋で家業は材木商多勢の者を使つて居ります。兄弟は五人私は三男。妹が一人他は男です乙種商業學校卒業後は卅八歳國を出る時迄家業を致して居りました。

 兄は私が家出する四五年前に亡くなりました。出郷の理由には言ひにくい事があります。父と意見が合はないとでも申して置きませう。其後四五年此樣にしてブラ▼/\▼して居ます。何故つてブラ▼/\▼して居ます。最初は河岸の大阪舍蜜に入りました。舍蜜とは石炭を燃燒して瓦斯は瓦斯の方に送り殘のタールの中から種々なる染料其他の藥品をとる事をする仕事を云ふので英語の方から來た言葉と聞いて居ます。十箇月程して大阪鐵工所の方に代りました。大阪鐵工所の職工はまだ本當に自覺した者が居ないので何處の勞働團體にも入つて居る▼▼は少ない樣です。造機部の方では鐵工組合、友愛會等が多く造船部の方では造船工組合等に入つて居る者はあまり無くて國粹曾の方に行つて居る者が居る樣です。國粹曾ですか鴻池組の仲仕に多い樣です。今度の大電問題の時には鴻の池の人夫三百名程を連れて會社の方を守らせたと云ふ事ですね。造船部の方では海軍省から註文になつた大タンク船を造つて居ます。二萬五千噸と聞いて居ます。南洋方面から燃料油を積んで來るのに使用せられるものなそうです。船内の荷物置き場が油槽になつて一號二號三合四號と云ふ樣に分れて居ます。

身體は丈夫ではありません。一昨年赤痢に掛りました。原因は大阪に知人があるのですが其家に行つて御馳走になり後でサイダーを飮んだのでしたが其サイダーが惡かつた樣に思つてます。醫者に見て貰つたら赤痢だと云ふ事で桃山病院に入院しました。市内の者は無料ですが當時私は傳法村に居ましたから一日一圓宛とられました。毎日同じ赤痢患者が死んでゆくので氣味が惡うございました。妙なものであの患者は今朝の引き潮の時には持てたが晩の引き潮には屹度死ぬるであらうと云ふて新聞についてゐる潮の滿干の表を見て時間を勘定して待つて居ると屹度其時刻になると死にます。どんな關係か知れません。昔人間が魚であつた時代があつたものかどうか。私は二週間で全治しました。便には血便も可なり交つて居ました。

 新聞は閲覽室にあるもの何でも讀みます。雜誌は太陽と中央公論とです。名所等を見物するのが好きです。宗教は何も信じません。生活費のみあれば結構ですから別段將來の事は考へません。

 酒も煙草ものみません。夏はビール一杯位なものです。社曾問題に對しては可なり趣味を持つて居る方ですが勞働者の云ひ分が過激に過ぎる樣な場合には充分云ふて聞かせる必要があります。勞働運動は自分から進んでやる樣な氣はありません誰も尊敬する人はありません。金は貯金で六十八圓五十錢と債券で七十五圓あります。 (六月二十七日)


六十五番 鐵工所職工 廿一歳
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 大阪鐵工所の取附工をして居ます。造船部の者は勞働團體には入つて居ません。皆個人主義で別々な心で働いて居ます。私は直接船の方には行きません。鶴見と云ふタンクに用ふる鐵板等の取附です。收入は船の方に直接行く者よりも危險が少ないと云ふ意味でズツト少なく私は一日一圓四十二錢と云ふ常傭になつて居ます。仕事は請取と云ふ名義ですが此頃は此常傭以上に出る事は殆どありません。

 故郷は熊本縣鹿本郡吉松村です。本當の父は私が七歳の時に亡くなり生みの母は他家に再嫁してゆきました。私は父の親族に當つて居る現在の養家に貰はれて來たものです。養父が婿で養母が家娘と云ふ關係です。養母は私に目もなく懸命に大事にしますが父は嚴しくて盛に私を撲りつけたり縛つたりしました。其都度母が何か云ふと父は貴樣の知つた事ではないと云ふて母をいじめますので縛られたりする私は平氣で居ましたが母が氣の毒故十七歳の時家出する事に決しました。元來私は謀叛心の強い男でどんな事があつても泣く樣な事が無く大人の横暴等に對しては常に復讐したいものと考へて居ました。父の心は母が家娘と云ふので自身の身内の者を大事にするか己は其樣な事はさせない充分に教育して遣ると云ふ意味で間接に母の誇を傷ふ示威の運動なつもりです。本を洗つて見れば私が憎くての行爲ではなく世間や母に對し自己の優越感を保持せんとする一の手段であつたので私のみ家出すれば問題はないのです。

十七歳の時八幡に來て三好組に入り土方をして居ましたた。八幡の土木建築を請負ひして居る親方は七八人あります。私共は建築の方で機械を使用してコンクリを捲きあげたり鐵筋を建てたりして居ました。二筒年半しましたが周圍の壓迫で居堪まらず虎狼の如く勝ち誇つた奴等に對して何時復讐出來るかも知れませんので八年八月大阪に出て來ました。八月廿三日汽船で川口に着き地圖によつて中學程度の學校を調べ何處でもかまはず編入試驗を受ける考へでした。先づ北野中學を訪ねる積りで北大阪線に乘る可く此處の前を通つたものです。市立共同宿泊所と云へば惡くあるまいと思ふて其夜にから此處に宿る事になり今日に及んで居ります。直ぐに關西大學豫科に入學しました。自分は年もとつて居れば豫科から本科と順序を踏んでは居れず九年四月專門部の一年に入學しました。何處に行つても壓迫者は居ります。學校等でも金持等の馬鹿息子共が威張つて居り會社でも其通りです。學校卒業後は商店に入り其商店から外國に行く所存で何時かは弱者と共に立つて威張り居る者共一切を亡ぼして遣る考へです

 新聞は何と云ふ事なく讀みます。音樂は風琴、笛等が好です。芝居も好きです。運動では柔道で右の足拂ひが得意です。野球も見る事は好いてゐます。宗教は神道で神道は無茶な願をかける等がない處が好きです。眞宗だとか稻荷樣だとか云ふのは無理のきく宗教で金が儲かる樣と儲けさせて貰へたら卵をあげるの金を出すのと云ふ商賣をして居るのと同じ樣で面白くありません。其他の宗教と神▼▼とは比較して見た事はありませんが恐らく神道が一番よい宗教だと思ひます。煙草は喫ひます。酒は飮みません喰べ物は何でも宜しうございます。

 勞働運動に對しては警官の無智狂暴な事と勞働者の主張が虫のよすぎる事とを遺憾に思ふて居ます。古人では西郷南洲を慕ひ。武人宮本武藏が京都で或團體を打つた時神を敬すれども頼まずと云ふた言は千古の名言と思ひます。 (六月二十七日)


