一番 造船所職工 卅五歳
------------------------

 香川縣三豐郡庄内村に生れました。家は代々左官を業として居りましたが父の代に大工となりました私は長男です。舊制の尋常小學校を卒業してから補習科に二年居ました。

 少年時代は何の變つた事もありませんでしたが、私が十七の年に父が肺病にかゝり、常に床について居ましたので父代りになつて働きました。父は私が二十の年になくなりましたから私は妻を迎へて父の後をつぎました。其後今では六つと四つになりますか二人の女の子をもうけましたし家で作つて居る僅の田畑からの收入や私の賃銀だけでは充分でないので村の人達の誰でもがする樣に私も大阪に出て參りました。大阪に來てからは何の變つた事も無く最初からの日給二圓三錢宛を戴いて暮して居る次第です尤も一昨年の四月物價騰貴につき毎日五十錢宛の手當が出ましたが昨年八月頃から三十錢宛となり去年十月からは何も無くなりました。此樣な譯で收入には多少の變化がありました。

 御覽の樣なもので正直一方に働くだけの事です。これで月々妻子に三十圓宛仕送りをせねばならず仲々骨でございます。身體は生れつき虚弱なので力仕事は駄目ですが圖を引いたり木型を削つたり現在の仕事には適して居るものと思ひます。腕力はありませんが病氣はした事がありません。

 何も趣味と云つてはありません。芝居浪華節は大好きです。修養とても新聞を讀んで常識を養ふ位のもので別に大した事はありません。信仰も至つて足りない方です。御存じの通り私の方は弘法樣の眞言宗ですが御經の文句を覺えて居る程度のものです。只天神樣の句かと思ひますが「心だに誠の道に叶ひなば祈らずとても神や守らん」とありますが、正直にやつてゆくのが一番だと思ひます。現在又は將來の希望とて働きぬいて國に歸りたい位の事です。煙草は戴きません。お酒も先づ戴かない位なものですお菓子は大層好きです。其外旅行して變つた風物に接する事が大好きです。お金のある時に國に歸るのも樂しみです。

 現在の社會に對しても多少の不足はありますが吾々風情が何を申しても仕方がありません。只藤永田では會社の施設が職工の爲めに極めて不充分なので是非何とかして戴きたいと思ひます。勞働運動に就ては資本側も惡いかも知れませんが勞働者の中にも隨分な者が居りますから勞働者自身を改良しなければならないと思ひます。友人は友愛會の會員もあれば鐵工組合、大阪造船組合等に入って居る人も澤山ありますが私はどの勞働組合にも入つた事がありません。天皇陛下を有難いと思ひますし一人ある母を喜ばせたいと思ひます。貯金はあまり貯へて居りませぬが今では百二三十圓程貯金してあります。 (五月十日)


二番 自動車運轉手 廿五歳
--------------------------

 大阪市南區下寺町四丁目で生れました。父の業は蒔繪師で私は其五男です。大阪で新制の高等小學校を卒業しました。成績は普通の方でした。蒔繪師は自分の性質に合はないと思ひましたから何か機械を使ふ職につきたいと思ひまして十九の年に京都にゆき自動車運轉に志し廿一歳の春免許状を貰ひました實務について二年廿三の年に妻を娶り昨年の十二月父も年寄つたからと云ふので大阪に來て仕事を尋ねましたが口はあつても報酬が少なくて遣つてゆけず、妻を一時家元に預けねばならぬ事になりました。其後長堀の一二三屋と云ふのに勤めましたが今年二月解散となり、其後思はしい口はなし私も少し遊んだりしましたが愈口が無かつたなら發動機船か發動機のある工場に勸めたいと思ひます。こんな事で今では遊ぶのが嫌いですが遊んでゐるのです。

 商賣が危險な爲め中には神經を惡くする人もありますが、大抵は始終色町に出入りし仕事が暢氣だから快活な性質の者が多く私も氣樂な方です。身體は健康な方ではありません。輸卒でも兵隊にはゆきました。好きな仕事故自動車の運轉には▼▼味を持つて居ます。月給制度も近頃多くなりましたが御祝儀が多いのでこの商賣は收入が多いのです。活動寫眞や芝居が最好きで圖書館等に入つて本を讀む事もあります。球突にも趣味を持つてみます。

 信仰とて何もありません。けれど朝起きると今日一日無事なれと何拜むともなしに拜む氣になります世の中を樂觀的に見てゐます。始めは大分神經を惱めましたが三年程したら自由自在に運轉も出來る樣になりました。將來は自動車の修繕業をしたいと思ふてゐます。煙草が好きです。酒は同業者は誰も用ひません。甘いものは大分好きです。

 社會觀等と云ふて何もありませんが一般群集が道路取締規則を守らない事憎い程で是非改善せなければならぬ事と思ひます。勞働運動に參加した經驗はありません。趣旨には贊成で演説會には時々聞きにゆきます。京都に居た時は京都自動車運轉手交友會に入つてゐました。同名組合が神戸にも大阪にもあつて、多少の聯絡は保れてゐます。大阪には其中が二つに分れエーシーとショーフアーとなつて互に競爭して居る樣です。何れも未だ大きな爭議を惹き起した事などは無く賃銀問題でこつちから持ち出しても會社側は大抵聽いて呉れます。崇拜するのは京都のお客さんで數馬さんと云ふ方でありましたが色々御深切にして下さいましたので夢にも見る程です。 (五月十日)


三番 大阪市役所土木工夫 卅一歳
--------------------------------

 東京京橋に生れました。實父は官吏です。私は庶子として十七歳まで生みの父の家に居りましたが庶子では將來社會に出る上で宜しくないと云ふので現在の河原家に養子となりました。養子と云つても養家は當時母は他に嫁入ると其家の籍が絶えるから私を養子にした樣な譯で養母には遇ふた事がありません。學校は鎌倉で舊制の高等小學校を出ました。今は縣の師範學校の附屬小學校になつてゐる八幟宮横手の學校です。

 出郷前の家庭其他の状况はお話した通りですが大正七年夏大阪の方が景氣がよいと聞いて大阪に參りました。當時末だ市立共同宿泊所はありませぬで、大阪職業紹介所で勞働者を宿泊させて居ましたから私も御厄介になつて毎晩五錢宛で泊めて戴きました。晝は砲兵工廠前で鮟鱇を働きましたが平均一日二圓五六十錢の收入でありました。半年程して市役所の方に入りました。現在日給は一圓七十五錢で半期に十日かから十五日程の賞與があります。收入は少ないが仕事が樂なので永く御厄介になつてゐます。

