「お笑い」と共存できない反差別社会は不毛であるーへの質問状

松原隆一郎様

釜ケ崎差別と闘う連絡会議・松繁逸夫

突然、面識のない松原さんにお手紙を差し上げ、お忙しいところ貴重なお時間をお取りいたしますことを、最初に、お詫び申し上げます。

もっとも、お手紙を差し上げることになったのは、松原さんが『宝島30』にお書きになった『「お笑い」と共存できない反差別社会は不毛である』の中で、
私も関わったテレビ東京への差別映像糾弾のことが、極めて事実を歪めて取り上げられており、
制作・放映関係者と私たちが、互いに誠意を持って話し合ったことが無になる形で世間に広められたことにありますから、あながち、突然お手紙を差し上げることが非礼にあたるとは言えないと思っております。

『宝島30』の担当編集者に電話で、テレビ東京側が納得しないままお詫びのテロツプを流したとされているのは事実誤認である、そのことを著者の松原さんと直接話をしたいから連絡先を教えてもらいたいとお願いしたところ、

そのようには書かれていないと思うし、私も松原さんもテロップが流れたのは互いに良く話し合い、納得された上のことだと理解している。

浅草橋のことは、読者に身近な話として関心を持ってもらうために取り上げたもので、中の論議はそういった具体例とは離れたもっと一般的なこととして展開されている。具体的事実と違うと言われても、それは読み方の違いとしか言いようがない、と答えられた。

その上で、どうしろと言われるんですか、と聞かれたので、やはり、松原さんもあなたと同じ考えかどうかを確かめたい、と伝えると、文書を出してもらえばこちらで検討するということでした。

「宝島社」を通さなくても、連絡することは、勿論、できるわけですが、「宝島社」の担当編集者の手を経、『宝島30』を媒体として世間に広められた事柄に関することですから、「宝島社」を通し、担当編集者共々お考えいただき、お答え願うべきが筋だと考えましたので、担当編集者経由でお手紙を差し上げることになった次第です。

「対話不能」に陥ることを避けるためには、いささかくどくとも、丁寧に私の考えを伝えることが必要であろうと考えます。従って、長い手紙になると思いますが、ご一読の上、ご返書、お認めくださいますようお願い申し上げます。


@188頁上段17行〜20行

「先に挙げた三つのケースでは、差別の存在について糾弾する側が認定しているだけで、差別したとされる側がそれを納得していない、という問題がある。」

「先に挙げた三つのケース」の一番初めに、『浅草橋ヤング洋品店』のコーナーにまつわる話が紹介がされていますから、ここで言われている「糾弾する側」には、私も加わっていた『「ヒッピーはヤッピーになれるか」を考える会』が含まれており、「差別したとされる側」には「テレビ東京」が含まれていることになります。

そうすると、ここの部分では、…差別の存在について『「ヒッピーはヤッピーになれるか」を考える会』が認定しているだけで、「テレビ東京」側がそれを納得していない、という問題がある…と書かれていると理解されます。

テレビ東京が納得していないという確かな根拠があって、そのように書かれたのだと思います。

しかし、私としては十分とは言えなくとも、精一杯、対話し、双方が納得して結論にたどりついたと認識しており、その認識はテレビ東京側とも共有していると確信しています。

従って、根拠が示されないでテレビ東京側が納得していないと社会に広く伝えられる事は、事実をねじまげて伝えるものであり、関係者の対話努力を土足で踏みにじる行為であると言わざるをえません。

松原さんがお持ちの根拠を、教えていただきますようお願いいたします。また、誤読であるとされるのであるならば、どのように読み取るべきかご教示いただきますようお願いいたします。


A194頁下段6行〜7行

「こうした点について、糾弾の言葉を振り回さずに忌憚のない意見の交換をすべきだったと思う。」

ここでは、…『「ヒッピーはヤッピーになれるか」を考える会』が糾弾の言葉を振り回すばかりで、忌憚のない意見の交換をしなかった…と書かれています。

『「ヒッピーはヤッピーになれるか」を考える会』と「テレビ東京」・「テレビ大阪」は、お互いの情報の不足から話が混乱するのを避けるためのものを含めて、4回話し合いの場を持ちました。