六十六番 機械工作所職工 卅五歳
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 豐崎町の大阪機械工作所に働いて居ます。同會社は主として紡積機械を製作して居ます。數ある紡績機の中で長棉紡績機と云ふのが一番精巧なもので紡績の最後の眼目ともなつて居る機械です。外國邊に何千錘の機械を註文したとか云つて居るのは此機械を土臺にした云ひ方で此機械一臺は三百錘と云ふ定めです。外國に出來る長綿紡績機は日本のよりも精巧だと云はれて居ます。近頃は日本の物と雖も劣らぬものか出來る樣になりました。以前此會社が日本兵機と云つた時にはロシヤが歐洲の大戰の時使用した砲彈の信管を作つて居たもので其頃は莫大の利益を得たとの事です。今だつて利益は大したもので毛唐人等が顧問とか云ふて居る樣ですが收入は如何丈けあるものやら分りません。

 大阪西區の生れです。兄弟は兄と私と二人で父は私が廿八の時母は廿一の時に亡くなりました。家業は染物業で常に六七十人の使用人を置いて盛大にやつて居ました。學校は中學四年修業で五年に入りかけて家庭の都合で退學しました。退學後は兄と共同して兄は販賣の方を私は製造の方を分擔して働いて居りました。父が亡くなつたは私の廿八の時故別に商賣上に影響はありませんでした。製品ですかシルシ物と云ふて職人等が着る袢纏樣のものを主として綿布に染めるのです。一昨年景氣のよいのに乘じて兄が思惑したのが失敗の原因で昨年の暴落に一溜りもなくゆきました。幾分の貯へもありましたから其を持つて東京下關等と人目を避けて浪々して居ました。兄も何處をどの樣に逃げ歩いて居るものやらお互に音信も通じませんから何も分りません。私は妻もなかつたので比較的氣樂です。一時は自分が使つて居た職人の家に置いて貰ふて居候をしても見ましたが何時迄も居候でも仕方なし勞働に不慣れな身ですが世話して呉れる者が居ましたから今の大阪機械に働く身となりました。收入は月收五十圓にもなりませうか。

 新聞は何もとつて居ません。雜誌は中央公論等を好みます。小説では翻譯物が好きで菊地寛・芥川龍之助等のものも讀みます。芝居や落語にも行きます。三味線もひきます。運動は何も出來ません。

 宗教では信じて居るのではありませんけれど友人の話等を聞いて常に感心して居る事ですが僧日蓮の侵掠的態度を痛快に思ひます。總を體驗して後言行に出でんとする彼の宗風も亦採る可きであらうと信じます。

 希望は何もありません。幾分金が出來たならば晴れ晴れした顏をして知己や兄弟に遇つて見たいと思ふ位の事です。煙草は嗜きですが酒は飮みません。社會制度に關する事は末だ何も考へて見ません。貯金は三百七十圓に殖へました。 (六月二十八日)


六十七番 鉛製品工場職工 廿八歳
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 稗島の和泉鉛管製造に通つて居ます。鉛棒は米國から來るものゝ樣に聞いて居ます。内地産もあります。銀山と鉛とはつきもの故大概の鑛山からは少量宛は採れるのでせう。鉛板鉛管の用途は極めて廣く酸類の腐敗を受けませんから肥料會社や染料會社の諸道具に使用せられます。海軍省に納まるものが最も多い樣です。各造船所にも納めます。電燈會社の電池等にも用ひますから、一切の化學工業に用ゐられると云ふ事が出來るであらうと思ひます。

 故郷は島根縣邑智郡川越村江の川に沿ふた小さな村です。家業は農業で父は七十母は六十六で達者で居ます兄弟は五人。四人男で女が一人私は三男です。村の産物は半紙、牛蒡、麻等で何れも遠く大阪邊にも來ます。附近は湯の津有福等白山火山系に屬する温泉が多く是等の温泉は皆原始的で風紀が惡い樣です。其に牧畜が盛で石見の出羽村には日本一の牛市が立ちます。昔からの牛の産地ですけれども近頃は日本牛が少なく洋牛が多い樣です。私の家でも牛を飼つて居ますが之れを使用する目的ではなくて大きくして市に賣る目的なのです。賣れば直ぐ新しく犢牛を飼ひます。

 學校は高等小學校を卒業した許りです。學校卒業後は村で農業をして居ました。廿四の秋友人を頼つて京都に出て來て其友人の紹介で三谷と云ふ伸銅所に働いて居ました。伸銅所の仕事は銅に熱を加へてロールの間を通らせ銅板等に引き伸す樣な事で鉛板を作る等に此ぶれば遥かに面倒です。昨年四五月頃から漸時收入が滅つて來て到底やつて行けなくなりましたら六月意を決して身をひきました。其以前大部馘首があつて十五日分の手當と妻帶者に對しては特別手當があつた樣でしたが自分で引いた私には何もあらう筈はありません。七月大阪に來て曽根崎邊に二晩程泊りました。二圓七十錢宛でした。大阪職業紹介所の世話で今の處に働く事になりました。一圓六十二錢宛になります。其内七十錢が手當ですから本給は九十二錢です。今度工場長が下の關の方に代つたについて吾々が皆で餞別をしました。工場長は其禮として手當の方を本給に繰り入れる樣にして遣ると約束されたとかで何せ眞面目に働きさへすれば吾々の會社ばかりは給料を滅される樣な心配はありません。身體は丈夫ですが昨年十月脚氣になりましてね。姫路に居る二番目の兄の處に行つて厄介になつて居ました。二箇月程したらよくなりましたが今年も亦出てきはしないだらうかと心配して居ます。

 新聞は朝日に毎日です。雜誌は生活と家庭雜誌とをとつて居ます。音樂には趣味を持ちません。碁將棊も行き方位は知つて居ます。運動等は百姓をして居たので力丈けなら誰にも負けません。

 將來は金を貯へて置いて國に歸つて百姓をする考へです酒も煙草ものみません。甘い物なら二三十錢が程は平けます。別段惡い癖と意識する事もありませんが晩年になつて未だ放浪して居るかと思はれるのが殘念です。儉約をして金を貯へ老後は安らかに生活したいと思ふて居ます。

 色々な社會問題もありませう。けれど私共は考へる必要はないと思ひます。勞働運動等も對岸の火事同樣のものです。組合等には入つて居ません。保險には是非入つて置きたいと思つて居ます。養老保險にした處が生命保險にした處が老後、人に厄介にならぬ工夫故大事な制度です。親鸞上人や二宮尊徳翁を崇拜して居ます。 (六月二十八日)


六十八番 船頭 四十四歳
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 石川縣鹿島郡登部村に生れました。父は十五年前に亡くなり、母は三年前七十で亡くなりました。男四人姉一人の兄弟で私は二男です。家業は農業ですが私共は海が近いので船にも乘りました。魚では鯛鰤等が採れます。螢鳴賊は七月頃に群をなして岸によせて來ます。喰べれば美味いもですが肥料にもします。