 性質は快活に何でも遣つてのけ得る性質と思ひます。思想は人道主義者と云ふのでせうか、力則正義と云ふ樣な思想には反對です。娯樂は讀書で創作ものは暇さえあれば讀み耽ります。主として白樺派の貴族的藝術に共鳴しますが、中央公論等に出る純藝術派のものも愛讀します。宗教についても非常に興味を持つて居り古人の殘された言句には愛誦して居るものもあります、けれど之と云ふて一の宗教を信じて居る譯ではありません。皆同じ事の樣に思はれます。希望としては日本國民として社會から認められたる生活を欲します。煙草は好きです。酒も三合位はゆけますが毎晩やらねならぬ事もありません其外麺類を好んで食べます。私の奇癖として申しあげねばならぬのは面倒臭い事が嫌で人と話しするにしても用の無い事は一切しません。之は周圍が周圍故でもあります。

 現代の社會制度につきましては大抵是認せられる事が多く少し事でも起つて見ればよいと思ふ位の事です。勞働運動だけはみつしり遣つて是非勞働者が衣食住の安定を得る迄に漕ぎつけて呉れゝばと願つてゐます。自分自身は勞働爭議に關係した事はありませんし何の組合にも屬しません。崇拜もしませんが無くなつた父が懷しくてなりません。庶子に生んでくれた父なら憎からうと云はれるのですか此の人間苦を私に與へた其父と父自身が私故に苦しまれた其實感に無上に共鳴されるのです。 (五月十日)


四番 手傳 卅三歳
------------------

 愛媛縣越智郡大井村に生れました。今頃こんな事を申すのもなんですが私の家は代々庄家をやつてゐました。松山近在では五六の舊家の一つに數へられます。父の代になつてから色々こみ入った事情があつて父は二十も違ふ女と同棲する事となり兄と父との仲が惡くなつて日に増し家運が傾いて來ました。父が其樣なものと同棲して子迄も生む樣になり新に家を作つて其方に越してから私は兄と一所に居ましたが何面白う筈も無く無斷家出をするに至つたものです。教育は舊制の高等を卒業してから中學に入りましたが一年級を終えたのみで肋膜にかゝり退學の止むなきに至りました。出郷前の有樣とて其樣な事で毎日面白くなく暮してゐたのみです。

 廿四歳の春家出して東京に參りました。南葛飾郡隅田村のある親方の處でやはり手傳をやつて居ました君は手傳ばかりかと云ふのですか。私は手傳のみは嫌なので何か熟練職工となりたいと思ふて居ますが不幸私の仕事は半年もすると皆無くなつてしまふのです。それから亦同じ仕事に就けばよいのですが兎角收入のよい方と選んで來ましたので此樣な事になりました。

 私の思想の傾向は孤獨主義とか無類型主義とかいふのでせう。人と話する事は絶對に好きません。それも自分の權利が侵害せられる樣な事があれば大いに辯ずる事もありますが靜かな事が好きで友人と女の話などべちや/\くする事はつまらぬ樣な氣がして一人隅の方に居ます。少年時代は弱い方でしたが勞働の御蔭で今では至極強健で大した不平も無く仕事に精を出して居ます。

 讀書は新聞を讀みますが主として宗教書を探し廻つて研究して居ります。音樂、美術、運動一切嫌いです。修養とてはキリスト教曾に入つて説教を聽く位な事です。私の信仰を一言に御話すれば總てを造りそして現在一切を支配し給ふ唯一の神を信じて疑はないのです。貴君は信じませんか私はキリストが地上に於ける吾等の罪を救ふ爲めに降られた唯一人の神の子である事を信じます。吾等は彼の御名によつて救はれ死後は天國に還り得るものと思ひます。私の智識が足らない爲めに斯く信じて居るのかも知りません。兎に角私は救はれた者です。一切の社曾的希望を持ちません生きて居れる事なら何でも致します。五十年の地上生活は只感謝すべきものです。煙草は好きです。酒は嫌ひ故飮みませんが好きなら飮んでよいと思ひます。蟻と同じで甘きにつく方です。

 私の癖とて前にも申した通り何も話さないので皆は「靜の御前樣」と云ふて居ります。今に官幣大社キリスト神社を建てゝ日本の爲功勞あつた事を表彰して下さると云ふのですか、有難うございます。が神樣はさぞ御迷惑に感ぜられるでせう。

 權力者に對しては別に憎くも可愛くもありません。市役所も有難いものの一つに數へて居ます。勞働運動のみは大いに遺つて同階級が充分に暮せる樣願ふて止まない次第です。勞働運動には關係した事も目撃した事もありません。崇拜する人物ですか。別に誰もありません。宗教界にですかそれは今晩明日の晩掛つても數へ切れませんから……現在のですか海老名さん宮川さんあたり實際神に近い方々です。 (五月十二日)


五番 手傳 廿二歳
------------------

 東京市芝區新網町に生れました。父は私が二つの時當時四つになる姉と私を殘して亡くなりました其後母は二回目の夫を持ち女の子をもうけました。母の生存中は父も姉と私とを可愛がつて呉れましたが、大正八年母が無くなつてから私達に對してつらく當りますので私も面白くなし姉と相談の上家出するに至つたのです。學校は芝浦尋常小學校を卒業しました。東京で既に石川島の造船所に働いてゐましたがあまり收入が少ないので石井鐵工所といふのに變わりました。其處の出張で名古屋に參りそれから少し無理をして大阪に來たものです。廿一歳の秋でした。其後はこうして各寄場寄場を歩いてゐます。現在では築港の沖仲仕をしてみます。しかし元來が鐵工ですしそれに東京での親方が境川で鍛治家をしてゐますから景氣のよくなるのを持つて其方に使つて貰ふ約束です。

 思想と云ふ樣なものは何も持つてゐません。身體は極めて健康で病氣で寢た事はありません。
 新聞と小説が好きです。音樂や美術には少しも趣味がありません。相撲は大好きで背負投げが得意です。成田の不動樣を信心して毎晩お經の稽古をしてゐます。何も悲しい思ひもした例はありませんが二親に分れた時は本當に悲しうございました。希望も何もありません。金があつて樂が出來るなら結構です。それから藝者をしてゐる姉にどうかして樂がさせたいと思って居ります。煙草が好きです。酒も少しは呑みます。喰べ物で嫌ひなものはありません。只負ける事だけが嫌ひで喧嘩が好きです。

