二十一番 造船所職工 十九歳
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 東京市神田區連雀町に生れたのですが私が物覺えのつく頃は牛込廿軒町に居ました。十年程前大阪に引越して父は九條署の代書をして居ましたし、母は産婆をしてゐました。兄弟は四人で私が一番大きく次が妹其次が弟最後が女です。

 父は七年前手から惡い黴菌が入つて間も無くなくなりました。母は身に藝があるのでそれから引續き産婆をして私共を養つてゐました。宅は築港六條通りで色々同情して呉れる者もあり、手傳ふ人もあつたので母のまめな間は何の苦勞もありませんでしたが一昨年母が卅六の時身體が漸時痩せて亡くなりました。母の病中は國から手傳人もありましたし看護に不行屆きはありませんでした。當時私は津久土小學校を出て(祖父の家より通學)大阪で本田通りの木型職場に見習をしてゐました。母の死目にはよう遇ひませんでした。それで私共四人は四散して私は大阪で自活の道を立てる事となり、姉は祖父さんの處に引きとられ、其次ぎの男の兒はシンガポールの伯父さんの處に、最後が北海道の伯父さんに引きとられました。

 私は其後友達で藤永田に行つてゐるものゝ紹介で其處に働いてゐます。勞銀は七十錢、七十五錢、一圓となつて來て居ます。身體は健康です。新聞は毎日、其外何でも。本は機械の本を見る事にしてゐます。小説は讀みません。音樂が好きでハモニカをふきます。洋樂を聽く事が好きです。一番得意は繪で人物でも風景でも畫きますが水彩で寫生が最も得意です。運動は機械體操等で大振りはゆきますが海老上りはゆきません。柔道も少し練習しました。相撲も好きで大人にも負けません。
 信仰は何もありません。將來は木型工として成功したいと思ふて居ります。酒も煙草も戴きません。菓子が嗜きです。 (五月十六日)


二十二番 鐵工所鑄物工 廿一歳
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 京都府加佐郡餘内村に生れました。八十戸程の小さな村ですが舞鶴に近く五穀野菜を作つて其方に供給するので皆裕福に暮して居ます。

 家は代々百姓をしてゐましたが、四歳の時父に死なれて母には一方ならぬ厄介になりました。兄弟は兄と二人です。母も私が十四の年に病氣で亡くなり、別に親類も何もない私共は天にも地にも只二人です。十六歳から二箇年舞鶴工廠に働いて蒸氣機械の仕上工をしてゐました。勤務時間は今頃ならば朝七時から夕は五時頃迄です。一里少しある道を毎日可なり骨でした。女工も少しは居ります。

大阪には十八才の八月身を立てやうと思ふて一人で出て來ました。西も東も分からないので困りました。最初の宿は天滿橋の方の宿屋でした。近所の口入屋から紹介して貰つてブリキ印刷屋に半年程居ました。罐詰の罐等にするものです。普通の印刷と違つてゐるのは何回も印刷せねばならぬ點です。翌年三月仕樣もない考へを起してある料理屋の運び方になりました。之は知人の紹介でなつたのですが給料もあまりよくなし、喰べ物も惡く全くつまりませんでした。一年程して之も知人の紹介で十三の大阪電球曾社に入りました。此處は電球の附屬品一切を造つてゐる會社ですが賃銀がやはり安くてお話しになりませんから昨年九月三星汽船會社に入つて製罐の仕上げをしてゐました。之は間もなく閉鎖されましたので、此處の紹介で久保田鐵工所に入つた次第です。
賃銀は最初の印刷屋では喰べて宿舍を貰ふて月に一圓宛の小使でした。料理屋では月に三圓宛の小使、大阪電球では常傭で日に一圓、三星汽船では二圓二十錢の常傭で受取りをする時は二圓六七十錢にも其上にもなりました。解散の時は一文の手當もありませんでしたが、誰も不服を云ふ樣む人は居ませんでした。現在では二圓の常傭です。口入屋は口が定まれば八十錢と云ふ定めでしたが今はどうですか存じません。

 病氣は脚氣の氣があつて毎年夏になると起ります。新聞は讀みません。書物は修養の本を讀みます。此三月バイオリンを買つて奏き初めましたがよくはなりません。運動は嫌です。芝居は新舊共に好きです。將來とも仕上げ工で遣り遂げねばと思ふてゐます。家の宗教は禪宗と云ふ事になつて居ますが宗教の事は少しも分りません。酒は三合位ゆけます。煙草は嫌ひですが菓子が嗜きです。

 資本家が横暴だと思ひます。從つて勞働運動には極めて贊成なのですが未だ何處の勞働組合にも屬しません。勞働運動と云ふ事は要するに働き人の爲めになる事をする事だらうと思ふてゐます。 (五月二十三日)


二十三番 仲仕 廿五歳
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 俗に鮟鱇と云ふ築港の沖仲仕です。鮟鱇の賃銀は如何にして支沸はるゝかの問題ですか。先づ天氣のよい船の出入りする日に何時でも勞働仲買人の來る邊をうろうろうろついて居ると仲買人がよい仕事があつたから來いと云ふて私共を引き立てます。我々は之に附いて行きます。すると仲買人等が既に請負濟の仕事につき船の方から仕拂はる可き賃銀の半額を我々に支拂ふ豫算で我々を勤務に着かせるのです仕事がすんで仲買人が船から報酬を受け取つた上は豫算の通り半分を懷に入れ其他を標準賃銀を參照しながら各人の働きに應じて分配します。多い少ないを云ふ事はなりません。云つてもよいけれど云へば撲られるだけです。

私共が仲買をする樣な事は出來ません。之には多少の資本も必要ですし又彼等の間には不文の法律があつて斷りなしに其樣な仕事を始ると仲間からひどくいぢめられます。それでは賃銀は仲買人の一方的意志によつて決定せられ我々は無條件で之に服從して居るのかと云ふとそれはそうですが仲買人間にも競爭がありますし一回惡い事をした仲買人には誰もゆく者が無くなつて自分で自分の身を亡ぼす事になりますから自然相當な賃銀は拂ひます。

 故郷は石川縣川北郡高松村です。海岸の岩山の間に荒れ果てた村で名産も産物もありません。昔未だ素麺が機械で作られなかつた時分に高松の手打素麺は其附近で有名なものでしたが今では機械素麺に負け昔の名殘りを止めてゐるのみです。二里も奧に入れば米が澤山取れますから私の村にも集散します。それで私の家は米と肥料の問屋をしてゐます。

 久しく國に歸りませんから分りませんが▼▼は文久三年生れの筈です。母は五十位と思ひます。私が中學校の三年生迄は極めて順調にゆきました。三年生の十八歳の時に先輩で其家が急に船成金になつた者が居て私共を連れて盛に飮んだり食つたりさせた者がありましたが私は其者と遊んだ爲め、品行が惡いと云ふ廉で退學を命ぜられました。私は退校處分に遇ふて故郷に歸る面目もなし中學校の帽子に袴の儘僅かの錢を持つて一直線に支那にゆく事に定めました。
船中で撫順の炭鍍に勤めてゐる人と知り合ひになりました。大連上陸後は暫く其處で遊び後撫順に其人を尋ねて炭鑛に現場の監督と云ふ格で雇つて貰ひました。一箇年程して青島に渡り、色々な事をして山東、直隸、河南と巡り大正九年十二月大阪に戻りました。知人の家に二箇月程居ましたが、そのうち紹介する者があつたので淡路町の大木合名曾社に事務員となりました。何分支那浪人の私には型に嵌つた仕事は出來ませんので二箇月程して、勞働界に身を投ずる氣になりました。三軒屋の勞働下宿屋に入つて方々の手傳をしたのですが、この勞働下宿と云ふのは有料の私設職業紹介所と下宿屋とを兼ねたもので紹介料は一日の勞銀の百分の十から、百分の十五位を取り、宿料としては當時七十五錢宛を取つてゐまた、あまり貪るのに腹を立てゝ去人數人をつれて此處に引越して來たのが昨年三月、それから鮟鱇をしてゐます。其間名古屋に行つて病氣にになつたりした事もありましたが履歴は先其樣なものです。

 病氣は何もありません。新聞は朝日新聞を讀みますが、本は何も讀みません。音樂は嫌ひです。運動では相撲が好きで學生時代には大關の方でした。碁將棊も少しはやります。信仰は何もありません。思想は危險思想の方です。希望とては我々は全部が幸福な生活を送る樣になる事を望みます。煙草は好き酒と女は最も好きです。本當だから仕方がありません。喰べ物は澤山喰べる事が樂しみです。