 學校は二箇月程行つたのみです。二十五歳迄は家事の手傳をして居ました。廿六の年に世帶を持つて昨年五月出郷する迄故郷に在つて手間等取つて暮して居たのですが妻との間に面白くない事がありまして喧嘩兩成敗とも云ひますから何れが惡いとも申されません。けれど遂に分かれねばならぬ事となりました。大阪に來て何處か安くて泊めて呉れる處が無いかときゝましたら市役所で經營して居る共同宿泊所がよくないかと云ふ者が居ましたから此の方にお伺ひして御厄介になつて居ます。職業の方は故郷に居る時からの友人が二人程大阪に居ますので其人等に相談した處が今の職業が見つかりました。箱屋の材料を船で運搬するのみです。給料は月六十圓にもなりませうか。

 力はあまりありませんけれど身體は強健で病氣等した事がありません。新聞は讀めば讀めない事もありませんが讀みません。相撲位が好きなばかりで他に之と云ふ趣味を持ちません。宗教は一向宗で九條の説教寺に行つては説教も聞きお經もあげます。之と云ふ商賣は未だ考へつきません。金を貯へて何か商賣をしたいと思ふて居ます。酒も煙草ものみません。御飯が一等嗜きです。貯金は五十圓です。 (六月二十八日)


六十九番 製氷會社職工 廿七歳
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 南堀江の三番町の日東製氷株式會社と云ふに通つてゐます。鹽水管の中を更にアンモニアの管が通つて居て潛熱か何かを奪ふ仕掛で爲めに鹽水は氷點以下十三度に下ります。鹽水の温度が下ると其外に漲つて居る水が氷點以下になつて氷に代るもので水を漲つて二三分すればもう小さい氷が出來て居ます。完全な氷となるには廿四時間程掛ります。けれども水槽が澤山ありますので六人の者が休みなく水を漲つたり水槽から氷を取り出したりして居なければなりません。夜晝働かねばならぬので交代で行つて居ます。晝夜通じてしないと大分會社に損がいくと云ふ話です其れは機械の温度を下げるのに金と時間が掛るからです。出來上りの氷の目方は卅六貫もありませう。機械仕掛けで動かす事になつて居ます故一人でも動かせますけれど樂ではありません。一日で十四本から五本程貫きます。取り出しては鋸で小さくして倉庫に入れます。皆鋸屑で覆つて居ます。

 本籍は三重縣津市で家業は商業です。父は七十三かで達者ですが母は五十二の時亡くなりました。兄弟は五人で男三人の女二人私は三男です。母の死因は自然で止むを得なかつたのだそうで前々から何處と云ふ事もなく弱い樣でした。私は改正の高等一年迄ゆき小學校時代に圖畫が上手であつた處から身に藝をつけると云ふ意味で寫眞館に入つては術を學んで居ました。僅か一年程しか居なかつたのですから燒き方等はさせませんでした。寫し方や修正等は大體出來る樣になりました。

 三重紡績(津市)に二箇月程通ひましたけれど小使取りにもなりませんから十五の年に兄を頼つて東京に出で品川の寫眞館で再び寫眞術を習ふ事になりました。それも半年程で二番目の兄が神戸に居ますから此の方に來て海員の志願をしました。西川と云ふ海員紹介所の手を經て郵船曾社の備後丸と云ふ船に乘り込みました。臺灣航路の船で基隆迄行き一週間程碇泊して主としてバナナやパイナプル等熱帶方面に出來る果物を積んで歸ります。一年程してジャバ丸と云ふ商船會社の船に代りました。之は孟買迄行つて歸る船ですが復航には木材棉花等を積んで歸ります。三年程したら其船がアメリカ航路に代つてビクトリア迄行く事になりましたから其方に往復して居ました。長い間には色々な事がありました。一度は船がアラスカ沖に流されて二日程は進むよりも退く方が多かつたりした事もありました。内地航路も外國航路も同じ事ですが船が碇泊したとなると船員は皆惡い處に行く樣な事になります。日本の淫賣婦ですか やはり外國の淫賣婦等と同じ家に部屋を貰つて居ます。日本人に金が無いと云ふ事は知れた事なのであまり同胞を引く樣な事は無い樣です。それに外國では同邦人になると兄妹か何かの樣にも思はれるのでせう。外國人でもあまり配合の惡い場合には自分から引込んでしまひますし日本人は何處に行つたつてあまりよい樣ではありません。外國等の制度は其樣な處で飮食したりして散財する樣な事はなく單に玉代と云ふに止まつて居ります。其前五港定期の青竹丸と云ふのに乘つて居た事もあるのですが其は暫時でした。五港と云ふのは神戸、大阪、門司、函館、小樽と云ふ事になつて居ます。

元々私は歩兵の補充兵と云ふ事で居たものですが一昨々年召集せられシベリア、モクゾンの守備隊として行つて居ました。チタとバイカル湖との間の寒村で、人口は何人位居るものか見當がつきませんけれど建物は皆丸太小屋で西洋造りでも何でもありません。只煙突のみが煉瓦で出來て居る位なものです。向ふの人民との折合は極めて圓滿なもので人民は非常に日本軍隊に頼つて居ました。時々市長(村長?)が兵營を訪れて來た樣な事もありましたし、向ふで私達を御馳走して呉れた樣な事はありませんでした。こちらで向ふの人民を招待して御馳走してやつた事等もありました。キリストの生れた日とかお正月とか云ふと娘等が色のついた美しい服裝をして門に立つて居たりしますけれど平常は實に汚ならしい服裝をして居ます日本の田舍等と全く同じ樣です。過激派を恐れて居る事は甚しいもので兵舍等も悉皆村の公の建物を無料で貸して呉れたものだと聞いてゐます廿六歳の六月廿五日凱旋して一時角一ゴム會社にも居ましたが間もなく今の處に代つて引き續き居ます。

船員等にありがちな殺伐な氣性は少しもありません。生れつき此の樣に出來てゐるのですね。身體は極めて健康です。將來の方針は何か商賣を覺えて圓滿な家庭を作つて見たいと思ふて居ます。新聞は毎日を見て居ます。雜誌は讀んでゐません。日本外史を讀んで世の興亡の跡を尋ねて居ますが其れにつけても神道が大切と云ふ事を思ひます。畫は近頃書きません。他に何と云ふて趣味もありません。時々活動に行きます。宗教は前にもお話しましたが神道です。日本の神道外には眞に徹底した宗教はないと思ひます。崇拜するのは楠正成乃木大將等です。 (六月三十日)


七十番 製氷曾社職工 廿四歳
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 前の人と同じ製氷會社に働いて居ます。故郷は府下東成郡平野郷町です。父は私が十二の時母は十八の時に亡くなりましたので私共の兄弟六人男二人女四人は可なり苦勞しました。學校は尋常小學校を卒業しました。腦が惡かつたので成績は劣等の方でした。三歳頃に引きつけて苦しんだそうで生れつき何か毒があるのかも知れません。其後成人と共に腦の方はよくなりまして今では人並の頭は持つて居る事と思ふて居ます。