 社會はよくも惡くもありません。勞働運動も同じ樣なものです。何處の勞働組合にも屬しません。姉さんと伯母さんとが有難いと思ふて居ります。 (五月十二日)


六番 仲仕 廿四歳
------------------

 私の郷里は阿波の徳島です。塀裏土手町。家は魚市場の仲買ひです。新制の高等小學校一年迄ゆきました。十六の年から魚市場の手傳をして居ました。兵隊には補充兵故行きません。身體は丈夫です。口は惡いけんど横根を切つてからは毒はありません。どうして兵隊にとれないでせう。一昨年十二月大阪に來ました。理由とて何もありません。金を殘さうと思ふて來ましたが其實何も殘りません。

 思想も何もありません。病氣ですか尋常一年の時に胃病を疾んだきりした事はありません。現在沖の仲仕は適當した商賣かと云はれるんですか適當も不適當もありません。仕方がないから遣つてゐますが今に止めて商賣の方に代ります。

 本を讀む事は大嫌ひで活動寫眞、芝居、浪花節等は大好きです。信心は嫌ひですが、神の前を通れば拜む位の事はします。希望も何も思ふた事はありません。國に歸らねばならぬものとは思ふてます。

 世の中の事は何も考へた事はありません。勞働運動其邊何とでもして置いて貰へませんかな。尊敬するのは母さんと云ふ事になりますかね。お父さんは叱りますしお母さんは大事にして呉れますから。何貫位擔ふと云はれますか。一度になら四十貫から五十貫です。一日中通してなら二十貫位のものです。日給は出れば三圓二三十錢にはなりますが船が着かねば仕事は無し、ならせば月に五六十圓です。景氣のよい時には百二三十圓も働きました。何分帳面につけた事が無いから分りません。友達が刑事だと云ふので誰が來たのかと思ひましたよ。此處には面白い人が居ます。私の友達でそれはよく金を貯める人がありましたが……。 (五月十二日)


七番 鮟鱇 三十歳
------------------

 生れは東京深川八名川です。家は代々大工をして居ました。父は私が三つの時に無くなりました。兄が其後を取りましたから私は現戸主の弟と云ふ事になつてゐます。父の死後間もなく大阪に引越しましたので學校は大阪で第二玉川小學校第二西野田尋常小學校を卒業しました。

 出郷の理由と云へば私は不都合があつたのですが兄と喧嘩をし、よしそれでは己が一人で遣ると云ひきつて東京さして出だしたのは廿二歳の夏でした。色々遣つて歩いたので一々申しあげるのは面倒です淺草區役所に二年程戸籍係りを務め又東京市役所で故障統計の方を半年やつて見ましたが收入が少ないので廿四歳の時群馬縣足尾線の水害復舊工事の人夫募集に應じました。又東京に歸つて石川島の造船所に入り大正七年八月一日大阪戻つて玉造の土木建築所に一箇年新田造船所に數箇月勤めました。新田の職工數は當時七八百人はありました。日給は一圓六十錢でした。そして皆勤者には四分の手當がありました。九年五月十五日八幡製鐵所にゆきました。當時は滿鐵の馘首が入り込んで來たので思はしからず九月大阪に戻つて再び新田造船所に入りました。以前より收入も少なく弱つて居ましたがやがて馘になって鮟鱇になりました。御覽の通り身體を纏ふに布が半分しかない始末です。折を見て兄の方に泣きを入れ兄の仕事の販賣の方を遣せて貰ひたいと思ふてゐます。兄の店はよく賑はつてゐます。

 朝は五時半から夜は五時頃迄働きます。雨の日は休みが多うございます。ヴアイオリンは好きで彈きますがヴアイオリン處でもありません。全く無信仰です。將來は先刻も申しあげた通り商人になります煙草は好きです。酒故に種々な失敗を重ねましたから今は少しも呑みません。

 社會的に不平も何もありません。其日其日のパンにありつく事を考へるのみです。一時屋外勞働誠友會と云ふ勞働組合の徽章を貰ふた事があります。社會に對する意見や何かは此通りに落ちぶれて居る次第ですから其邊宜しく御容捨下さい。崇拜する人はありません。 (五月十三日)


八番 仲仕 廿一歳
------------------

 朝鮮慶尚南道東來郡左耳面龜浦里の生れです。兄が二人で妹が一人、父は私が六歳の時に亡くなりました。普通小學校を出た丈ですが讀書が好きな處から日常の讀み書きには事缺かぬ迄になりました。兄は床屋をして居ますから家に仕事が無いでもありませんが私は大いに遣らうと思ふて色々經巡りました學校卒業して十二の年に釜山で濱本と云ふ酒屋に雇はれましたがそこが破産したので大正町の大和屋と云ふ菓子舖に勤めました。共に内地の人の店です。次に暇を貰ふて米屋(内地人)に入り、十七の時故國を出で別段當てがあつた譯でもありませんが内地に來ました。

神戸で名は忘れましたがある鐵工の町工場に働き、同年大阪に來て大阪鍛工所で▼▼鋲工となりました。二年程して相澤鐵工所と云ふのに代り同じ▼▼鋲工をやり、西成郡の東工業に代つては機關修繕部に居りました。今年三月歸國の爲め其處を止め一時國に歸りましたが内地人と同じ趣味に生きて居る私には故郷もさまで面白からず。四月中旬再び内地に來ました。思はしき仕事もありません故築港紹介所の御厄介になつたりして沖の仲仕を遣つてゐます。

 内地人に對する感想ですか。一言にして之を言へば憎くてなりません。日本の警察等朝鮮にあつては大した威張り方です。其れで鮮人も多く巡査を志望するのですがいくら勤めても月給は五割方易い樣です。憲兵もかなり惡い事をする樣ですが私の地方は憲兵があまり居ません故慥かな事は申されません。内地人は朝鮮にあつては土地を自分の所有にする爲め大きな土地を抵當に取つて少しの金を借し附けます。そして催促もせず期限が來たの何のと云ふて有耶無邪の中に其土地を自分の物にするのが常です。亦内地人は盛に鮮人を撲りつけます。之は撲られるのが惡いので私等は誰にも撲られた事はありませんけれど實際悲しい次第です。私は爲めに何回も内地人と渡り合ふのです。隨分深く刺された事もありますが身體は死ぬるとも心は負けませんからね。先尤も私が此樣に負けず嫌ひになつたのは子供の頃から内地人の家に養はれてゝ講談物を好んで讀む處から此樣になつたのかも知れません。内地に來ての感想も内地人に對しては全く憎まざるを得ません。只社曾主義者達は私達を鮮人だと云ふて馬鹿にせず親切にして呉れます。私は彼等が好きです。