私は4回すべてに同席し、司会者として忌憚のない意見の交換の促進に努めたつもりです。一方的な吊るし上げでなく、相手の言うことを聞き、討論したうえでの合意をめざす、というのが「会」の方針でもありました。

「こうした点について、…忌憚のない意見の交換」がなかったとされていますが、どのような根拠で書かれたのか、松原さんがお持ちの根拠を、教えていただきますようお願いいたします。また、誤読であるとされるのであるならば、どのように読み取るべきかご教示いただきますようお願いいたします。


B186頁上・中・下段で@として紹介されていることがらについて

イ・「公園などの野宿者・浮浪者を入浴…」と書かれていますが、私たちの話し合いの中では「浮浪者」という言葉は使われていませんでした。

松原さんが、「野宿者」と「浮浪者」を二つ並べておられるということは、「野宿者」と「浮浪者」は違う存在であると考えられておられるか、あるいは、「野宿者」という言葉だけでは読むものに情報を伝えきれないと考えられたかのいづれかであろうと考えられます。

そこで、「野宿者」と「浮浪者」の違いについて、教えていただきたい。

「野宿者とは浮浪者のことである」と補わなければ読むものに情報が伝わらないとお考えになったのなら、そうすることによって補われる情報はどのようなものであるのか、お教えいただきたい。

ロ・コーナー名を「ヒッピーからヤッピーへ」とされていますが、これは正確ではありません。「ヒッピーはヤッピーになれるか」という問いかける形のものでした。

この二つを比べた時、それぞれから受け取る印象は異なるものがあります。

「ヒッピーからヤッピーへ」からは、社会的立場の移行あるいはその可能性または呼び掛けなどが感じられます(ここでは、とりあえずヒッピーやヤッピーが差し示すものについては横に置いておきます)。少なくとも、「ヒッピーからヤッピーへ」とは、どういうことをなんだろうか、という疑問を喚起するに留まるコーナー名であろうと思います。

それに引き換え、「ヒッピーはヤッピーになれるか」は、疑問形であることから、見る者に「なれる」かどうかを考えることを誘います。

それは、次のようなものになると想定されます。「ヒッピー」とは、「ヤッピー」とはどんな人達を指しているんだろう、「なれるか」とあるから、現実には「なれない」のだろうが、「なれる」可能性は少ないということなのだろうが、どうするのだろうか、など。

そして映像を見て、「ヒッピー」とは「あの人達」のことなのか、「あの人達」が「ヤッピー」になれるわけはないし、これはやはり非現実の着せ替え遊び、見せ物なんだ、それにしても、着せ替え前後の落差の甚だしさは笑える。「あの人達」が「ヤッピー」を気取るのがなんとも滑稽だ…と。

いささか深読みに過ぎると松原さんはお思いかも知れませんが、二つのコーナー名が同質のものではないということには同意していただけるのではないでしょうか。

松原さんが勘違いされて書かれたと思うには、違いが大きすぎるように思え、コーナー名を変えて伝えたことになにか意図があったのではないかと想像されます。

私たちは、話し合いの中で、コーナー名で野宿者を「ヒツピー」と名付けたり、また、「なれない」ことが明かであるにも関わらず「なれるか」と問いかける形にしたことにこだわり続け、結局、対比を強調し、より笑いを増幅するために付けられたもので、企画段階で野宿者への差別を前提にしていた証であると主張しました。

それだけに、勘違いとは思いきれないのです。松原さんとは無縁の、私の側のこだわりにすぎないかも知れませんが、コーナー名を誤記したことの経緯あるいは思い当たる事などを、お知らせいただければと思います。