 大阪には二十の年に出て來ました。最初淀川の三共護謨株式會社と云ふに働きました。此處に半期程して給料が思はしくないので日本燒釦と云ふのに代りました。燒釦と云ふのは石炭岩が何かの粉に藥品を交ぜて濕氣を呉れ型におして火に燒くものです。此仕事も夏になれば火氣の爲め苦しい事が分つて居ましたのであまり健康の勝れない身體故四箇月程して角一護謨會社に代りました。角一は氣持ちのよい會社です。日給は僅か一圓五十錢か知らんでしたけれども一昨年十一月解雇の時は四十圓の手當が出ました。廿五日分かに當りませう。其後私としては何處かの會社で自分に取つて眞に適當な職業に就きたいのでしたけれどいくら探がしてもよい口が見つかりませんから其年の九月から現在の製氷會社に入りました。行つて少したつと水ばかり取扱つて居ます爲めか脚氣になり十五六日會社を休みました。此處の二階に置いて戴いて居ました。一時は脚氣が衝心して無意識状態に入つたので大騷動で醫者を呼んで注射して貰ひました。よくなつてから又同じ曾社に出るのは恐ろしくもありましたが他に適當な仕事もなし 續いて働かせて貰つて居ます。誰でも一度脚氣になるとの事ですが働いて居れば水になれてよくなる樣です。私も其後は極めて強健です。日給一圓九十錢其他は何もありません。

 新聞は何も讀んで居ません。本では講談物を讀みます。落語浪花節等が好きな位で他に何の趣味もありません。小さい時に舞の方の稽古もした事がありますけれど勿論本當に出來て居るのではありません碁將棊も行き方丈けです。

 眞宗を信じて居ます。家の宗教だから拜んで居ます。希望とては弟が姉さんの嫁入り先のポンプ屋(信濃橋)に奉公して居る、彼と共に商賣がして見たいと思ふて居るのみです。煙草は嗜きです。酒は飮みません。甘い物が嗜きです。勞働運動と云ふのは段々不景氣になつて來たので資本家が給料を下げるとか職工を解雇して事業を縮小せねばならぬ樣な事のある場合に職工が不服を云ふ樣な事から起るものとは思ひますけれ共其樣な事に興味を持つては居ません。誰も尊敬する人も頼る人も有ません弟と二人で商賣が遣りたい丈けの事です。貯金は既に三百八十三圓七十錢になりました。 (六月三十日)


七十一番 遞信局雜役 廿一歳
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 大阪市立葉町に生れました。お父さんは九條のお寺の坊さんでした。私が十二の時に亡くなりましたし母は再縁しましたので私はこんな事になつてゐます。神崎で大きく料理屋をして居る伯母さんが居ります。行けば屹度酒を呑ませて呉れます。爲めに私は酒呑みで呑めば一升以上呑みます。兎も角高等小學校二年迄ゆきました。卒業後は堺のセルロイド會社に働いて居ました。仕上部に居たのです。セルロイドにアルコールを振り掛けてねり方です。機械は皆外國から來たと云ふて居ましたが子供誑しの樣な小仕掛けのものでした。一年程して後一時西野田の製本屋に居た事がありました。天滿橋南詰の食堂に居た事もあります。賃銀の關係はセルロイドが八十錢製本が五十錢でした。現在は遞信局東部の内線の方に關係して居ます。電話設置に必要なものを車で運搬するのです。一圓五十錢宛の收入です。

 健康は普通ですが陰嚢が惡く脱腸です。指先で推して居れば引込みますが過激な勞働でもすれば直き出て來ます。徴兵の方も檢査官が之れでは仕樣が無いと云ふて免除になりました。新聞は閲覽室にあるもののみ見て居ます。雜誌は中央公論を讀みます。講談等の小説本も好きです。美術の方は鉛筆畫でも水彩畫でも好きで機械體操等も行りたいと思ひますが、前申しあげた通りの病氣なものですから思ひきつてやれません。

 宗教は天理教を信仰して居ます。父は眞宗でしたが祖父さんが天理教の教師をして居たので自分も天理教を信じます。神樂も致します。他所に嫁入つてゐる母が一時先方の家を出て來て、私に商賣をさせ嫁を取つて呉れると申しますから其れ迄に少しでも金を貯へて置き、商賣の方も知りたいと思ひます。いゝえ一時出て來るのみで私に嫁を貰つて呉れたら又歸つてゆくのです。先方でも私が此有樣で時々顏を出すので五月蝿がつて居ます。それで其樣な案が出たのかと思ひます。煙草も時々喫ひます。伯母が神崎の料理屋をして居る其處に行つて呑むのが樂しみです。いゝえ伯母の處には私のする樣な仕事はありません。皆女中さんがします。 (六月三十日)


七十二番 肥料會社職工 廿九歳
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 福井縣若狹國大井郡本郷村です。父は五十で此大阪三軒屋に居ます。と云ふのは實母は私を生んだ儘死んでしまひましたので、父は私を里子に遣り、自分は風を食ふて何處と云ふ事なく歩き廻つて居たものです。私を里子に遣つた家は之れも裕福な家ではありませんが四人の子供が大きくなつた後で五人目が死んで私が其乳についたと云ふ譯です。學校は尋常卒業で十八の年迄は里家の家業(農業)を手傳つて居ました。其前にも薄々自分が此の家の本當の子でない事には氣づいて居たのですが、突然本當の父から自分は大阪三軒屋の或炭屋に人夫の樣な具合で居るから暇もあつたなら大阪に出て來て見ないかお前を里子にして故郷を去る時の自分の心では是非に金を貯へてはお前の養育料を送ると云ふ考であつたのだ。其後何處を歩いてもよい事が無いので今日迄少しの仕送りも出來なかつた。親としての義務を果して居ない點は全くお前に合はす顏もない樣な次第である。と云ふ意味の手紙が來ましたので、父と云ふものを見た事のない私はどんなに喜んだ事でせう。早速暫時稼ぎに出掛けて來るとばかりに大阪に來まして、父に面會しました。

本當に父の傍で働きたいと思ふて故郷を出たのは一昨年です。最初は三軒屋の父の家に居てメリヤス工場等に行つて居ました。出入橋の日本紡績にも行つてゐました。其處には一年も居ましたらう。仕事が暇で儲けが少なくなりましたので現在の肥料曾社の方に代りました。肥料曾社の仕事は色々な材料やら藥品やらを混合するのです。材料の名等は一向分つて居ません。私共の上に監督が居て其又上にも監督が居ますので分量等も上の方で定めて私共は使はれて製造するのです。賃銀は一日一圓五十錢です。宿泊所に居れば湯錢も必要なし全部で五十錢もあればやつて行けると云ふ樣なものですけれど目に見えぬ金がかゝるものでしてね新しい買つた許りの手拭等を落す樣な事もありますし、やはり九十錢も一圓も掛る事になります。出來る丈け▼▼約にして暮してゆく方針です。金が少し出來たら商買を始めたいと思ふて居ます。