 病氣をした事はありません。現在の仲仕業は一時腰掛にして居る丈の事です。今に商賣をして大いに儲けたいと思ひます。新聞を好んで讀みます。朝鮮の音樂は支那のと同じで胡弓で調子を取るのですが私は其れよりも洋樂を好みます。又相撲が好きで背負投げで投げつけた時の感じは何とも申されません。朝鮮にも相撲がありますけれど日本の相撲程に面白くありません。碁は五目並位やりますけど本碁等氣のきいた事は出來ません。信仰上の事は分かりませんが佛教が好きで耶蘇教が嫌ひです。煙草が大好き夏はビールを飮みます。喰べ物では鯛の刺し身が一番好きです。

 内地人の鮮人に對する横暴は憎んでも餘りありますが是が獨立と云ふ事になれば又考へねばなりません。鮮人はどうも遣り口が拙いのでなりません。朝鮮に生れても仲々偉い人も數々あります。世界的の人物が多く歐州に入り込んでゐませう。先達て閔元植を刺殺した梁槿煥の意氣には贊成で自分でも彼が獄中の差し入れがしたいと願ふた次第です。勞働運動には内地人鮮人の區別なく贊成です勞働爭議に關係したことはありません。崇敬する人物とてはありません。 (五月十三日)


九番 機械据附手傳 四十歳
--------------------------

 鹿兒島縣出水郡野田村下名に生れました。家は代々農業をして居ます。縣立鹿兒島中學校を出てから東京高等工業採鑑冶金科を出ました。父の亡くなつたのは私が廿二歳高工在學中でした。

 卒業してからは福岡鑛山監督所に技手として主に鑛區調査をしてゐました。一年程してから福岡縣の郡部に自營で石炭採掘を始めましたが二年程して結果が面白くなく事業を中止して朝鮮總督府工業顧問部に▼▼職しました。其内善い鑛區を見出したので再び自營で金銀の採取を始めました。莫間色々な事情もあつて金銀の方は有望ならず再轉して黒鉛の採取に掛りました。現在でも黒鉛の四鑛區を所有してポチポチ遣つて居ります。

 其間中村清七郎氏の仕事を助け支那の濟南、青島、天津の邊を往來してコークスの製造を監督して居つた事もあります。信仰ですか。何分支那の内地深く分け入る時等は何信仰のある分けでもありませんけれど拜むともなく一日の安隱を願ふたり願をかけて將來を祈つたりしたものでした。何かしら人間業では出來ぬ事のある事を信じます。

 希望とては現在遺りつゝあるのは黒鉛とグリースを混合して潤滑料に使用しやうとして居ます。混合するグリースの種類製法の如何によつて大體二十種になりますが現在特許を得て得るのは其内の四種についてゞ後は順次特許になるものと信じます。從來の潤滑料は摩擦が強くなつて熱を生ずると直ちに油が燃燒して煙を發します。御存じの通り油が一度燃燒しますと炭素が少なくなつて其後には屹度灰を殘します。其灰の爲めに機械の接触部が破損しますから一度燃燒した油は石油若しくは揮發油で洗滌し少しも洩してはならぬ性質のものです。之に代ふるには黒鉛から製造した潤滑料を用ふる時は絶對に火を出す事はありません。加ふるに機械の接触する▼▼部分が以前に何事かの原因があつて破損して居る樣な時には此黒鉛が其破損した箇所に磨り込まつて鏡面體を作ります故極めて好都合なのです。
現在でも人造黒鉛とグリースとを混合した潤滑料は出來て居ますけれども人造黒鉛は人工的に電氣の作用によつて黒鉛としたものでパーセンテージは九十パーセント以上ですが熱を加ふれば還元の恐れがあるのです天然黒鉛を以て之に代ふる時は雲母が混入しあるためパーセンテージは低いけれども雲母自身が潤滑料として効のあるものですし絶對に還元の恐れもなし殆んど理想的なものです。耐久力は試驗上悠に從來の三倍ありますから、年にして見れば能率の上に非常な影響があります。價格は同じ分量にすれば餘程高價なものになりますが、同一箇所についての一回塗附量は少しでもよいから結局から見れば大きな違ひです。加ふるに從來のものゝ如く垂る樣な事がありませんし飮食工業、紡績、其他機業等には極めて適當です。私の見る處では今年十月から景氣が立ちなほります故其頃勢に乘じて世界を風靡する迄奮鬪するつもりです。
私の望みとてはこれのみです。過去は失敗ばかりですし申してお恥しい樣な事もあります。何故に大工場等の研究所にでも入らぬかとの御質問ですかそれには色々の事情もありますが履歴を云ふたり、研究の目的物等についてきかれたりする事がいやですから暫く隱忍しやうと思ひます。亦こうして居れば職業上の祕密が何の苦もなく知り得ます。私は常に前に申しました潤滑料を持つて働いて居ますが電車等が火を出して油が燃えた時等は自分で機械を掃除して自分の油をつけてやるのです。實に具合よくゆきます。

 私は何の勞働組合にも屬して居ませんけれども昨夜等大電職工同盟罷業員の天王寺公曾堂に於ける報告曾に飛び入つて役員の者が警察官が許すまいから止めた方がよからうと云ふのも聽かず絆纏を着た儘でやりました。罷業團も實に單純な處に氣がつかずに居ます。何うせ持久戰となるなら馘首せられた者は他に就職の道を考へなければならず就職とてそんなに一時に出來る譯でもなし諸君は朝日橋なり大正橋なりに立つて勞働を賣れ一日七八百人の人は常に不足して居るのである自分の樣に甞て勞働した事のない者が充分勞働が出來るのであるから諸君に勞働が出來ない事はないと云ふてやりました。

 崇拜する人もありませんが府の池松さんやなんかとは同郷でもあり親しくして居ます。あの人の弟は醫者をしてゐます。長崎の醫專を出た人ですが此人もよく出來た人です。府廳にも居た事があります未だ學生時代に一時休校して府の祕書課にゐたのです。課長は藤井さんと云ひました。いや過去を顧みれば色々な事があります。 (五月十三日)