 現代の社會に對しては不平が澤山ありますが一々申しあげる事も出來ません。此間友人が東京に行つて大衆運動と云ふ週刊新聞を出して初刊が昨日送つて來ました。私も今仲仕の勞働組合を作つて週刊新聞でも出さうと計劃中の處です。定▼▼の作成等につき分からぬ點もあり困つてゐます。此頃暇のある時には名士を訪問して意見を聞いてゐます。巡査等にも思想が變化して來たものが多い樣に思ひます。家族制度ですか其も惡くはないが私は自分の子供と人の子供とを區別する必要はないと思ひます。尊敬する人は誰もありません。 (五月二十三日)


二十四番 棉花曾社荷造 十九歳
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 和歌山縣西牟婁郡三栖村、二百五十戸程の村で何等特色のない平凡な村です。家は百姓をしてゐます父は私が十五の年になくなつて母と兄で後をやつて來たのです。兄弟は七人私は三男で皆男ばかりです。

 學校は尋常の六年を卒業しました。大阪には兄を頼つて何か勉強でもする樣な考へで八年十月に來たのですが、兄は不在で兄の宿に止る事もならず其後久しく兄が歸らないので心ならずも勞働界に身を置かねばならぬ樣になりました。最初は口入屋の紹介で原田造船所に通つてゐましたが昨年七月解散となつて鶴町の今濱鐵工所と云ふのに通ひました之は此處の職業紹介所の御厄介になつてです。次きに新田造船所に通ひましたが勤めて三日目に眼に見えぬ樣な細い鐵片の錆屑が右足の甲に入りました。之を拔いて働いてゐましたが、一週間程したら足が段々腫れて來て働けませんので、曾社に申出ると鐵粉の侵入から起つた病と云ふ事で會社の方から市岡の宮崎病院に入れられました。二月程して全快はしましたが御覽の通り足の甲の二箇所から此樣に澤山肉をとられてしまひ、足の甲の半分は今でも麻痺してゐます。鐵工會社では此病氣に掛るものが多く、所謂職業病です。眼に入る事もありますが之は比較的簡單で洗へばよくなると云ふ話です。今は日本棉花の築港倉庫に通つて居ます。

 身體は丈夫で仕事には勢を出してゐますが現在の仕事は嫌ひです。新聞は朝日新聞を讀みます。小説等も好いてゐます。音樂にも趣味があり琵琶を彈きます。美術には一向興味を持ちません。芝居は新派が好き、運動ではテニスをやります。信心はありません。一時非常に悲觀した事がありますが、將來は是非商人になりたい考へです。煙草は喫ひません。酒は少し飮みます。喰物は何でも好きです。世の中の事は何も分りません。 (五月二十三日)


二十五番 土工 廿七歳
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 鶴町尋常小學校を建てるについて働いてゐます。誰にも紹介して貰ひません。私一人でゆきました。親分と云ふて細野濱吉さんの請負仕事でせうが私の親方は其下請をしてゐる人で賃銀の如きも私達四人分として十二圓渡されたものを私には二圓他の三人には一圓五十錢宛呉れたのみですから大部分は親方の手に入る事となります。
郷里は熊本縣菊地郡隅度上町に生れました。父は四十九、母は四十七で健在です。家業としては材木問屋をやつて居ます。學校は尋常小學校を卒業したばかりです。私が出郷した理由は私が十七の時、大阪の伯父の家の祖父さんが亡くなつて其四十九日に參ずる爲め父の代理に出て參りました。

ところが大阪に來てから三日程して大變な災難に遇ひました。と云ふのは伯父につれられて方々見物をしましたが、一日一人で難波邊を歩いてゐると後から慣れ/\しく呼び掛ける者があるので振り向くと、貴君は何處に行かれる方か何處の方かと云ふ樣な調子で話合ふ事となり、近所の料理屋でゆつくりして語ふ内實は自分は今新しく仕事を計劃中の處である。九州山中のある炭鑛に鑛夫長屋が澤山あつて色々と新しい品物を欲してゐる。其處に品物を供給するとなれば恐ろしい利益になるから共同で仕事を始めやうではないか。資金も大體は出來てゐるが少し足らない。百五十圓もあれば仕事に取り掛る事が出來やう。都合によつては君に向ふの炭鑛に行つて貰ひたいと云ふ事になり百五十圓は持ち合はせないけれど五十圓あるから然る可くと云ふと愈話が纏つたら君に通知する故と申して處も書きつけて分れた事でした。其後何の音沙汰も無かつたので欺かれた事が明白になりました。後で知れた事ですが其人は九州から人を買ひに來てゐた人ださうで少々惡るさをして見たのでせう。何分私は其時あまりに立派な風をして居たので金がある人と思つたらしいのです。

 金は取られる、遊んでみても仕方がありませんから、或船の汽罐長をしてゐる柳井と云ふ人の紹介で汽車製造株式曾社に四十錢の賃銀で入りました。暫くして高雄と云ふ私共の係りの人に御相談して電工になりたいから其方に代らして貰ひたい旨を申しますと同じ會社の起重機運轉手見習にして呉れました以後七箇年其起重機に親んで一人で運轉を繼續して居ました。

其間別に變つた事とてありませんでしたが、一日電線が切斷して運轉が不可能になりましたから切斷した部分に應急手當をする爲め長い線を口に噛へて件の故障箇所に向つて一直線に立てた梯子を登つて行きましたら、其途中二本の高壓線が裸で通つて居るのに其針金が觸れましたから忽に感電し、私は口を燒いて人事不省になりました。幸命のみは此樣に助かりました。其譯は二本の高壓線に他の線が觸れゝば一方の細い線が燒けて切線する事になりますので私の口に囑へた針金が感電すると共に切斷して私の身に電流が通じなくなったのです。其際手を放せば私は下に落ちて死ぬのでしたが高壓線に觸れる一瞬前それに氣がついて一生懸命に梯子に捕りつきましたから無意識になつてからも梯子についてゐたのです。人が登つて來て下して貰ひ、三時間もしたら元通りになりました。

 七年目の二月富山の伐木製紙株式會社發電所の方から人を買ふ者が來ましたので月六十圓の約束でゆきました。其處には僅に二箇月居たのみです。其間に起つた出來事とては、凡そ電氣屋に取つて恐ろしいのは、發電所のトランスが泣かぬ時が一等なのです。之は電壓の降下した時に起る現象でトランスが泣かぬ樣になればトランスの爆發となつて半里四方を粉微塵にする樣な事となり、さもなくば機械に故障を生じて方々に火を發する樣な事となります。一日發電所の電壓を計る電燈をじつと見守つてゐましたら急に著しい降下を見ましたのでモー駄目だと呼ばりますと同時にトランスの音がバツタリ止んだのです。同じ樣に働いてる者共の顏を見たら死人よりも青ざめて居ました。オイルスイツチを切れ誰れかゞ叫ぶと同時にオイルスイツチは自然に燒け落ちて電流はトランスの方には通はなくなりました。窓を叩き破つて戸外に出て見るとアレスタの間に一丈餘の火がボー/\と燃えてゐます。アレスタと云ふのは六吋離した十一の二線が避電の裝置がしてあります。異常の時には二線の間が焔を擧げて燃える仕掛で之は何の事もないのです。焔の猛勢に驚きつゝ發電所の方に故障を報ずる爲電話室に入らうとすると既に火災を起してゐるので入る事が出來ず、一人が近所の交番に走りこんで電話を借りる、他が電話室から出來た火事を消しに掛ると云ふ活劇で實に恐ろしい事でした。

 職業病の事ですか、此職業にある者は危險と云ふ觀念が頭から離れないので誰も氣狂ひの氣味があり實は私等も汽車會社の起重機を運轉してゐる中腦を惡くして退職させられたのでした。退職給は九十圓餘でした。電氣屋は皆神經衰弱で肥えた者は居ません。

 私の性質は誰にも負けたくないと云ふ性質で一生懸命になつて勉強します。神田錦町の電氣學校郊外生としてもう一度試驗を受ければ卒業と云ふ事になつてゐます。電氣の實際方面ならばモーターの製造のみは圖を引かねばならぬ爲め出來ませが他は一切の事が出來ます。一度定めた處は善くても惡くとも勤め貫いて成し遂げ樣と云ふ氣で之はよい性質と思ひますけれど多少の山氣もあつて最初大阪に來た當時欺かれた等は常に私が人の知らぬ間に一儲けしやうと心掛けてゐた爲めうまく掛つたのです。

 新聞は毎日新聞雜誌では前記電氣の講義録日曜畫報等を讀んでゐます。運動では機械體操が好きで大車輪が得意で六七回迄は廻轉出來ます逆車輪大和魂等は出來ません。芝居活動等は嫌ひです。