新聞は縱覽室にあるもののみを見て居ます。仲々雜誌や本をとつて讀んでみる樣な事等はありません。それに狡猾にやつて居ます。酒も煙草ものみません。甘い物なら幾度喰べます。餘程心棒せねばなりません。學校は尋常ぎりですから會社等に働いても重く用ひられると云ふ樣な事はありません。それに里家も豐かな家ではありませんから幾分でも送金をせねばなりませんからね。誰も尊敬しません。それでも貯金は四十五圓出來ました。 (六月三十日)


七十三番 アイスクリーム行商 十七歳
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 生れは愛知縣碧海郡新川町西松江村です。只今此アイスクリームを致して居ります。父はこの少し申しかねる樣な癖がありますんで、賭博の方を致すんでございます。何の其の樣に氣のきいた、侠客なんぞぢやありません。職業も何のありません。父の年は五十二、母は四十一です。これでも高等科のみは卒業して居ります。

卒業後は名古屋で眞棉問屋に奉公して居ました。蚊帳屋にも。兩方共半年位宛です昨年三月伯父が赤釜、土管等を可なり盛大にやつて居ますもんですから其方の紹介で横須賀の陶器店に奉公して居ました。十一月其店が見込がありませんので暇を貰ふて京都に來ました。大黒屋と云ふ紹介所から紹介して貰ふて、ある小さな染物屋に入りました。紹介料の方は若し長く其家に奉公出來る樣であつたなら私から二圓取ると云ふ約束でした。染屋の方からは三圓取るのだと云ふ樣にも聞きました。此大黒屋は京都の同業組合曾の會計を持つて居て可なり威張つたものだと云ふ事です。十日程して一時國に歸れと云ふ手紙が來ましたから國に歸る事となり横須賀の前居た店との問題抔所用をすませて再び京都に來て件の家に行つて見ますとお前の居ぬ内に都合の惡い事があつたので工場では職工を大部解雇した。君も雇入れる考ではあつたが其樣な次第で止める事にするとかで、爲めに例の紹介料二圓も其儘出さずにすにすみました。

 大阪に來て梅田驛に降り何處とて當てもなく歩を運んで天神橋六丁目に出ますと市の紹介所が見つかりましたので求職しました。よい口も無くて又も電車に乘つて見物とも思ひ乍ら天王寺の方に行きました。其夜は人から聞いて大阪職業紹介所に宿りました。此處は十錢十二錢十三錢十四錢と宿泊料に階級がある樣です。私は十四錢の最上のにしました。此處から紹介せられて浦江のカーボンペーパー株式曾社と云ふに入る事になりましたが、其處は一日と十五日の勘定で面白くもなし。此處に止めて戴く事として鮟鱇を初めました。鮟鱇して居た頃は二圓二三十錢にはなりました。遞信局の外線で運搬の方をしもしました。此處は一圓半でした。

其れも止めて段々暑くなつて來ましたから、今のアイスクリームに代りました。ミルクに卵に砂糖にレモン、黄粉、氷、鹽等でグル/\廻せば出來ます。洋杯で一つ五錢です。上等の材料なら十錢位のは造ります。カフエー等のは材料もよし其れに店を持つて居るから店賃がありますから廿五錢も其れ以上にもなります。十錢のは隨分結構に戴かれます。是非一度。其初めですか、氷問屋に行つて其製法を尋ねましたから。機械一臺買つて來たら教へてやると云ふから機械を買ふて參りましたら教へて呉れました。それは教へる道理でありませんか氷がいくらでも賣れる事になるのですから。雨が降れば仕事が無し充分儲けさせて戴かねば立ちゆきません。

 健康な方です。新聞は縦覧室のを見せて戴きます。芝居も落語等好きで雨が降ればゆきます。宗教は眞宗です。懸命に儲ける覺悟ですどうかしてお母さんを助けてやりたいと思ひます。酒も煙草も飮みません。伯父さんには色々厄介になつて居ますので尊敬して居ます。 (六月三十日)


七十四番 鮟鱇 四十七歳
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 何處と云ふて梅田の方に出てゆきます。全くの鮟鱇ですから親方も何もありません。年とつて居ますから何でもしました。故郷は愛知懸碧海郡六ツ美村です。父は私の十二の時母は九つの時に亡くなりました。兄弟は姉と妹と三人です。十二の時に岡崎の棉屋に奉公したのが振り出しです。

 棉屋には十八の年迄居ました。同じ處で魚屋に二年、紐屋に二年、紐屋と云ふて店頭に備へてある色々な荷物を括る赤や青のあの平紐を賣る店なのです。體格がよくないので兵役の方は免除になりました東京に出て三河町の望月梅吉と云ふ親方に使はれて十年。土木建築の手傳です。小川町二丁目の小川原と云ふ人の處には三年。同じ手傳の方です。日暮里に五年程。此時は以前岡崎に居た時に魚屋に居た事があつたので乾魚を背負つて歩きましたがやはり大きく行る者は貸して歩きますので私の方は資金がないで現金でせう。それで到底競爭出來ませんでした。

平紐の行商もしました。之は又見當のつかない商賣でして一度に車に積んだ一臺が全部買はれてしまつたので更に卸屋の方から注文してひいて廻れば今度は何時迄しても少しも賣れなかつたりするのです。然し此平紐の方は比較的割のよい商賣です。大阪の方は來だ盛になつて居ません。其れと云ふのは東京の者は乙だの粹だのと云ふ事を好きで安い物でも何でもあの美しい紐で結いて遣れば皆喜んでブランコ/\振り廻して歸ると云ふ鹽梅ですが大阪の者にして見れば品物は出來るだけ値切つて置いて自分で風呂敷に包んで歸つてゆくと云ふ勘定ですから何時迄でしても盛んになりそうにも見えないのです。少し研究して置いて又平紐の方を行つて見やうかとも思ふて居ます。神田邊で夜店もした事があります。主に本で雜誌、畫報、少年物等をして居ました。外の事もやり乍ら行つて居たのです。四五年もして居ましたでせうか。それで大體今の年の位になりませう。大阪に來ては三月位にしかなりません。今は鮟鱇をして居ますが少し資本を作つて荒物屋を行らうかとも思ふて居ます。營業科目は龜の子タワシ、マツチ、石鹸等です。店等を出せるものですか皆行商です。

 身體は丈夫です。新聞も讀みません。笛等は聞くのはよいですね。相撲等も見る丈けです。碁將棊は知りません。眞宗を信じて居ます。煙草は嗜きです。酒は一合位です。尊敬するのは天皇陛下丈けですいゝえとても資本家と喧嘩出來る樣な力等はありません。貯金は僅に七圓です。 (七月一日)