十番 木材防腐會社職工 廿六歳
------------------------------

 東洋木材防腐に出て居ます。眞空の中に電柱なり枕木なりを入れて藥液を滲み込ませるのですが。私は木材をトロで管の中に出し入れして居る譯です。廣島縣加茂郡川尻の生れで父は私が十五の時に亡くなりました。兄弟は四人で兄が家を繼いでゐますし二人の姉は嫁入つてみます。現制の高等一年迄ゆきました。其後はずつと家業の手傳をしてゐました。

 呉の海軍工廠に入るのが志望ですけれども素人で入つたのでは給料も安いですから先づ大阪で見習ひをしてからと思ふて昨年四月出て參りました。落ちつき先ですか大阪に來て翌日から藤永田の方に入りましたから落ちつき先と云ふてはありません。來た晩は安宿に泊りました。藤永田には寄宿舍の設けがありませんでしたから三軒屋の知人の家から通ひました。給料が安いので本年一月卅一日東洋木材に代りました。今宮職業紹介所の御厄介になつて代つたのです。お名前は何と云はれますか今宮職業紹介所の人事係りの方は全く親切な人です。此處の築港にもお見えになります。身長の高い色の白い方です。

 現在の仕事には適してゐるかも知れませんが私の元來の志望は▼▼盤ですから一時的にやつて居るのです娯樂は柔道が好きで巴投げ背負投げ等の大きな業が得意です。碁が少しやれます、宗教は眞宗ですがお經の文句も知らない程度です。將來は是非とも▼▼盤工として遣りあげなければと思ふてゐます。一人前の▼▼盤工となるには十年は悠に掛りますから其よりも自動車の運轉手にでもならうかとも思ふてゐます運轉手ならば三年もすれば一人前になれますからね。實は今迷つてゐる處です。酒は呑みません煙草が好きです。

 現在の社會觀としては一般に愛國の念が缺乏して居る樣に思はれます。普通選擧等の必要を思ひますし最低賃銀の決定も早くせねばならぬものと思ひます。今度の大電問題に關する意見ですか。資本家側が勞働者側の團體交渉權を認めないと云ひ、官省も強迫的だとか云ふて之を許さないのは甚だ以て解せぬ處です。復職する職工のあるのは勞働者の意氣地無さにもあきれます勞働問題として世間で喧しく論議せられる問題中八時間勞働と云ふは最低賃銀が決定せられた時の事で現在では一般が八時間に勞働時間を短縮せられると勞働者は食つて行けないのですから八時間勞働は最低賃銀が決定せられて初めて意義を生ずるものです。人物として乃木大將、西郷南洲等が好きです。貯金は現に百圓あります。 (五月十四日)


十一番 手傳 卅三歳
--------------------

 熊本縣天草郡本渡町に生れました。家庭との關係は聞いて下さいますな。あまりに悲慘ですから。舊制の尋常小學校を卒業しました。小學校を出てから卅一歳迄は家事の手傳と云ふ事で野菜を作つたり▼▼を飼つたりしてゐました。

 元來私は數學に非常に興味を持つてゐますので其方は是非研究したくもあり他に何事かをもなしたいと思ふて一昨年意を決して出郷したのでした。數學と云ふて今は解析をやつて居ます。本ばかりでは理解し難い點も多々ありますけれど兎に角懸命に研究して居ります。先生について疑問の點を明かにして貰ひたいとも思ふのですが私の樣な者が其道の人をお訪ねしてお急がはし時間のお邪魔するでもなりませんから獨で研究してゐるのです。
任意の角の三等分については久しく研究した結果現在の平面幾何等の作圖法では不可能と云ふ證明がつきますけれど立體の観念を入れて作圖すると云ふ事になれば又別問題で研究の餘地があります。數學を研究して何をしやうと云ふ希望ではありません。只私の止むに止まれの生れつきの傾向に過ぎないのです。私は常に思ひますが世界中の各專門學について重大なる疑問を羅列したものがありませんでせうか。何處に如何な研究家があつて之を研究して居らぬるのでもありません。
又私は勞働日誌をつけたいと思ひます。大原社曾問題研究所等の勞働問題に關する日記體のものとは全然違つて私一箇人の日常生活についてゞすが之を通して社曾の下級勞働者の生活状態や知識の程度等を現し出す事が出來ます。現在學者達勞働者扇動家連の想像も及ばない樣な事を毎日見聞きして居ます。例へば長芋は屹度鰻になる。己は半分鰻で半分が未だ長芋であるのを見た事があると誠しやかに云ひ實際自分も見た事を信じてゐる者等が居て見たりします。男女關係情慾方面の事でも仲々罪の無い例が毎日現れるのです。勞働者の實際状態を知つて居る人は智識階級の人には誰もありませんからね。云はゞ二階からお尻を燻ぶる樣な譯です。
新聞は何新聞でも手當り次第讀みます。英語を好きな處からバイブルを讀み其中の記事に興味を持つのみで宗教については別段の研究を積んでは居ません。佛教の方になりますとから駄目です。娯樂としては撃劔が好きです。一刀流が故郷に盛んですから流派は一刀流練達の士ではなりません。酒煙草は兩方飮みます。肉が好きです。勞働運動とか社會問題とか云ふ事は非常に嫌ひで意見も見解も何もありません。誰も尊敬しません。 (五月十四日)


十二番 遞信局雜役 四十五歳
----------------------------

 私は御調査の目的から見ると極めて不適當な者ですから御免を被りたいのです。卅二年頃は北海道で農業をして居ました。十年程して四十一年の暮代つて夕張炭鑛に入り仕上工を致しました。それから同じ炭鍍の所謂炭鑛なる萬字炭鑛に入り、美唄炭鑛に代り、其處では工夫係りとして職務を取りました。が要するに工夫として其から其へと流れ歩いたのです。それから國に歸り朝鮮にゆき又大阪に舞ひ戻つた樣な次第で其間の事は御推察下さつて精しく▼▼聞いて下さらぬ樣に願ひます。

 新聞は毎日新聞朝日新聞其他。雜誌は何とも定つて居ません。音樂は若い時には俗歌等が上手で人にも唄つて聞かせる方でしたが今では人の唄ふのを聞いて樂しむ位なものです。信仰もなりません。宗教は勸善懲惡を云ふたものと聞きましたが如何なものでせうか。煙草も酒も好きです。現代社會觀、勞働運動等一切無關係です。崇拜する人物はありません。 (五月十四日)