 信心は何もありません。將來は再び電氣屋となつて働きます。現在は伏木から來たのみで仕事もありませんから止むを得ず土方の手傳をしてゐるのみです。酒も煙草も飮みません。喰べ物では野菜類を嗜きです。

 勞働者をもつと優遇する社會にならねばと思ひます。親方が三十錢も四十錢も頭をはるのはよくない事と思ひます。尤も親方は道具を備へねばならぬと云ふ事もありますけれど程度の問題です。勞働運動等については未だ深く研究してゐません。崇拜するものは以前私が汽車會社に通つて居た時の下宿屋の主人此人は船乘りをして女將が下宿をしてゐるのですが、主人はよく物の分つた人で私はあの樣に事理が分つた人を見た事がありません。私等も隨分厄介になりました。 (五月二十五日)


二十六番 手傳 卅七歳
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 郷里は廣島縣御調郡向島西村。家は代々果物商をしてゐました。西村は二千戸以上もあるかなり大きな村です。物産とては梨、柑橘類、芋、野菜等です。其等の産物を對岸の尾の道を通じて方々に出すのです。父はまだ六十九母は六十六で丈夫です。兄弟は三人、兄は父の後を取つてゐますし末の妹は他家に嫁入つてゐます。

 私は廿六の年に妻を迎へて米を商つて居ましたが卅四の時に子供を殘して妻に死なれ、其後一人で商賣をしてゐました。昨年米價の大暴落で破産してしまひました。何分米は僅か三箇月の間に六十圓のものが三十圓と云ふ事になつたのですから相場の方に手を出したと云ふ樣な事は全然ありませんでしたけれども破産したのです。

 借金で首が廻らず郷里に居るのもつらくなりましたから昨年九月出郷して大阪に參りました。最初勞働下宿に落つきましたが其處の親爺は極めて慘酷な者で前金を借れば必ず利息をとる。辨當箱等も破れた小さな辨當箱を途方もない高價で貸し、他所から買ふて戻ると大きいと云ふては苦情を云ふし、紹介料は一割とり、しかも正月の三日のみは家の若い者でなければ居る事が出來ないと云ふて斷ると云ふ始末。正月は家の若い者には一樣の絆纏を着せて控えさせ酒肴で景氣よく遣ると云ふ仕掛けですけれども其若い者も大分苦情を云ふて居りました。お正月の三日居る事が出來ないと云はれたので其時大分一所に其勞働下宿を出ました。勞働下宿は困つたものです。

 新聞は朝日で本は何も讀みません。病氣はありません。信心は眞言宗です。

 現在は此樣に零落してゐますが是非一度は成功せねばと思ふてゐます。私の故郷に一千萬圓の船成金濱根岸太郎と云ふのがあります。十四五歳の時に死を決して海に入らうと尾の道の棧橋の邊を歩いてゐると棧橋の下に乞食が夫婦で仲よく暮らしてゐたと云ふ事で其れを見て一文無しでも平和に人生を樂しんでる者もあるから死ぬのは早いと思ふてそれから志を立て北海道に行つて働き大戰の頃船を買ふたのが大に當つて今日の富を致したものと云ふ事です。私も此話しに思ひ比べて一つ遣らねばならぬと考へてゐます。將來は何か飮食物を遣ります。初めは現金でとれるものから掛らばなりません。

 煙草は好き酒は五勺位飮みます。癖とては慾張りな事で惡いかよいか知れません。陛下の徳を有難いと思ふだけで別に尊敬する人はありません。 (五月二十五日)


二十七番 手傳 卅一歳
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 石川縣石川郡相川新村に生れました。父も母も六十は越してゐる筈です。十年もそれ以上も手紙を出しませんから故郷がどの樣に變つてゐるか分りません。兄弟は三人で私は長男です。あまり金を使ふので家を追ひ出されたのですが刑は私から出た事になつてゐます。何しろ父は近郷八箇村で一番力が強いと云はれるもので二人前も三人前も働きますし私は此樣に身體が弱いので同じ家に居る事がつらいのです。加ふるに私は學校が嫌ひで尋常もゆきませんから何も分からず、遊んだりしまして國を出なければならぬ事になつてしまひました。

 廿一歳の時徴兵檢査がすんでから家出して大阪に來ました。大阪に來てからは福島紡績日本紡績敷津工場と紡績工場のみを廻つて歩き鮟鱇には昨年六月からなりました。大正橋の高橋の寄場にばかり行つてゐました。今は鶴町の市營住宅の仕事をしてゐますが其仕事も二三日で無くなります。讀書は致しません。活動寫眞が好きです。宗教は眞宗と云ふ事になつてゐます將來とも土方をする考へです。煙草は好きです。酒は好みません。六ケ敷い事は何も分りません。 (五月二十五日)


二十八番 仲仕 廿八歳
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 長野縣南安曇郡三田村に生れました。父は六十五、母は五十八歳になります。兄弟は二人私は次男で兄が家を取つて居ます。村は農村で養蠶も盛んです。今では副業である可き養蠶が反つて本業の樣な有樣で大抵の家は春蠶のみならず夏秋蠶も致します。其他果物が▼▼産で白葡萄、梨等、立派なものが出來ます。山葵は日本一の稱があります。鳥では熊鷹と云ふのが居て捕れゝば高く賣れます。

 高等科の四年を卒業して家業の穀物賣買を手傳つて居ましたが、少し負債が嵩まつて故郷には居られなくなりましたから昨年五月家出して木曾御料林の伐り出しに投じました。樹木の種類は檜櫻縱等ですが七箇所の谷々で多少の違ひがあります。木曾の木流しと云ふて其運搬の方法は巧妙を極めたものです先づ山上にあつては木の枝を拂つて皮つきの木材となし急な傾斜を滑らし谷の處々に作つた梁の受けに受け乍ら木があまり痛まぬ樣にして木流しの出來る谷の岸迄引き出し、其處で皮を剥ぎ木の後先を削つて木が河を流れる際岩に當つても割れない樣に拵らへます。其儘に置いて二年。木材が充分乾燥した頃十月十一月の侯彼岸も過ぎて雨がいくら降らうが河水が出なくなつた頃澤山の人夫で運搬する木材自身で河水を調節しつゝ何十里とあらう距離を流して下るのです。給料は働きに依つて皆違ひます。私は一圓六十錢程でした。身體ばかりは大きいけれど働けなかつたから仕方ありません。之は本當の熟練ものでして上手な人になれば二圓位は貰ひます。

 四筒月して御料局の仕事が無くなつたので以前一二度堂島に遊びに來た事もあり、見物旁々大阪に來ました。來てから二箇月千島町の勞働下宿に居ました。此の勞働下宿の利益を取る事ばかりは考へても事は殆あきれる程で皆泣かされました。それでも金が無ければ普通の下宿に居る譯にもゆかず勞働下宿に居らねばならぬ事になります。其内、市營の共同宿泊所が安く宿めて下さると云ふ事を聞いてこちらに來ました。一時大正橋に出て鮟鱇をして居た事もありました。鮟鱇は三圓以下の日は滅多にありません。

 新聞は毎日新聞を讀みます。音樂は自分で歌ふ事はあまり上手でもないが聽くのは何でも好きです。相撲は此樣に大きな身體をしてゐるのに非常に弱いので嫌ひです。
 信仰は何もありません。煙草は好きです。酒は飮みません漬物で御飯が一等よいのです。
 資本家が金があると云ふてあまり贅澤するのはよくありません。資本家と勞働者とお互に助け合はね▼▼いけませんね。 (五月二十五日)


二十九番 坑夫 廿五歳
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 香川縣高松市に生れました。家は果物等を商つてゐました。十四の年に家出しましたから生家の財産がいくらあらうかと果物を商ふに何をしてゐたか其樣な事は一切分りません。學校は新制の高等二年を卒業しました。元來私は我儘者で自分の嫌ひな事は何も出來ない性質なのですが私の通つてゐた香川縣立師範學校附屬小學校は尋常六年頃から英語を教へます。處が此英語が大嫌ひで初めの中は我慢して聞いても居ましたが堪へきれなくなつて英語の時間は出ない事とし辨當は山に行つて喰べて歸りました。十四の春學校を出ますと父が是非勉強して上の學校に行かねばならぬと申しますから上の學校になると自分の嫌ひな英語をやらされるのが分つてゐまますので金を盜んで生野に奔りました。