七十五番 製革會社職工 廿九歳
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 會社の所在地は西野田であの向ふに屋根の見へるのが私の會社です。硫酸、硝酸、廢酸の三者を混合して混合液を作ります。之には會社によつて別々な名稱を附けて居ますが私の會社では單に液と云ふて居ます。之に紡績の屑糸を浸します。屑糸の形状は實物を持つて來なければ御諒解出來る樣に説明する事は出來ません。之れを一時間程して取り出し、よく洒して液を洗ひ去ります。之れが棉花藥で、火でもつけたら一度にドンと破裂して後には何も殘りません。之れを水氣を去る爲めに日光乾燥をするのですが八九月の▼▼光線の強い時には自然爆發と云ふ事があつて會社も何も壞してしもふと云ふ代物です。其れをエーテル、アルコール揮發油に浸して溶解しますとドロ▼/\▼した美しい液となります。處で相撲取りの褌子と同じ樣な天竺木綿に此液を塗り附けて目的の人造皮を作り出すと云ふ仕掛けで何回も塗り附ければ此猛烈な液が纖維の中に充分滲み込みますから強いのです。護謨ひきも本當の皮も此のレザーには及ぶまいと思ひます。出來上りの品物は爆發の恐れは無いと見えます。日給は二圓です。

 故郷は鹿兒島縣大島郡大島。大島紬の出來る處です。風俗は琉球に似た點も多いですが言葉は鹿兒島の言葉です。西郷が若い時分に三度大島に流されて 己【おい】どんは大島三太郎だと云ふて笑つて居たと云ふ。推し込められた石室等が今に遺つて居ます。城山にも墓がありますが此處にもあります。家業は農業でした。私が十六の年に父が亡くなりましてからは他人に小作させて僅かな田畑からの收入で家計を立てゝ居ます。母は今年五十六達者で居ます。地方の農産物としては米麥芋です。米は二回穫れる事になつて居ますが、二回目には水の不足を來たす爲め思ふ樣な結果が得られません。私は一人子です。多少の資産もあるのですから家に居ればよいのですけれど無智な者共と問題にならない小さな話を驚いたり笑つたり悲しんだりして死んでしまふが殘念な處から京阪の地方に出て一儲けせんものと出掛けたのでした。動機は金儲けでしたが結果から云ふと僅かに都曾生活をなし得たに過ぎません。

 學校は高等二年卒業です。廿三の時に突然故郷を出ました。船中で知り合になつた男が門司でガラス屋の小僧をすると云ひますので、私も其家で働かせて貰へないだらうかと話しますと紹介しても遣ると云ひますから其の硝子屋に使つて貰ひました。三箇月もしましたらうか。儲けがなくて最初の目的に反しますので神戸に來て大阪商船のボーイを志願しました。採用になつてアメリカ丸(臺灣航路六千三百噸)に乘り込みました。二等船室のボーイ見習と云ふ格で最初は本ボーイが貰つた祝儀の分配を受けて居ましたが三箇月もして自身本ボーイとなり多少の祝儀を頂戴しました。三等船客の中には金に窮して居る者もありますから中には祝儀を出さぬ者もありますけれど二等船客の中には祝儀を出さぬ樣な人は一人もありません。平均すれば一人三圓位になりませう。一年程して新高丸に乘り代へになりました。新高は澎湖列島迄行きます。海軍の要塞地帶になつて居ます。住民は海軍に關係のある人か土人かで氣▼▼は極めて惡い處です。

大正八年七月商船會社を止め大阪に來ました。自分で行つて西野田四貫島の酒粉會社に入りました。此の酒紛と云ふのは、石灰を密閉した爐の中に入れて硫酸にアンモニアを混合して煮沸した液を造るもので其瓦斯に當れば直ちに皮膚を通し肉を通し骨迄滲みて腐れます。其れで頭の先から足の爪先に至る迄で一部でも皮膚を裸出する樣な事がありません。眼鏡もつけます恰度お化けの樣にして仕事をします。犧牲者も多い樣で十年程すると心臟病で死ぬると云ふ事です。私は危險な商賣してから四五年にしかなりませんから身體が惡くなつたとも思ひません。それでも手袋をして居ても手の皮が此樣に燒けて居ます。酒粉會社でも日に二圓位の收入でした。賞與等たつて半期に五六圓のものでしたらう。

 將來の方針は歸國して絣製造をする積りです。新聞は朝日新聞を讀んで居ます。毎日新聞はお話になりません家庭の新聞として女性的な處は採る可きかも知れませんが、朝日の如く男性的な社會的な處がありませんのでね。雜誌は改造に解放を讀んで居ます。其他の文藝的のものは好きません。先づ是等の刊行物によつて充分に頭を作つて置いて徐に時機の來るを待ちたいと思ひます。

 宗教はキリスト教、メソヂスト派ですか、此宗教は他のキリスト教の諸宗派とは違ひまして自分の精神の何物なるかを明白にして其指す處に歩むと云つた樣な事があります。心則神とでも云ひませうかそうした處がメソヂストの宗風であると思ひます。同じキリスト教徒でも囚はれたるキリスト教徒は國家をも天皇をも否定しやうとするのですけれども私はメソヂスト教を利用しやうとして居る者で囚はれて居ないのです。從つて天皇陛下の如きも如何に十二の后とか云つた樣にして贅をお盡しになつて政事を顧みられず反つて暴虐な事をされる樣な事があつたとしても私は忠勤を盡したいと心掛けて居る者ですキリストがへロデアンラバス王に對して『狐めが』と云ふた條やら彼等は墓場の如し人其上を通れども内汚穢に充つる事を知らずと云ふて長上を糞味噌に惡口した話もあり、ソロモンの榮華の極みの時だも旦野邊に咲いては夕爐に投げ入らるゝ一輪の花の粧が勝れて居るぞと云ふて世の所謂權力を價値無きものとして賤しんで居られる事等もあるのですが其處は説明する事が出來ませんけれど、何故か私は惡い天皇でも其の命命に從ふ方がよい樣に思ふのです。キリストの命令と天皇の命命とが抵觸した場合には私は躊躇せずに天皇の命令に從ひます。其意味で私は眞のキリスト教信者と云ふ事は出來ぬかも知れませんが形式的に其方に屬して居る事のみは事實です。

 煙草は好きですが、酒は嫌いです。社會問題と云ふて先第一に勞働問題の型をつけねばなりません。横斷組合を團體交渉權の主體として認めて貰ひたいと思ひます。勿論クローズドシヨツプの方式でゝす友愛曾の賀川君と懇意にして居ります木村ですか錠吉です。あれも東も西尾も皆友達です。尊敬杯云ふ事はありません。 (七月六日)


七十六番 アイスクリーム行商 廿八歳
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 千葉縣香取郡佐原町が本籍です。父は五十八母は四十九です。家は農業で米の外に大根牛蒡白丸芋等を作つて居ます。兄妹は四人男女半分半分で私は次男です。學校は尋常を卒業した許りで別に成績のよいものとてはありませんでした。

 十四の年に學校を去ると同時に修業の爲めとて東京に出ました。當時親戚に當る者で卵屋をして居る者がありましたから其處の小僧になりまして廿一になる迄居ました。兵役は乙種の補充で未召集の儘です。其れから廿六大阪に來る迄は國に歸つて見たり、東京に出ればやはり其の親戚の卵屋です。