十三番 遞信局臨時人夫 廿四歳
------------------------------

 兵庫縣津名郡由良町に生れました。母はキワとか云ふ人だそうで私は其人の私生兒として生れたとの事です。其後伯父に當る者の貰はれ兒と云ふ事になつて居るそうですが私は戸籍なんて見た事はありません。其伯父は神戸の方に居るとかで私は生みの母にも戸主である伯父にも遇ふた事はありません。そんな事をきいて一々身元に紹介してお調べになるのですか。由良と云へば大阪灣の要塞區域になつて居て町には漁夫が主です。小學校は現制の高等科を卒業しました。小學校を出る迄は何處かに居たのですがそれをきいて。エー。洲本で鐘紡第二工場の給仕を二年か三年かしたと思ひますが。エー。困りましたな。それをきいて。それから由良要填の陸軍病院に。そこには軍醫の人が二人か三人であり。其事を書いて戴くと何分陸軍の方は祕密が多いもので。出郷には何の理由もありません。大正九年十一月大阪に來ました。其前小學校の時桃山に行つた事がありました。

 來て初めて京町堀の職業紹介所に行つて何かよい職業をとお願ひして見ましたが保證人がないからと云ふので斷はられました。九條か何處かの旅館に居た樣に思ひます。友達の紹介で其友達が入る可き筈であつた口に入りました。新聞は何でも好きです。字を書く事が好きです。道徳が一番好きですから訓話や修身も好きな譯です。數學の講義録を研究してゐた事もあります。何も深く考へた事はありません字が得意ですから何處かの書記は適して居るものと思ひます。ゆくゆくは何處かの書記になる積りです。喰べものでは肉類を好みます。

 現代社曾に對する不平。それは何の事ですか。資本家の横暴とはどの樣な事を云ふのですか。資本家を懲して遣る。其樣な事は何もありません。尤も其樣な馬力のある者は我々の仲間には居る譯はありません。そから一寸。前に申しあげた由良要塞病院の軍醫の人數ですがあの事のみは陸軍の事に關係した事故祕密にして置いて貰ひます。 (五月十四日)


十四番 手傳 卅二歳
--------------------

 山口縣豐浦郡豐東村に生れました。父はありません。母は六十五六でまだ生きています。學校は高等小學校を卒業しました。

廿五歳志を立てゝ渡鮮しました。朝鮮元山と云へば大分北の方になりますから大變寒い處です。初めて落ちついた宿は内地人の安宿でしたが私は其處に居て手間をとつて歩いたのです。
左樣明鯛もとれます。日本の鯛とは全然趣を異にして細長い魚です。味も鯛等とはすつかり違つて決して美味しい魚ではありません。乾物にして鮮人が用ひます。其子が鹽辛にしてお正月等用ひる二つ並べたあれです。別に本當の鯛もとれますが之を内地に比して色が黒い樣です。元山附近の風俗とては結婚するのが早くてしかも女が男より年長である事が奇妙です。向ふの女は結婚迄は屹度處女です日本等は私の村は特別かも知れませんが十人が九人迄は處女でないのですが。しかし女は結婚後は大ピラなものですから其限りでもありません。左樣錢の無い者は何時迄も嫁が貰へない樣です。女はあまり働きませんが洗濯のみは熱心な樣です郊外等に行つて見れば天氣な日は河に沿ふて澤山々々洗濯をしてゐます。

 それから一時はやはり京元線の三防驛と云ふに驛夫をして居た事もあります。京城で魚屋をして居た頃は大層儲りました。何時か等は元山で一匹十七錢で仕入れた 甲頭魚【ほうばう】が一圓二十錢に賣れた事もありました。それから臺灣に行つて一つ大資本で精糖をやらうと思つて新高精糖にも居ました。新聞は何と定つた事もなく皆讀みます。小説も新舊何れも好んでゐます。碁將棊も好きです。修養信仰等には無頓着な方です。將來は是非魚屋として立ちたいと思ひます。酒と煙草は嫌ひです。喰べ物は皆好きです。癖と云へば之には一つあります。洞をふく事が一等の樂しみです。社會觀とては大いに働く可しと云ふにあります。崇拜するのは大西郷ばかりです。貯金は四十圓株券が千圓(額面)丈けあります。 (五月十四日)


十五番 仲仕 卅一歳
--------------------

 家は神戸市兵庫塚本にあります。父も母も生きてゐます。家業とて慥しかなものもありませんが兄が働いて生計を立てゝみます。

 學校は舊制の高等小學校の二年迄で行きました。學校を卒業してから直きに川崎造船所に入りました職は取附工と云ふて鐵板と鐵板とを續き合はせる時に鋲をうつ穴と穴とを合せ ▼▼鋲工【かしめ】が來て鋲を打ちさえすればよい樣一切の準備をする役目ですが鐵板の上げ下げに大きな機械を動かす處から隨分危險な仕事で、負傷をする人も澤山あります。私は幸に大きな怪我もせずにすみました。川崎造船所の特色とて職工に對しては特に設備が出來てゐません。社員の爲めには社宅の設備もありますし充分ゆき屆いて居る樣です。

 昨年二月大阪に出て來ましたが之と云ふて目當てのあつた譯でもなし最初藤永田前の服部と云ふ親爺(親分)の家に止宿して藤永田にも入らうとしましたが採用にならず三日四日何か職がないかと思ふて彷徨しました。困りぬいた末雜魚場で弱々しい人が車を引いて歸りかけて居るので其車を私に引かせて呉れませんかと頼みますと永久的の考なら今後長くお願ひすると云はれますので其後今日迄お願して居ます。仕事は朝早く雜魚場の卸問屋から野菜を車に滿載して築港の主人の店迄で牽いてゆくのが日課ですそれから晝時迄で店の手傳をして客に賣つた物を包んでやつたり其邊掃除したりして晝になれば歸つて來ます。それから夕の四時迄が暇で困ります宿泊所の方には歸れず暫く活動寫眞にでも入れば三十錢なり四十錢なり要ると云ふ樣なものですしもう少し暑くなつたなら屋臺を出して築港邊で氷屋でも始める孝へです。ゆく/\は青物屋の店を出す考ですが千圓要るものなら千五百圓も持つて掛らねばならないので仲々骨が折れます。尤も止むを得ぬ時は父に願つて助けて貰ふ考ではあります。
 新聞は毎日新聞朝日新聞等です。音樂と云ふて大正琴を奏いたり、ハモニーカーを吹いたりするのが好きです。將棊や碁もゆき方位は知つて居ます。運動では相撲が好きでカブリが得意です。下に潛つて兩褌を取ればどんな人でも覆します。