 最初は子供故何も出來ないで電車のポイントを遣らされてゐましたが十六の年から親分とつて一人前の鑛夫となりました。それから流れ歩いて九州、四國、中國、近畿の鑛山と云ふ鑛山は大抵廻りました其數ですか百以上も歩いたらうと思ひます。鑛山で中國筋にしても九州にしても皆さんの想像もつかぬ程澤山あります。有名なものは少いけれど其數は澤山なものです。私の歩いたものを順序にあげようとですかそれはあまり多いのでお話しゝきれません。生野、別子、帶江、備用、釜脇、高油、東山、洞川耳津、槙其他九州の炭鑛は皆歩きました。北海道の方にはゆきません。
十七の時或山で女をつれました。女は十四かでした。子供同志が戲れてゐた樣なものです。今も一所にゐます。廿一の時子が出來て今は五つになり次ぎのは二つで兩方共男です。子は生れても屆けてないから無籍でせう。女は内縁です。此處に女の戸籍の抄本と私のもありますが如何な如何な手續をして籍を入れるのでせうか。徴兵の事では何回も呼ばれて裁判になつたりしました。昨年入隊と云ふ事でしたが妻が入隊の少し前に産をして産後の肥立ちが惡く私が居なければ死んでしまふ故見棄られもせず、入營は止めて女の世話をしたのです。罰金四十圓を出すか四十日座るかと云ふ問題ですが四十日座ると魂も何も拔けてしまふと云ふ話しですから其れよりは四十圓程納めようと思ふて心掛けてゐます。

 炭鑛の話ですか朝は四時頃から仕事にとり掛ります。プーと云ふ汽笛を合圖に二丁擔いで四十度程の傾斜を保安燈の光りを頼りに三千尺四千尺とトコトコ歩いて下ると云ふのです。蒸氣其他のパイプが通つてゐるので下れば下る程暑くなります。男も女も何も着ません。愈仕事に掛ると炭層の上部を三疊敷き程も掘り込んで置いて最後に最下部に深く穴を突ちダイナマイトを仕掛ます火を點じて附近の者にも豫め注意して置き遠く逃げます。岩陰等に匿れて居るとドンと破烈して砂岩等が非常な勢いで身邊を飛び去るのを見ます。岩陰から出て行つて炭と石とを分け坑口に運び出すと云ふ順序です。

女は力が無いから主として男の手傳ひをしますが給料のみは男と同額と云ふ定めで女も同じに何處の炭鑛でも日に五圓以上十圓迄取つてゐるのです。之は男の爲めで女を高い給料で奬勵して入坑させないと男も働かなくなります爲一種の政策です。全く地下の事は分りませんよ。女はキャ/\と云ふて遊んで居ます。
時々役人等が規定通り行つてゐるかどうかを檢査する爲來ますが會社側では無理無體に料理屋に擔ぎ込んで酒と女とで二三日閉じ込めて置き、金を澤山呉れて追ひ歸すのです。如何樣な事が起つても外に知れる樣な事はありません。坑道等は不完全極まるもので規定通の工事はしてなし、人が死ぬ樣な事も至つて多い樣ですが皆適當に處置します。我々は暴發が恐ろしいので儲つた金で賭博をし乍ら出來るだけ入坑せぬ工夫をします。全く賭博は盛でもあり實際行り出すと興味のある遊戲です。儲つた時には女を買ふし負ければ面白くないから喧嘩をします。

爆發の事ですかまあ早く云へば坑内の瓦斯に火がついて一度にボンと爆發するのです。一度坑口に爆發して出たのが坑口から爆發し返して更に坑内にポンと打ち返して來ます。人は其間に地面に密着して打ち込しの時受ける難を逃れようとします。瓦斯は主として空氣より輕く爆發の時も上層に於てすると云ふ事ですがそれでも坑道が破壞せられますし悉く死ぬると見て差しつかへありません。最初のボンから次ぎのポン迄時間が大分ありますが其間に安全地帶迄逃げる樣な事は出來ません。瓦斯は上層の凹んだ處には大抵あります。保安燈を上の方に持ちあげると瓦斯で保安燈の火が大きくなります。其時周章てゝ消せば暴發の恐れがあります。靜かに心を小さく小さくして消す必要のある時は消します。其樣な事で炭鑛は五圓以上十圓迄の收入ですが儲けた金は身につかずに遊んでゐるのです。

 身體は甲種合格で一點の病もありません。職業は何に就くか兵隊から歸つて來てからでなければ分かりません。勿論一時的ですが二日程前から鶴町三丁目で市役所の土管を埋めてゐます。給料は二圓位です。

 新聞は何でも讀みます。芝居活動は子供には見せて遣り度いと思ふて居ます。相撲はやらうかと云ふ調子でとりますが強い方でもありません。賭け勝負は何でも好きです。煙草は嗜きです酒も三合位飮みます。御馳在も嗜きですが金が無くて喰べられません。 (五月二十六日)


三十番 仲仕 四十歳
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 名古屋市熱田神宮前です。父も母も私が幼少の折に亡くなりました。學校は尋常二年迄ゆきましたね十六歳の時名古屋セメント株式會社に入りまして去年七月故郷を出で其處で働いてゐました。
セメント製造につきましては日本のセメントが古いか私が古いかと云ふ位ですから何でも知つてゐますね。尤も新式セメントの方は途中の乾燥等スツクリぬきでしますから仕事が全然異ひます故、間に合ひません。私が名古屋セメントを止めたのも一つは此樣にして私共が要らなくなつたので居れば居られぬ事もありませんでしたが出たのです。仕事は石灰と粘土を混合して之を錬り再乾燥して燒く迄の事は何でもしました。
病氣ですか。セメント製造についての病氣ですか舊式の製造法だと灰塵が非常に多く立ちますし之を燒く時に非常に有毒な瓦斯を發しますので眼呼吸器等の疾病も多く、瓦斯を呼吸すれば自然に知らぬ間に死んでしまふ樣な事も珍らしくないのです。今では舊式を用ひてゐる處が少ないので職業病と云ふ程のものもない樣です。但しセメントそれ自身は舊式によつて製造したものと新式の製造法によつて製造したものと比較すると耐久力が半分位のものです。出來あがりの品について檢査すれば何れの方法で製造したものか分りませんけれども途中手をぬいてゐるので其樣な違ひが出來るでせう。

 去年七月其樣な都合で名古屋セメントの方は具合が惡くなりましたから大阪の方に來たなら何が面白い職業があらうと出て來たのです。尼ク崎セメントに三月居ました。やはり練り方です。大阪には昨年十二月來ました。こちらに安く宿めて戴けると聞いて來るとからズツト御厄介になつてゐます。一時佐賀藤の下で市役所の築港住宅の方の御手傳をしてゐました。今は大正橋の鮟鱇です。日に一圓五十錢位になります。力はありませんが身體は丈夫な方です。名古屋セメントでは休んだ事がありません。現在の職業は結構な職だとは思ひません。少し金を儲けたならば故郷に歸つて下宿屋をしやうと思つてゐます。

 讀み書きは出來ません。信心はありませんが家の宗教は日蓮宗と云ふ事になつてゐます。煙草嗜きで酒も少しは欲みます。御馳走は何でも喰べます。而して貯金は只今六十圓程あります。 (五月二十六日)


三十一番 デパートメントストアー雜役 四十一歳
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 富山縣上新川奧田村で生れました。何處から云ふても特色のない村です。農業旁養蠶もしてゐます。藥草等は植ゑて居ません。富山で作る藥の原料は皆滿州朝鮮の方から來ます。内地の草では有難味が少ないのかも知れません。

 父は未だ私の幼かった時卅八歳で亡くなりました。母は只今六十九歳で生きてゐます。兄弟は二人で私は二男です。學校は尋常を卒業したのみです。胃病で弱かつたので其上學校に行く事は出來ませんでした。十六歳の時主人を持つて富山迄毎日通ひました。主人は藥屋で私は丸藥を丸めたり期節には賣藥で方々出ても歩きました。賣藥業ですか。そんな九層倍と云ふ儲けはありません。皆配置賣藥と云ふて適當な分量宛置いて歩き翌年再び廻つて使用して居る部分についてのみ代金を貰ひ其他は持ち歸つて調合返すのです。置いて歩く藥の種類は此家ではどの藥と云ふ事が家族の顏を一眼見廻せば分ります、
廿二歳の時妻を貰つて富山に出で同じ主人の處に勤めて居ましたが、よくない事情で妻を離縁してしまひました。家内は離縁し行商は止めて東京に出ました。紹介する人があつて或指物問屋に勤めました。三十の年でしたらう。六年程勤めて指物についても一通り眼がきく樣になり買ひ込み等にも間違ひが無くなりましたから主人に相談して品物を續けて貰ふ事とし千葉縣の女を女房に持つて本郷菊坂に店を出しました。二年程して商賣はあまり思はしくなくて居りますと、突然故郷の兄が死んだ報知に接しました。故郷に歸れと云ふ親族の意見でしたから止むを得ず故郷に歸りました。其時女房を連れて歸りたいとも思ひましたが之は親族が聽きませんので妻にも其旨言ひ含めて一人歸る事になりました。兄が死んで後の整理に一年程掛りましたが別に財産のある家でもなし十一歳になる兄の子が家をとると云ふ事で、私は三軒家の從兄を頼つて再び働きに出掛けて來ました。
紹介する人がありましたので三越の雜役をして居ます。月に廿八日働くとして平均五十圓位にはなります。三越の女給ですか、女事務員。あれは假に二十人募集した處に五十人六十人と應募者がありますので其中から顏もよく其他仕事も出來るのを選みます化粧料。そんなものはありません。着物だつて皆自分で着るのです。被等の給料は五十圓位ですが其他に月々賞與の樣なものがあつて六十五圓平均位になつてゐます。