廿六の春大阪に來ると北區のある個人の紹介所から三軒屋の倉橋と云ふ勞働下宿に紹介されまして其處に四箇月、其處から代つて或素人下宿に二箇月。此素人下宿と云ふは勞働下宿と同じ樣に紹介、下宿屋、物品の損料貸し貸金等を業として居るもので違ふ點としては前者は鑑札がありますのに素人下宿の方は鑑札が無いと云ふ樣なもので普通に云ふ素人下宿とは意味の違ふものです。二十人程の勞働者が居ました。色々聞いて見ますと市役所で行つてゐる共同宿泊所と云ふのが勞働下宿等に比して割安に泊めて呉れると聞きましたから築港の共同宿泊所の方に代りました。其處では三軒家にある現金仕事をして居ました其れから一時其の向ふの會社で雜役をする事になりましたので此處に代つて來ました。其れも一月なるやならずで其後此月に入つてからは毎日遊んで居ます。

暑くなつたからアイスクリームがよからうと思ふて機械を買ふて來て居ました。製法等も大體教へられて居るのですが未だ初めません。東京の卵屋と大阪の卵屋とは大部要領が違ひます。東京では卸屋から小賣屋となつて居て卸屋が注文に從つて卵を分配し金は後から集めると云ふことになつてますが大阪は小賣が直接市場に行つて買ふと云ふ有樣で調子がとんと違ひます。上海卵には水硝子も何も塗りません。ぬる場合もあると聞きます。腐敗した卵と腐敗しかけて未だ腐敗と迄行かぬ卵との見分け方は日中の光線では分りませんけれど夜電燈の光りでよく見ますと等しく黄みが溶けては居ますが一方は黒くて光線が通りませんし他方は幾分でも光線を通して居ます。怪しいのは早速安くしてパン屋若しくはカステラ屋に賣りつけます。本當の意味で腐敗したのは誰も用ふる者はありません。

東京人と大阪人との比較ですか働き人にしか接して居ませんからよく分りませんが心のよい事は東京の者がよい樣で商賣の土手な事と云つたら大阪の方かと思ひます。それでも住めば都の比喩通り今では大阪人の氣性に對して不滿を持つて居る譯ではありません。

 金を貯へて一時故郷に歸る考へです。東京に居ればズボラになりますから千葉縣の故郷迄歸りませう歸つて何か商賣でも初めたいと云ふ考へです。新聞は少しも見ません。本は小説本等を見ます。小説も憐れな處が好きです。芝居も憐れな處なら新派でも舊劇でも見たいと思ひます。活動も好きです其他には運動にせよ何にせよ樂しみと云ふものはありません。

 宗教は何も信じません。煙草が嗜きですが酒は飮みません。勞働運動と云ふ事は働き人が皆一樣に飮んだり食ふたり充分出來る樣にしたいと云ふ處から出來たものとは思ひますけれど私は、自分さえ都合よく行けばそれで結構です。頼る人とては誰もありません。 (七月六日)


七十七番 左官 廿一歳
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 私の職は左官とは云ふものゝ保温材料株式會社の塗り方で普通の左官とは違ひます。保温材と云ふのにアスベストやシルケツトと同じ目的に使用せられるもので熱風爐ボイラー並に熱風管蒸氣パイプ等に塗りつけて温度を保つ塗料なのです。其名の通りです。一封度十二錢五十封度で六圓之が一俵になつて居ます。九尺に二十五尺のボイラーを全部塗るのでしたら廿五俵は必要です。然し一度塗ればアスベスト等とは異つてセメントの樣にカンカンと下地に密着します。其効力の絶大なる事は私の處のボイラーを六十度の熱にする爲には略千斤の石炭が必要なのですが夜燃料を止めると此保温材を塗らないとすれば翌朝は少しの暖氣も無くなつて居るのですのに保温材を塗つてからは夜火を止めた時に六十度であるものが翌朝は六十度と少し以上に上つて居るのでありますから温度を保つ上では世界無比の品です。其の製法は祕密になつて居ますが硅藻土に襤褸のスサ其他を混じて作るので出來上りは土と何等異る點がありません。日本、米國、英國三箇國の專賣權を持つて居ます。私は製造の方ではありません。則ち註文に應じて出張しては之れを塗りつける役で鐵管等には葭を針金で卷きつけて置き其上に塗る事壁をぬる場合と同等の異る點はありません。之れが私の職を左官であると申しあげた理由です。

 故郷は大分縣國東郡森町で海岸の漁村です。父は四十九母は四十三。家業は魚問屋です。何しろ捕り方が五分の賣り方が三分其他が二分と云ふ町なのですからね。魚屋は多いのです。兄弟は三人。妹二人で私は長男です。

 學校は高等二年卒業、在學中は算術の方に興味を持つて居ました。處で私の本當の母と父との間は前々から仲が惡いので私が十七の年に別な母が來る樣になりました。別に未だ子はありませんけれど面白くありませんから十八の年に大阪に出て來たものです。紅丸ではありません。汽車で出ました。

天神橋五丁目の紹介屋から紹介されて三軒家上の町の上西と云ふ勞働下宿に行きました。其れから乾と云ふ下宿に六筒月、今井組と云ふ下宿屋に六箇月程ゐました。本田の前田鐵工所に通ふ樣になりましたので西野田の宿泊所に置いて貰ふ方が都合がよいと思ふて本年三月九日から置いて戴いて居ます。勞働下宿は惡いですが他に何處を探しても之よりよい處が無かつたから如何とも仕方の無い次第で憎い奴等だとは思ひ乍らも勞働下宿にゐるのです。市役所の方は勞働下宿等と比較出來ません。之れ程よい處はないのです。不平を云ふのは云ふ方が間違つてゐます。前田鐵工所ではボイラーの鐵板等を機械に卷き込んで丸味をつける事や鐵管を曲げる事等を致して居ります。私の仕事は雜役と云ふ樣な事でした。今の處に代つたのは別に意味もありません。收入が思ふ樣でないので比較的よい處に代つたのです。

 長男故家をつがねばならぬ身ですから多少金を貯へて國に歸る考へです病氣はした事がありません。只汽車會社にゐた時…實は少しの間汽車會社にも使はれてゐた事がありますがトロで足をひかれましてね。汽車會社には會社で建てた病院があります。長い間其處に入院してゐました。治療の代に全部會社で持ちましたし其外日給は呉れましたが病氣よりも負傷の方が悲しいものです。汽車會社では負傷して病院に來る者は一日二十人平均位に上ります。

兵隊の方は今年檢査を受けたのですが幼ない時に膝關節を割りまして仕事等には不自由はないのですけれども免除になりました。新聞は大阪毎日新聞をとつて居ます。本や雜誌は讀みません。音樂や美術は嫌ひです。運動では機械體操が好きです。碁や將棊も大概負けません。酒も煙草も飮みません。果物が好きです。萬事今の世の中に滿足して居ります。大分縣には誰も偉い人が出て居ませんので尊敬する人もありませんが廣瀬中佐は男らしい人です。あの人は大分縣です。 (七月六日)