 信仰とて淨土宗と云ふ事になつてゐますがそう信心に熱心な譯ではありません。何しろこう十錢で宿めても載ければ湯にも入れて戴ける有難い處に居りますから不平も不滿もありません。それに築港の主人と云ふ人も分つた人で賃銀如きも雜魚場から車を牽いてゆけばポンと二圓は出して呉れますし私はあんなサツパリした方に使はれてゐる事を感謝してゐます。

 煙草が好きです。酒も少し遣ります。菓子類特に饅頭が好きです。
 世の中に對する考等は何も持ちません。勞働問題等に對しても何等考を巡らした事がありません。今の主人を有難いと思ひます。 (五月十五日)


十六番 造船所職工 廿四歳
--------------------------

 生れは佐賀市本庄町だ、父は四十五で母は四十六だ。學校は尋常小學校六年を卒業したが學校は嫌ひなので勉強は何と云ふても褒められたことはない。

 小さな時にあつた出來事とて何もないが父が父の姉さんの亭主を殺した。姉さんには子も七人程あつたのだが亭主と云ふのは大の呑助で、他に女を持つてゐて出刃で姉さんを強迫しては姉さんの小さな店からの收入を悉皆取つてしまふのが常であった。子供は着るに着物もない樣な有樣であつたから何時かの夜亭主が例の通り姉さんを強迫して居る處に躍り込んで斬り殺したのだ。姉の危急を救ふたと云ふ事にもなり亭主の惡人であつた處から刑も最も輕く三年と云ふ事で出獄したが、當時十五の私を先頭に五人の兄弟を懷いて、母は大分苦勞をした。

 其樣な悲境にあつたから私は出郷前已に谷口燐寸工場と云ふに通つて家計を助けて居た。ところが廿一歳の暮全工場四百人程の中、我々の工場に働いてゐる七十名が率先して賃銀値上げの運動を起したので全部馘首と云ふ始末になつた。理由は一部の賃銀を上げれば全部上げねばならず其樣な事を云ひ出したものを殘して置く事は將來に惡例を殘すから將來の見せしめの爲めに解雇の擧に出てたものである。其爲めに出郷の止むなきに至り職を求めて神戸に來て小河製罐工場に働いて居たが賃銀が安くて將來の見込みがつかないから大正八年九月友人につれられ、當宿泊所に來て同じ友人の通ふてゐる藤永田に出る事となつた。平均二圓五十錢位になる。

 新聞は毎日新聞を讀む。本は嫌で讀まない。活動寫眞や芝居は好きだ。相撲も好きだが弱い。信仰は無い。希望とては現在の仕事を貫いてゆく積りだ。煙草は嫌ひだが喰べ物呑み物は皆好きだ。別段の嗜好は無い。

 勞働運動には多大の興味を持つて居る。勞働運動とは勞働者の衣食住の安定をはかる事と解雇手當てを澤山呉れると云ふ樣な事である。己は大阪造船組合に入つて居るが同組合に入つてから僅か十日にしかならぬから組合役員等には知己を持たぬ。此頃大電問題で寄附したかと云ふのか己は五十錢でした。五十銭位の寄附で米廿五俵にもなるかと云ふのか。己は五十錢だが五圓の人も十圓の人もある。思ひ思ひに寄附するのだ。惜しくないかと云ふのか。お互の事であるから仕方がない。大隈侯が偉いと思ふ。 (五月十五日)


十七番 造船所職工 廿三歳
--------------------------

 香川縣綾歌郡岡田村に生れました。父は五十母は四十七で共に生きてゐます。家は代々百姓。私の村は農村ですが田畑を作る傍ら米を入れる 叺【かます】を作る事が副業で全部やつて居ます。叺の値段等は何の位になつて居ますか一時は隨分儲かつたさうです。叺は先づ蓆を作つてそれから作るものですが一人一日十五六枚の處が普通です。養蠶もやります。

 其他地方特有の風俗としては巡禮接待と申しまして大きな家なら一軒でやつてゐる家もありますが小さな家になれば數軒集つて一團となり財を集めて巡禮の爲に茶菓を供し御飯なり米なりを布施する仕組になつて居るのです。それで巡禮をして居りさえすれば別に食ふに困る事はない譯です。それから小さな折に聞いた話ですが未だ父達が若かつた時分にイゝヂャナイカと云ふ事が何處からとも無く流行して來たものなそうでイゝヂャないかと云ふては店の喰物等を取つて喰べると其店の者は決して之を拒む事が出來ないのなさうです。拒む事が出來ないと定めたのは誰だか知りません。店の物を喰べられたものが今度は酒屋に行つて酒を呑んでもイゝヂャないかと云ふて酒を呑む、呑まれた酒屋は向ふ通る娘の手を捕つてイゝヂャないかと云ふ有樣此イゝヂャないかが主として男女關係に適用せられて皆は店を棄て働く事を止めて二箇月程イゝヂャないか/\と云ふて浮かれて廻り世の中はサテ如何なるものになるならんと思はれたと云ふ事です。村での變つた事とてはそんな事を聞いた位のものです。があれはどうしたものでせうね。
十八歳の時西野田の親類に手が足らぬからと云はれて手傳ひに來ました。其處は藥屋を營んでゐますが故あつて四ヶ月程して其家を出ました。其後はある人造肥料店に働いてゐました。燐酸、窒素肥料、豆粕、鰯等を商つてゐる店でしたが二年程して其處も都合があつて出ました。一時藤永田に居た事もあります。廿才の春から新田造船所に通つて居ます。友人が働いて居る關係から紹介せられたのです。當初は其友人が宿つてゐる三軒屋の素人下宿にゐました。其頃は月に百二三十圓の收入がありました。去年から常傭で貰ふ樣になり、今では日に平均二圓六十錢位になりませう。此處の宿泊所には廣告で見て一人で來ました。

 強健で働いてゐます。新聞は大阪毎日、雜誌は面白クラブを讀みます。芝居は新派の方が好きです。圖書館にも時々行つて小説等讃んだりします。信仰はありません。澤山貯金をして國に歸らうと思ひます。酒煙草は嫌ひです。菓子果物が嗜きです。世の中の事は何も考へた事はありません。 (五月十五日)