 身體は至つて弱い方で胃病の外に脚氣もあり三十日全體勤める樣な事はありません。新聞は同宿の人が大正日日を取つてゐますから時事新聞を取つてゐます。讀み物では三越に關係したものゝ外藥に關係したものを讀みます。信心は家の宗教が一向宗と云ふ事になつてゐますけれど私は無信心です。現在の仕事には不平もありません。將來は是非故郷に歸つて賣藥の方を遣り度いと思ふてゐます。

 煙草は喫ひません。酒は少々飮みます。喰べ物では年に似ず洋食が好きです。菓子類は何でも嗜きです。性質としては短氣な事で一番惡い事だと思ふてゐます。

 現代の社會組織につき善し惡しを云ふ樣な頭は持ちません。勞働運動等は結構な事とは思ひません。人物とては國で賣藥をして居た時に推田等と云ふ其道に掛けては神の如き人が居ました。何でも分つて居る人で資力も充分あつた人です。此の人には何から何迄御厄介になりました。だが今では誰と云ふて尊敬する人もありません。 (五月二十六日)


三十二番 手傳 五十四歳
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 專賣支局の倉庫に通つてゐます。專賣支局の運搬は中田組が請負つてゐます。私は此中田組の臨時雇なのです。仕事は毎日ある譯ではありません。仕事のある日は電話で云ふて來ます故出てゆく事になつてゐます。女工は三千人も居ませうか煙草は全部作つてゐるのではないでせう。バツトですかあの葉は米國から來ると云ふ話です。

 故郷は宮城縣栗原郡有賀村です。實父は私が十六の時に亡くなりました。實母は私が出郷の當時は達者でゐましたが其後の消息は分りません。養父養母の事も全く分りません。何せ養家を出てから何十年となりますし其間只の一度も音信をした事がない樣な事になつてゐますので故郷の事は少しも分らないのです。私は幼少の時に阿部の家に養子になつて家の娘と許嫁となつてゐました。學校は當時の下等學校と云ふのを卒業しました。云はゞ現今の小學校の事で八年制度のものです。學課は型の樣に、讀み書き算盤を習ふのみでした。讀み方は隨分難解で一級、二級となれば主として漢文を習ふたものです。
先妻は卅一歳の時に亡くなり私は子供を連れて實家に歸らうと思ひましたが養父初め皆んなが當時出戻つて居つた死んだ妻の妹と一つしよになつて居て呉れと云ひますし妹も固い心の女でしたから私も其氣になりました。卅七歳の時伊勢參りして歸つた父が俄に女遊びをする樣になり運動して村會議員になつたり今迄とは打つて代つて恐るべき浪費者となつてしまひました。私には養父故如何ともする事が出來ませんので小さな農家の身代故今に無一物になる事が火を見るよりも明かでしたから子供等四人も持つて其樣な處を見るのは忍びない事ですから意を決して妻や子供にも其となく其旨を語り出郷する事としました
最初は仙臺でさる有名な畜産家の家僕となつて養牛の方を研究しました。其方が一通り達しましたから北海道の方にも行つたなら何か適當な地位を得るであらうと北海道に渡りました。北海道では牧畜の方に關係する事は出來ないで反つて土方部屋等に流れ込んで死ぬ樣な眼にも遇ひましたし其外よい事は一つもなくて漁夫となつたり木挽夫となつたり徒に苦心慘憺したばかりでした。大體私が養家を出た原因は養父の不始末を苦に思ふて出たのですが其他に三番目の男の兒が身體も強健だし先生方から神童だ等と云はれ、當人も是非軍人になりたいと云つてよく勉強して居ましたから自分は何も出來なかつたけれど此兒のみは勉強させて軍人に仕立て邦家に捧げ樣と考へて其學費を頁ぐ事が出來る樣にしたいと思ふたのでした。處が其希望は水泡に歸して思ふた職にあり附く事さえも出來なかつたのです。面目ない事なので故郷と通信する事は自分自身に慚るので成功出來る迄は一切文通しない事に決心したのでした。埋れ木に花咲く日も無くて今日に及んだものです
今では一番目の男の子は一人前になつて私の養家を繼いでゐると云ふ話しです。二番目の女の兒は師範學校を卒業して義務年限の過ぎ今では何處か相當な家に嫁入つてゐる鹽梅、三番目の野郎も志願兵で入營し今では歸つて家業の手傳をしてゐる事と思ひます最後は、腹違ひで妹の方に生れた女の兒ですが之も十五にかなる筈ですから嫁入り仕度でもしてゐる事でせう。要するに私は子供の爲めに何等親としての義務を盡さなかつた事になります。私としては充分努力した考へですけれども恰度私が出郷した頃は不景氣な時でしたので最初の出發點を問違つた私は常に乞食の樣に放浪して歩いたのです。

 其れでも大正六年迄は子供の爲に學資を取つて遣る事のみを考へて居ましたが如何に考へても成功の見込みがつきませんので今更尾羽打ち枯らして歸郷するでもなし、グヅグヅしてゐると東京も西京も見物ならず伊勢大神宮をも拜む事が出來ずに死ぬ樣な事になりはせぬかと思はれましたから斷然北海道に足を洗つて内地に入り故郷は素通りに東京に入りました。二三日見物して出發。伊勢に參拜し何處と云ふ眼當てのあつた旅でもありませんが西京も見物して大阪に足を止めたものでした。
大阪に入つてからは教へて呉れる人があつて直ぐに此處に來ました。專賣支局の倉庫に出る樣になつたのは誰の紹介もなく私一人で行つたのです月收卅圓から卅五圓位です。他に適當な仕事がないでもありますまい。故郷で一時村役場に出て書記をしてゐた事もありましたから簡單な帳面位つけますけれども今頃は學校出の若い人達が上に居るのですから理屈つぽい爺等は使ふ方も使はれる方も精神的に苦勞が多うございますから役所の事務等はとる氣がしません。
今は子供の爲めを思ふにも皆成人した今日ですから反つてこちらから厄介かけさせねばよいです。私が死んだと知れたら誰れか彼れか來て葬式位出して呉れる事は知れた事です。で其時懷の中に多少でもの蓄へが無かつたとあつては面目ない事故今は心配と云ふて其時の用意に幾分かの貯へをして置かふと思ふ位のものです。
病氣は何もありません。現在の手傳職は適當した仕事だとも思ひませんが他に之と云ふ適當な仕事があるとも思ひません。何をするにも此手では駄目です。漬物屋でもしやうと思ふてゐますが之も未だ計劃のみです。他に鹿兒島の人から聞いて芋飴を製造する方法を知つてゐますが之は多少の資金も必要ですから出來ません。
新聞は同室の人が朝日をとつてゐますし同じ新聞でも面白くありませんから大正日日をとつて讀んでゐます。雜誌は別に讀みません音樂は分りません。淨瑠璃が好きで大阪に止つた理由の一つは大家の淨瑠璃を聞く爲めです食ふものを食はないでも淨瑠璃のみは聽きに行きます。今は金も無し文樂座に行つてゐます。

 宗教は耶蘇教が好きで時々御見えになる青木樣のお説教を聞きます。青木さんは耶蘇教との事ですが其樣な事は何も申された事がありません。大體私は大層新しい事が好きで田舍に居た時等も岡山縣から花筵の講習が來ると其方の講習も受けたり養蠶も度々講習を受けて一通り分つて居るのですが佛教等は古いので嫌ひです。
 北海道で土方部屋に入つた時のみは此世の地獄と思ひました。今でも仲々盛な樣ですあの樣な事は早く無くせねばならぬ事と思ひます。尊敬するのは西郷隆盛、澁澤▼▼一氏等です。貯金は目下十三圓位あるだけです。 (五月二十九日)