七十八番 手傳 卅九歳
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 江戸堀の奧野土木建築請負所に働いて居ます。仕事の都合では臨時として何十人も何百人も集めて來ますが毎日詰めて居るのは私と若い衆が二三人丈けです。其他番頭さんと云ふ勘定です。今は住吉で川崎と云ふ人の別莊を作つて居ます。高速道路に添つた處にあるのですが坪數や何かは私共には分りません四月から掛つてゐるのでもう全部出來上ります。私は手傳故煉瓦を運んだり壁土を箆で差しのべたりする役目です。給料は二圓二十錢宛になつて居ます。

 故郷は紀州で伊東郡戀野村。よい名前です。米麥に木炭が産物で家業はやはり農業小作して渡世してます。父は私の十五の時に母は廿一の時に亡くなりました。姉と私と二人丈なのですが當時姉は既に嫁入つて居ましたし私も十四の時から紀州橋本の判屋に奉公して居ましたから誰も父母が亡くなつた爲めに極端に周章る樣な事はありませんでした。廿一歳の時に判屋の方は全部卒業しました。判屋と云ふて私のは護謨判です。兵隊の方は筋肉薄弱と云ふ名で免除になりました。判屋の方が全部卒業になりましたから早速高野口に護謨判屋の店を出して見ました。ボツ▼/\▼註文もありましたから三年程其處に居て其れから和歌山市に出ました。月給で二三軒廻つて歩きました。

食つての外に十圓位宛も貰つて居ましたらう。其處で相場の方を覺えましてね。定期をやつたのです。何素人も玄人もあるものですか上ると思へば買へばよし下ると思へば離す迄の策略です。 通【かよひ】で一日一日負け勝ちを明白にして呉れますから十五日なら十五日して決算の時に取る可き金があれば取り支拂ふ可き金があれば支拂ます。見せ金で品物を買ふので商賣が大きく從つて損しても利益を得ても兩方大きいと云ふ譯合です。私でも 元【もと】の十倍二十倍の金を得た事は何回もあります。儲けのあつた時は大いにやりました。つまり身代限りになつて誰にも合はす顏が無いので大阪に來たのです。

廿七歳の十二月下宿屋(普通に云ふ)に居て朝日新聞社の人夫に應じ手傳をしました三軒家の梅屋と云ふ勞働下宿に居た事もあります。下宿屋での費用は五十五錢から九十錢位迄でせう。此處には大正八年八月十日から厄介になつてます。市の京橋職業紹介所を通じて天滿邊の鮟鱇を働いて居た事もあります。現在の親方の名は 淡熊【たんくま】と申ます。よい人です。

 勞働の方で充分に、資金を蓄へたいと思ひます。一時は幾分貯金が出來ましたけれども身體の慰安と云ふ意味で皆使ひ盡しました。一時定期で儲けた當時の惡い癖で皆使つてしまひます。

 健康です。新聞も雜誌も讀みません。何も趣味を持つて居ません。時々活動寫眞を見に行きます。信仰なんて念頭にありません。酒も煙草も大好きです。甘いものもよい。勞働組合等云ふ事は考へた事も何もありません。養老保險には入つて居た事がありますけれど四十圓程かけて止めました。五十歳になれば千圓取りと云ふ口でしたが面倒故止めてしまつたのです。 (七月六日)


七十九番 大工 廿二歳
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 今は北濱の風月堂を建てに行つて居ます。鐵筋コンクリートの建物です。コークリートを塗るについて只ではつかないから板を張つて置いて其上に塗ります。其板を張つて居るのです儲けはありません。二圓六十錢だけです。此樣な建物は駄目で町に出て働けば三圓以上にはなります。

 故郷は出雲の平田町今市と松江の中間頃です。人口は二千五六百人ありませう。父は五十四母は四十七で兩方とも達者です。兄妹は五人私が長男で女は妹一人です。學校は尋常を卒業したのみです。十四の春近郷の出東村と云ふに大工の見習に行きました。一人前になつたのは廿の年で親方も先づよからうと云ふ具合で別に證書のある譯でも何でもありません。西洋造りの方は出來ませんが普通の家なら結構造ります。大工も仲々艱難な商賣でして同じ家にしても立派な家でもないのに形状其ものゝ爲めに餘程に腕のきいた大工でなければ造り得ない樣な家もあります。

今年三月一日一人で大阪に出て來ました。大阪は初めてでしたから何處に宿つたかも忘れてしまひました。三日程は行き當りに宿つて歩いたもので一日一圓五十錢位の宿屋賃であつたと思ひます。梅田の職業紹介所で求職しましたら毎日新聞社で例の壁塗りについての板を張る仕事があると云ふので行つて見ました穴井と云ふ親方の下に使はれたのですが一定の宿が無いでは困るね。市役所の宿泊所があるから其處に行つて見る氣はないかと申しますから來ました。毎日新聞社の方は二圓三十錢で誰にきいても割に合はない仕事だと云ふ事が分りましたので風月堂の方に代りました。大林組が請負つて居ます。飯野と云ふ親方で大林の下請です。

 新聞も雜誌も讀みません。繪は好いて居ます。其外は何も趣味がありません。將來は仕事を上手になつて棟梁になりたいと云ふ考へです。病氣は何もした事がありませんが此四五日腰が痛いので醫者に見て貰ひましたら何だとも云はず藥だけは飮み藥を呉れました。私も何病氣か聞分やうと思ふたのですけれども默つて向ふの方に行つてしまひましたから妙な奴だなと思ふて歸つて來ました。貯金は五十八圓あります。 (七月六日)


八十番 鮟鱇 廿三歳
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 天滿橋の市立職業紹介所から出て鮟鱇をして居ます。毎朝三百人位集ります。殘る者は二三十人で之れも仕事が無い爲めに殘る者も居ませうけれど實は自分で其仕事は嫌ひ此仕事が好きと云ふて勝手を云ふ者が殘るで何の仕事のでもすると云ふ者は皆賣れます。

 故郷は兵庫縣西の宮で父は仲仕です。父母は五十一の四十七で共に達者です。私は二男妹二人で四人兄弟です。兄は今年廿五で父と共同して仲仕をして居ます。學校は尋常三年迄行つて自分の勝手で止めました。

 十四の年に暫く同じ西の宮の左官屋で奉公しました。僅か四箇月程しか居ませんでしたから何もなりません。其後は家に居て父の手傳をして居ました。徴兵檢査の方は尺が足らぬで第二乙種でした。廿二歳の春大阪に來ました。市營共同宿泊所のある事は前々からよく知つて居ましたから來るとから此處に泊めて戴いて居ます。

 何と云ふて此仕事をするより外に仕方がありません。商賣等する氣はありません。身體は丈夫です。新聞は讀みません。小説本を讀む事があります。誰が偉いと云ふて豪傑の大小を論ずる樣には讀んで居ません。唄も何も出來ません。相撲も嫌ひです。碁將棊は知りません。活動も好きではありません。何も樂しみはありません。先づ姫買です。
 煙草は喫ひます。酒は飮みません。喰べ物は飯が一等好きです。 (七月六日)