十八番 仲仕 卅四歳
--------------------

 朝鮮慶尚南道金海鳴旨面新田里に生れました。父は六十七、母は七十二。御存じの樣に朝鮮では養子をしますが私も養子です。兄が二人あつて私は三男と云ふ事になります。卅一歳の年に商賣に損して朝鮮で働いてもよいが日本語が出來る處から釜山の内地人に雇はれてゐました。

卅二歳の一月釜山から大阪に來ました。大阪窯業會社に働く約束で友人に誘はれて來たのです。三月程して其處は賃金があまりに安いので之も友人の紹介で商船曾社に勤める事となり、宮崎丸に乘り込みました。別府ゆきに紅丸と云ふのがあるであらうと云はれますか。それはどんな船でも澤山ありますが私の乘つたのは宮崎丸で宮崎縣臼杵、佐伯、細島等を廻航して歸ります。一昨年十一月それも止めて仲間の親分藤原伊造の乾分となりました。乾分は全部で十八人居ます。其間三人が鮮人で私も其一人と云ふ譯です。仲々物の分つた親爺で此春私が國に歸る時でも、それでは大事に行つて來いと云ふて心付を呉れました。其れに行つて歸つたら他處に行つて苦勞するよりも自分の處に來て働くがよいと云ふて呉れましたから私は歸つても又其處で働いてゐます。内地人でも鮮人でも藤原の親爺の處に居れば賃銀にも其他の事でも少しも差別をつける樣な事はありません。

 力はないけれども身體は大丈夫です。讀書は好きでもする暇がありません。浪華節は好きだがよく文句が分りません。活動は大好きです。煙草は嗜き酒も少しは飮みます。喰物は何でも好きです。

 朝鮮獨立もよいが私共は働いて喰べて寢てそれに金でも儲かれば何も要りません。賃銀は一日二圓平均ですから衣食には充分です。將來とも今の土方をやらうと思ふてゐます。何にも望みはありません。 (五月十六日)


十九番 造船所鐵管工 五十二歳
------------------------------

 藤永田で鐵管工をして居ます。此間東京から市長が來ました。東京市からのあの鐵管は非常な失敗で先に發送した鐵管の大きさと後から送つたものとの大きさが違つた爲め落第と云ふ事になり皆鑄更へて居ります。型の寸法を間違つたのではありませんけれども粘土の性質を代へた爲が鑄鐵の種類が違つた爲か何かで出來上りの大きさに差を生じたものです。

 國は高知縣安藝郡奈半利町です。兩親とも無くなりました。家は代々百姓ですが私の昔についてはお話する事が▼▼りません。父が私の十八歳の時になくなり私は十九歳の時に嫁を貰ふて戸主となり、母は私の廿五歳の時に亡くなりました。其後子供が三人あつて五十一歳、去年の四月迄は國にゐました。國の名産は唐芋お米等でお米は私共の邊十五里が程は一年に二回とれます。其外葡萄養蠶等中々に盛です學校は尋常小學校を卒業したのみです。

 出郷の理由は申しあげ兼ねます。ともあれ私の子供が此處の築港宿泊所に置いて戴き乍ら巡査を勤めて居ましたので、それを頼つて參りました。子供は只今福島署の方に勤めてゐますが今から全然子供の厄介にもなりたくなし働いてゐます。最初は原田造船所に出ましたがそれは間も無く解散となつて市役所の築港に於ける市營住宅の方に手傳ふ事になりそれも建て終つて友人の紹介で藤永田の方に働く事になつたのです。賃銀の關係は原田造船所に居た頃は景氣のよい時分で日に二圓七十錢それに手當も加へれば月收九十圓を下る樣な事はありませんでした。解散の時ばかりは如何にとは云へ解雇手當の一文も無かつたので仲間の中には不平の者が多ふございました。市營住宅を建てる時は二圓宛戴きました。今は一圓七十錢で他に何もありません。

 新聞は何新聞となく讀んでゐます。音樂は淨瑠璃。娯樂は相撲が好きで自分でも少しはとります。宗教は一向宗ですがお經の文句も知りません。お寺には時々參ります。將來は是非大工の方に代りたいと思ひます。煙草は嗜きです。酒は飮みません。餅では雜煮が嗜きです。
 つまらないものでして世の中の事の善惡少しも分りませんけれど勞働運動はよい事だらうと思ひます。 (五月十六日)


二十番 棉花曾社荷造り 廿六歳
------------------------------

 大阪府南河内郡道明寺の生れです。道明寺と云ふ寺があります。此寺は尼寺で尼樣は十人程居りますそうです道明寺粉と云ふのは此尼寺で造る粉で尼樣達が誰にも見せないで祕密にやつて居ます。これは梅の花形で六七寸位の細長い小さな袋に入れたものですが大變病氣の爲めに効くものです。値段は一個三四十錢位なものと思ひます。

 父は六十一母は六十いづれも達者で生きてゐます。家業は農業で兄弟は六人最初が女で後は男のみです。故郷を出た事情とては兄さんも大阪に來て働いてゐる處から十七歳の春に兄さんを頼つて來たのです。最初難波の伊吹と云ふ傘屋に働いてゐました。洋傘の附屬品を送つてゐるのです。洋傘の附屬品製造では私も一通の腕を持つてゐます。軍隊に入つて二年。出て見たら世が不景氣で傘屋も暇で仕事がないと申しますから又仕事が急がしくなる迄と云ふ約束で日本棉花株式曾社の築港倉庫に入つた次第です倉庫の仕事は船場の工場から送つて來た製品を一回解いて檢査をし異常のない場合に再び荷作器で荷作りして倉庫に保管するのです。現在倉庫には一千萬圓位の品は入れてある樣な話しです。尚一日に出入する品物の價額は入五六萬圓出五六萬圓位のもので棉絲棉布の送り先は印度米國等外國が主な樣です。賃銀の關係は傘屋にゐた時は二圓五十錢宛でした。今一圓四十錢賞與は半期々々に六七十圓位です。

 持病に脚氣がありますが田舍で靜養したらよくなつた樣です。新聞は朝日新聞が好きです。雜誌其他は仕事が急がはしくて讀めません。信心は稻荷樣と妙見樣です妙見樣は國の方の山にあります。
 勞働運動はよい事もありません。崇拜するのは傘屋の主人です。 (五月十六日)