三十三番 專賣支局調理職工 二十歳
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 徳島縣名西郡下浦村に生れました。小村で米はあまり取れません。藍が唯一の産物で昔は非常に盛でしたが今では人造藍に壓倒せられて昔日の樣ではありません。香氣の高い松茸も取れますが大阪の方迄送り出す程の産額は無く皆徳島邊で消費する樣です。

 父は五十六母は五十三で健在です。家業は代々素麺屋です。素麺の製法は大體饂飩の製法と同一です只多く引き伸して細くするのと乾燥の方法が少し違ふ樣です。學校は尋常を卒業したのみです。徳島で伯母が下駄屋をして居ますから卒業後は直ぐ其方に行つて手傳をしてゐました。兄弟は四人姉二人に弟です、姉二人は嫁入つてゐますが私は長男故職業については隨分苦勞します。下駄屋にゐたのは二箇月程で故郷の左官屋に上手が居ましたから是非左官になりたいと思ふて弟子入りしました。一年半程したら其左官屋が外に女を作つて妻と子供を殘したきり何處かに逐電してしまひました。おかみさんですか別に驚いた樣な樣子も見せませんでした。前々から其樣な樣子が見えてゐたとの事です。小さい村ですから他に左官屋は無く大阪に來たらよい先生に就く事も出來るかと思ふて十六歳の時に大阪に出て來ました。
大阪では伯母が炭屋をして居ますので其家に落ち着き其後も厄介になつてゐて方々よい左官屋があるかと探して見ましたが見當らず伯母の家の出入の人が紹介して下さる儘、萩ノ茶屋の帝國パイプ株式會社と云ふに勤める事となり、鐵を燒いて硫酸で洗ふことをして居ました。之はとり着けの時に垢が着いて居ては具合よく着かないからです。それから其曾社が倒れかけたので身を引いて今の處に友人から紹介して貰ひました。

 萩の茶屋に居る時に流行性感冒に襲はれた時は全く悲慘な事で寄宿舍に居る五十人の者は悉く之に冒かされ幸一人も死んだ者は居ませんでしたが皆一ヶ月か一ヶ月半程寢ました。喰べる物は粥と梅干のみで一日一回醫者は來ますがよく見ても呉れず藥代と日給も會社の方で支拂つて呉れましたけれど手當が行き屆かなかつたのです。お婆さん一人で世話してゐました。何せ五十人一しよに熱に浮かされ乍ら寢てゐたので隨分悲慘なものでした。 (五月三十日)


三十四番 手傳 卅四歳
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 兵庫縣揖保郡龍野町の生れです。海から一里程ですが農村で御存じの醤油の出處です。いえ豆は皆他所から來ます。水がよいので上等の醤油が出るのでせう。家業は父は陶器屋の番頭をして居ました。母は五十四歳で生きて居ます。兄弟は六人あつて私は長男です。父は私が甘五歳御影の酒屋本嘉納に働いてゐた時亡くなりました。何病氣とも不明瞭でしたが二週間程病んで死にました。

 御影では私が本嘉納に働いてゐた關係から父も其町の商店に勤めて一家全體御影に居たのです。私の仕事とては罐詰を詰めてレッテルを貼つたり其等を荷造りしたりするのが仕事でした。本嘉納の銘酒ですか菊正宗です。御話しの通り第一等となつてゐます。其理由は宮内省に納めてゐる爲めに有名になつたのです。私等の眼から見れば他に菊正宗と同等の酒が津山あります。之も人によつて多少善し惡しの標準が違ひもしますが白鶴、櫻正宗等は皆甲乙の無い品です。

本嘉納を止めてから大阪に出て色々と代つて歩きました。其等を一々御話しすると面倒ですから止めて實は私は廿八の年に欺かれて北海道の土方部屋に連れられた經驗を持つてゐます。

七月の或夕仕事無くて二日程飯も食はずに居たのですが中島公園の邊をヒヨロ/\して居ますと、職人風の男がやつて來て、見れば君は大變疲れて居る樣子だが一體如何な事情か場合によつては何かよい智惠を貸して遣る事も出來るかも知れないから遠慮なく話すがよいと云ひますから、己は二日飯を食はずに居る樣な次第で仕事が見當らないので困つて居る旨を云ひますと、件の男は其事なら北海道の方によい儲けの仕事があるからと云ふて色々と説明し飯を食はないでは仕樣がない。先づ己の宿迄來て飯を食へと申します。地獄に佛と喜んで其男の宿に行きました。宿に行つて見ると其處には既に十數人の者が居て二三日前から此樣にして居ると云ふ話をしそれから何か契約の證だとか云ふて印をつかせました。其内容は大體は北海道のある處で半期の仕事に從事すると云ふ譯でした。どうも不思議な事には宿の入口には必ず見張り番が居て一歩も外に出さないのです。之は宿賃を踏んで逃げられてはならぬからと云ふ云ひ分でさもある可き事の樣にも思はれました。

遂に大阪出發の日が來て我々五十人の者は列車内に推し込められました。最後の半ぱな箱に壽司詰めにされて便所に行くのも顏を洗ふにも皆看守人を附せられ東京通つて品川から赤羽に出た時、更に東京からの仲間五十人と一しよにされ一行は百人となりました。此新來五十人と一しよにされてから看守は一層嚴重になりました。時々人員は點呼され護送者の外に仲間の中の力強さうな者には少なからぬ金が分けられて我々が不平の聲を漏らせば直ちに彼等の爲めに恐喝せらるゝ樣になりました。青森から汽船に乘つて室蘭に上陸しました。其時北海道の地から來た更に恐ろしい相貌をした數人の看守が交代に來て今迄の看守と交代の挨拶をなし、我々を引きとりました。新なる看守は手に手に武器を携へ不穩の言行あるものは直きに撲つ事とて規律は正しく守られ、萬事は一層嚴格になりました。

室蘭上陸の時には巡査が來て貴樣等の中に病氣の者は無いか勞働に報へない者があつたら遠慮なく申し出でよ。弱い者は亦然る可く取り計らつても遺ると云ふて一々の手を見て歩いたり等しましたが、ホンの形式のみの事で後に看守人の眼が光つて居る事を思ふては實際身體は弱くても誰も己は病氣だ等云ふて出得る者は居ませんでした。斯くして私等は日高の國の平取村と云ふ處に落ちついて其處で荒地を開拓する爲めの大きな水利の工事に取り掛る事になりました。見渡す限りの荒野で家一軒も無く我々の所謂監獄部屋ばかり雨露を凌ぐのみの建物で妙に風通し惡く建てられてゐるのでした。其れに親爺の部屋と賄連、看守人等合せて十人程の者の居る部屋が附屬して居るのです。私等の部屋々々には皆錠前がついてゐます私共が着いた日は大暴風の日でしたがマァ/\旅で疲れたらう、御苦勞樣だとあつて寢につきました。やがて暫くすると誰かゞ行れと云ふてランプを消し板壁をめり/\と破り出しました。二日前に來た先着體が行り出したのです同時に方々で行れ/\と云ふて部屋を破り出す音を聞きました。看守が脱監だと大聲に呼はり十數名の者は逃げたら承知せんぞと云ふて各々武器を持つて前に立ち塞りました。マア/\と云ふて詫びする者あり、燈火をつけて各部屋を見ましたらそれでも八人程逃げて居ました。

翌日は其事で休業でしたが之が半年間の唯一の休業で後は降つても照つても夜遲く迄で働かされました。逃げた者は其晩にも道を失つて居た處を捕へられ半殺しになつたのもありました。翌日捕へられるのもありました。皆半殺しにされました處仕事をして居る時に逃げた者もありましたが、看守人の方が足が早いので直き追ひついて撲り倒します。半殺しにして置いて水を浴せて生かし翌日は又同じ樣に使ひます。病氣だ等と云ふたつて休ませる事はありません。皆働き乍ら倒れるのです。倒れると道端にねせて置いて夜に歸る時モッコで擔いで歸ります。翌朝迄に冷たくなつて居るのです。死にさうになれは病院に入る事もありますけれど喰べ物は部屋よりも惡く怪我でも何でも皆私費です。

朝錠を開けて貰つてから夜錠を掛ける迄總て軍隊式で看守の眼を逃れる間はありませんから此世の中の一切の業の中で一番苦しい事だと思ひます。其内此處に一事件が起りました。それは皆前から脚氣になつて歩けない樣になつては居たのですが、十一月の或日妙に一樣に顏が腫れてお化けの樣になり出しました。親爺が部屋に行つて野郎共皆連れて來て見いと云ふ事になり、見たらどうです皆お化の樣に腫れてゐるので此時のみは親爺も心配してもう皆歸つてよいと云つたのであります。歸つてよいと云ふのは前借を拂つた者拂はぬ者其等の計算をつけて、尚取る可き金が五圓もあれば其を持ち、取る可き金の無い者は何も持たずに部屋から出て自由行動を取つてよいと云ふのです。

前借とは北海道に來る迄の旅費で廿圓程です其れを半年働いて拂ひ得るか拂ひ得ないか、拂ひ得ないものが殆全部です。之を拂へば何時でも故郷に歸つてもよいと云ふ仕組で半分は警察の方に故郷から金を送つて貰つて前借即ち此北海道迄の旅費に十割程掛けたものを支拂つて歸ります。私は送つて貰ふに人も無し、脚氣もあまり顏が腫れなかつたので遂に七月二日から十二月迄働きぬきました。休まなかつたのでお前には七圓だけ餘剩があると云ふて呉れましたから之を貰つて出ました
盛岡迄來たら一切の旅費が盡きて其れから三百五十里、樣々な眞似をして一月元日から七月二日迄六ヶ月と十日掛つて歸郷したのです。部屋を出た時の氣持ちですか、旅費もなし歸郷も出來ないでも流石に嬉しうございました。鬼の樣な親爺でも何も憎い事はありませんでした。實際力は強く身體は肥えてゐて價値があります。憎いと云へば皆が憎いので親爺が取り立て憎い事もありませんでした。

 同じく北海道の人夫にも内地の募集と北海道募集とあります。北海道募集と云ふのは一度は内地募集で欺かれて北海道に來た者が北海道で他の仕事に從事して居るのを募集するのです。之は元來土方部屋と云ふのは如何なる處であるかはよく知りぬいてゐるのですから、普通の手段に依つては募集する事は出來ません。それで可なりの前借を許すのですが北海道募集は其れは手に入つたもので其前借を貰ふと如何なる手段によつてか逃げてしまひます。北海道募集は逃げると云ふ事も知れ渡つた事なので看守は特に注意して居ますが彼等はどうしても逃げます。逃げて捕へられる樣な事があつても特別に寛大な所置を受ける樣にもなつて居る樣です。其道の玄人と云ふので親爺の方でも一目置いて居るのです。

現に大阪にも此土方部屋の出張所が多くあるさうですが大阪よりも東京が多く郊外に陣を張つて上野淺草等數多く手を廻して働いて居るのです。此頃は北海道よりも足尾銅山とか日立鑛山とか連絡を附けて働いて歸る者が多い樣です。警察の方は大眼に見て居るのかも知れません。一度約束した事だから仕方がないのではないでせうか。法律も何も必要はないから皆團結して行つてしまへばよいのですけれども呑まれて居るから何も出來ません。それでも私共の中にも一人腕の効いたのが居て…………足尾等は一度山に入れば如何なる方法を取つても出られないとかで歸る者は逃げて歸ると云ふ話です。我々の北海道の親爺ですか荒涼と云ひました。可なり賣つた男ださうです。看守人の事ですか棒頭と申します。

 病氣はした事がありません。新聞は大阪日日を讀みます。音樂は何と云ふ譯でもありませんが、歌ふ事は大好きです。繪は日本▼▼がよいと思ひます。運動では軍隊に居た關係から機械體操が好きです。海老上り大振り等は自由です。

 宗教は眞言宗です。此の方の行は仲々困難と云ふ話ですが、あの呪文は慥かにきゝます。二本の指で横に四本縱に四本畫いて右上からきるのですが邪氣を拂ふにはよい方法です。如何樣な關係から來るものでせう。耶蘇教等でも横に一本と縱に一本下からきる樣ですが同じ樣な理由でせう。將來は商賣がしたいと思ひます。 (五月三十日)


三十五番 郵便局集配人 卅九歳
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 天下茶屋郵便局の二等集配人をしてゐます。御存じの通り郵便局は一等二等三等となつてゐますが天下茶屋のは二等郵便局で一等郵便局から來たものを各戸に配達するのと各ポストから集つた郵便物を一等郵便局に送つたりする役目です。三等郵便局は集配はしません。此の間の五十年記念の時は酒肴料並に記念繪葉書を貰ひました。祝賀の式は局内に擧行しました。三等郵便局になると郵便物の集配は致しません。郵便爲替の取扱と端書切手を賣り捌くのみです。其等の規定は郵便區劃規定に精しく出て居ります。天下茶屋郵便局の集配は主として對中央郵便局との關係で五人交代で致して居ります。

 故郷は愛媛縣北宇和郡三間村です。農村で産物は米穀のみです。米は三間米と云ふて大阪等の市場でも常に第一等と云ふ事になつて居る樣に聞いて居ます。家は代々農業で父は十五年前亡くなりました。それで止めて家事を手傳ふて居ました。兄弟ですか二人で兄は當時家事一切をして居たのです。家事の手傳と云ふても腦病ゆえそんなに働いたのではなくて素人畫會等に入つて遊んで居ました。上手な者を先生と云ふ事に立てゝ思ひ思ひの繪を畫いては見て貰つて居たのですが傑作ばかり集まつたものです。

 大正七年八月知己を頼つて大阪に出て來ました。其友人の紹介で木津川町の津守神社と云ふに宮守となりました。宮守と云ふて留守居や掃除をして居たのみで儀式や等は何も出來ません。和泉のある社で大分善い條件で私に來て貰ひたいと云ふ處がありましたけれども私は其口を斷つて同時に宮掃除も止めました。二年半程も居たでせう。其次ぎは控訴院に庭丁として入りました。庭丁と云ふのは、雇員の見習で一年半したら雇員となり得る性質のものです。事務は門番と公判の取締りとでした。それも半年で止めましたから物にならず。其れから後は其日暮しに手傳をしてゐました。市役所の勞働紹介所から出て居たのです。今宮の勞働紹介所も九年五月頃は未だ仲々盛で毎日二三百人宛賣れてゐました。私共も其頃は十圓内外を持つて歸りました。今の賃銀は月に四十圓位です。

 病氣は腦病のみです。現在の職業は止むを得ずして居ます。何れは商賣の方に代つて儲けて見たいと思ふて居ます。信仰は何もありません。新聞は朝日新聞を讀みます。其他和歌俳句等に趣味を持つて居る處から其方の雜誌等を買ふて見る事があります。運動には少しも趣味がありません。美術に關しては既に御話した通り南畫の方に多少の趣味もあります。

 酒も煙草も飮みません。喰べ物では餅菓子類を嗜きです。病と云ふては物云はぬが癖で社交が下手な事が缺點と思ひます。

 今の世の中で不平だと感ずる事は貧富の差がひどい事で之を無くして平等に近くしたいと想ふ故勞働運動等には多大の趣味を持つて居ます。けれど半過激派の樣な事は宜しくないと思ひます。尊敬する人とては二宮尊徳先生等で見上げた方だと思ひます。現在のところ貯金は二百七十圓になりました。 (六月二日)


三十六番 手傳 四十五歳
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 私は少しも學校に行きませんので何も分りません。故郷は伊勢の國伊名郡カフミ村と申します。村は皆百姓で田畑を耕して居ります。兄弟は六人あつたのですが皆死んで私と兄と二人だけ殘つて居ます。お父さんは六つの時死んだのです。母は死んでから六年目になります。六つの時父が死んだから、私は母の手で大きくして貰ひました。學校には父が居ないので行けませんでした。

 七つ八つから、百姓の用事をきいて歩きました。十八の時から熊野に行つて製板をしました。材木は皆山から林を伐つて出します。樅、トガ、アバレ木何でもあります。其方を止めてから亦故郷に歸つて百姓仕事をして居ました。

 大阪に來てからは一年程になります。一人で來ました。新世界を歩いて居たら教へる人があつて此處に來ました。其後は手傳業のみをして居ます。今は木津市場に立つて誰の物と云ふ事無く客が仕入れた野菜を牽いてゐます。二圓とれたりとれなかつたりですが半日仕事ですから割のよい仕事です。

 身體は丈夫で病氣はありません。信心は大師樣や天神樣を拜むのです。仕事が無かつたら盆迄に故郷に歸らうかとも思ふて居ます。今貯金は百八十九圓三錢あります。 (六月二日)


三十七番 專賣支局株切リ 三十歳
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 朝鮮全羅南道唐津郡鴉川再葛洞里の生れです。父は私の二十の時母は十六の時に亡くなりました。兄弟は四人は居ます。學校は一年も行きません。子供は二人居ました。上の人は腎沫下の人は自沫です。妻も子供も皆兄さんの家に居ります。家は兄が繼いで居ます。

 日本には去年六月來ました。少し金を儲けるつもりで來ました。梅田停車場の雜役夫をしましたが心棒出來ず止めました。日給一圓二十錢ありました。其次は專賣局に働いて居た朝鮮人に紹介して貰つて專賣局に入りました日給初めから一圓二十錢あります。休むよつて月には廿五圓六圓です。

 力は無いけれど身體は弱くもありません。今の仕事を何時迄もする積りです。來年二月から四月五月迄國に歸ります。本は讀みません。酒も煙草ものみません。日本酒嫌いです。貯金は既に百七十九圓五十錢になりました。 (六月三日)


三十八番 手傳 卅二歳
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 新潟縣三島郡深方村に生れました地方の産物とては煙草の栽培が盛です。蠶も何處の家でも飼つてゐます。其他農村ですから米が出ます。父は文久元年生れと記憶して居ます。母も六十かでまだ丈夫です。新潟縣は御承知の樣に天産物に乏しい地方ですし其れに冬季は寒さが激しいので出稼ぎに出る者が多く主として酒、醤油等の釀造に働く樣です。女が毒消し賣りや若芽賣りに出掛けるのは私の地方とは違ひます毒消しは蒲原郡に多く若芽等は海掌寺、泊、附近かと聞いて居ます。

 學校は高等小學校の一年を修業してから東京に出で中央工學校並に電氣學校等に通ひました。學校は土木測量、電氣工學等を教へます。中等程度の學校です。之は半途で退學して神前田錦町の電氣學校▼▼通ふ事になりました。此度も豫科を卒業したのみで止め、千秋學校とか云ふ高等程度の學校の受驗準備學校にも通ひました。尤も此學校は今は廢れてしまひました。

廿三歳の時に少し學資が窮乏しましたから近衞の師團司令部内にある搗製所と云ふのに働く事になりました。搗製所と云ふのは米を掲く處なのです。其處で三年程働きましたが閉鎖になる云ふ事を聞きましたから自分から止めました。一夏世話する者があつて氷の問屋をした事もあります。府下の大島で豆腐屋もしました。一箇年程續けて見ましたが水が惡いので揚げが思ふ樣にも出來ず、之も見事失敗しました。大正七年九月大阪に來まして府下の鴫野の小さな鐵工所に働いて居ましたが解散となり我々は手當を貰ふて解雇せられました。其後一時友淵の日本製糖に居ました。原糖を溶解して骨炭を通過せしめ色をぬき眞空の中に入れて思ひ思ひの結晶を得るのですがザラメを入れゝばザラメとなり白を入れゝば白となります。一昨年九月自ら其處を止めて今の瓦斯職工となりました。瓦斯と酸素の混合氣體に點火して其火熱で鐵の板を燒き切つたり諸種の金を熔接したりします。温度は四千度位になります。日給は一圓九十錢半期に十圓程の賞與があります。

 新聞は朝日と毎日とを讀みます。讀書と云ふて近松物が好きです。音樂美術等には何も趣味がありません。運動等にも何等興味を持ちません。

信仰とては何も持ちません。各宗教のよい處を味ひたいと思ふてゐます。耶蘇教よりも佛教が好きです何故と云ふ理由もありません。自家の宗教が佛教であるからでせう。煙草は喫ひますが酒は少しも飮みません。勞働運動には何等興味を持つ事は出來ません。今の世の中に通用せぬ事をしたとて何にもなりません。尊敬する者はありません。釋迦や基督も偉いには違ひありませんが別に尊敬はしません。貯金は僅かに四圓です。 (六月三日)


三十九番 手傳 五十三歳
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 石川縣石川郡一木村の生れです。父は私が二十の時に亡くなり母は二十三の時に死にました。學校は昔の下等五級迄です。私の頃は下等八級と上等八級と云ふ事になつてゐて下等の八級から初めて七級六級と進み一級迄行くと今度は上等八級に入る事になるのです。二級三級になれば十八史略、國史略等の難解な本を教はります。五級は日本略史でした。

 父母が早く死にましたから二十一迄は後見がついて萬事手固く行つて居ました。廿三歳の時に選擧權を持つ事となり、議員の選擧や何かで私も大いに奔走しました。其中百姓をする事が馬鹿臭くなり金澤の市に出て米屋を始めました。家は弟にとらせて私一人自由に行つて見やうと思ひ財産も折半して弟に遣り商賣に掛りました。初めの間は手固く行つて居ましたたが相場に手を出す樣になつてからは仕事に實が入らず遂に失敗して三年目には店は人手に渡つて一家離散の止む無きに至りました。

一時弟の處に居た事もありましたが厄介になつて居るのも面白くなし三十の年大阪に來て吉田橋の梅原と云ふ瓦斯油屋に奉公しました。此瓦斯油と云ふのは今は何處にも見當りませんが砲兵工廠に納めたもので燃料にしたものです。今の洗濯石鹸の惡いのが此油を煮沸して加工して作つたものと聞いて居ます。其後は何處と云ふて宛てもなく親方を取つて手傳の樣な事や土方の樣な事をして歩き廻りました。

現在は島の内の親分で島巳と云ふ人の處に使はれて居ます。親方は代々請負をして居る家柄で立派な人柄の方です。先達程は天下茶屋のある別莊を作つて居ました。今は大和橋の河合(材木屋)の居宅を作つて居ます。三階の建物でそれに倉庫が着いて居ます。八箇月の豫定で掛つて居ます。朝は五時此處を出發して一度親方の處迄行き其から仕事に掛るのは八時半頃になります。夜は六時頃歸ります。初めは百姓の自分には仕事が仲々困難でしたが今では手傳の方なら建築一切に關して何でも分つてゐます。年がよつて力はありませんが若衆を監督して皆から立てられて仕事をしてゐます。此儘何處に行つても一人前として雇つて貰はれます。如何な仕事でも一人前になるには十年は掛ります。早い人でも七八年です。賃銀は二圓から二圓二十錢の處です。

 病氣は何もありません。朝日新聞を讀んでゐます。本は讀みたくとも眼が丈夫でありませんからそれに時間もありませんし見ない事にしてあります。信心は眞宗で東本願寺です。親の疊も此處に納めてあります。貯金は二百五十七圓十八錢です。 (六月三日)


四十番 手傳 卅三歳
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 滋賀縣神崎郡八幡村の生れです。父は七十歳母は六十七歳で達者です。家業は農業で借りて田畑を作つて居ます。兄弟は三人私は二男です。村は八十戸程の小さな村で湖迄出るには一里半ありませう。最近い町とては彦根の町です。産物は麻布です。其他は知りません。

 學校は高等一年迄行きました。修業後近村の醤油屋で十三迄奉公しました。二年半程して親戚が森町で呉服屋をして居ますので大阪に出て其家で働く事になりました。備洲物、桐生物、名古屋物、西陣織等何でも行つて居ました。十八の年に同じ家に働いてゐた者が名古屋に歸つて店を開いたと云ふて來たので私も其方に奔りました。其處に二年半亦大阪に歸つてある張物屋に入りました。張物と云ふのは染め上つた反物に糊を附けたり、細工をしたりして直ぐ賣り出す事の出來る樣に作るのです。其後は手傳をしたり商店の荷造をしたり、名古屋に居たり故郷に歸つたりして居ました。

大正八年亦大阪に來て共同宿泊所に置いて戴く事となり八幡町の鐵瓶屋に三箇月程通ひました。此鐵瓶屋は殆自分の家のものの樣にして居る工場もあり盛大に行つて居ります。品物は極めて粗末なものばかりで一圓八十錢位から五圓位迄の處です。品の善惡等に就いては何も分りません。私は荷造のみをして居ました。何せ就業時間が長くて朝は五時頃に起され夜は十一時頃になつて店を仕舞つてから休まねばならないので身體が持てませんから三箇月で止めたのです。今は京橋の寄場に通つてゐます。收入は不定です。

 身體は丈夫で病氣をした事がありません。現在の手傳は好きでして居る譯ではありません。田舍に歸つて農業の手傳をしたらと云はれるのですか、田舍には仕事がありません。新聞は大阪日報を讀んで居ます。夕刊のみです。朝は新聞等讀んで居る間はありません。音樂美術は嫌ひです。活動寫眞は時々見に行きます。信心等はありません。渡世の祕訣等と云ふて考へた事はありません。

 煙草は嗜きですが酒は飮みません。喰べ物では甘い物が好きです。勞働運動等は何も味つた事がありません。誰も尊敬しません。貯金は今二百五十八圓十五錢あります。 (六日三日)