ハ・『「ヒッピーはヤッピーになれるか」を考える会』からの批判点を「などが批判されたらしい」と、不確かな形でつたえられています。

批判点の要約は、次のようになっていました。

「若者が衣裳替えをする際に入浴はしないのに野宿者の場合にはさせる、アメリカのエリート・サラリーマンであるヤツピーと比較するのはことさらに落伍者として印象づける」

前段部分について言えば、若者の着替えは日常の選択の範囲内であるが、野宿者の元の衣裳は、野宿者の選択というよりも野宿という状況によって決められているもので、野宿者に選択の余地はない。その違いを見極めず同列に扱い、野宿者の入浴・散髪の場面を挟んで、ことさらに「汚さ」を強調し、着せかえ前後の比較場面の笑いを倍加させるような演出をしたことが、野宿者を侮辱し、差別したものだと批判したのです。

松原さんは、私がAで指摘した文章の直前に、「そもそも他の若者同様、風呂に入れずに野宿者のファッションショーでもやればよかったのだろうか。」と書かれていますが、「こうした点について」は意見交換したことになりはしないでしょうか。

後段部分について言えばBの(ロ)でのべましたが、それ以外にも具体的に流された映像に基づいての指摘もおこなっています。

ベンチに腰掛けていた野宿者が、着せかえを終わった後で元居たベンチのところへ、進行係のタレントと戻った時に、タレントが聞きました。「これからどうされます」、「ここへ坐ってます」「ここへ座りますか、(テレビ・カメラにむかって)、また、ここに坐るんですって」(爆笑)。

野宿者は野宿をせざるをえない情況にあるからこそ野宿者なのです。服装が変わったからといって、その情況が変わるわけではありません。そんな分かりきったことを、ことさらに尋ね、繰り返して強調して笑いを誘った行為・映像は、野宿者を無能力者・落伍者として印象つけ、差別を助長するものであると指摘したのでした。

松原さんの要約は、具体的映像に基づいた批判という批判点の基本を捉えていないものであると言わざるをえません。

だから風呂に入れたのが悪いなら、風呂に入れなかったら良かったのかなどという見当違いの意見も書かれるのだと思います。

自分の認識が不十分であるにも関わらず、他者がなした行為に「糾弾の言葉を振り回さずに忌憚ない意見の交換をすべきだったと思う。」と、単に思っただけでなく社会的に広く発言なさることは、無責任な行為であると考えますが、松原さんご自身は、どうお考えですか。

ニ・松原さんは195頁に『自由に相互の批判を行うようなコミュニケーションの質を高めるには、礼儀が必要だろう。差別語は、礼儀を失しない範囲で用いられなければなら ない。哲学者のオルテガも、「あいさつは社会の本質である」と述べている』と書かれています。

これまで述べてきたところでは、松原さんは「糾弾する側」としての『「ヒッピーはヤッピーになれるか」を考える会』を批判されていると判断するのは不当なものではないと考えます。それにしては「あいさつ」がなかったのは、どうしたことでしょうか。

担当編集者によれば、新聞記事などによって書かれたということで、「テレビ東京」にも『「ヒッピーはヤッピーになれるか」を考える会』にも問い合わせをされていないようです。「コミュニケーションの質を高める」「礼儀」を失した行為ではないのでしょうか。

それとも松原さんは、「糾弾される側」と「糾弾する側」の対話不能状態を第三者として評論しただけで、批判と読めるところも実は批判ではない、「糾弾する側」とのコミュニケーションを前提として書いたものでもないから、一方的であれなんであれ、当事者に確認するまでもなく自分が知ってる範囲で、自分の議論展開に必要なように使えば良いとお考えなのでしょうか。

『宝島30』は、そういう対話拒絶を前提として意見を発表するには最適の媒体である、との判断なのでしょうか。

もっとも、松原さんの想定されている「礼儀」と、私の想定する「礼儀」が同じものであるとは限りませんから、これは一方的言いがかりということかも知れませんが。だとすると、引用文章の後に引き続く天皇制論議は、どういうことになりますか。お考えをお伝えくださるようお願いいたします。


C「糾弾する側」・「糾弾される側」について(@の補足)

188頁上段の「差別したとされる側」とは、松原さんやあの番組を見て多少でも笑った人、視聴者などのことであり、具体的に「テレビ東京」などの当事者を指しているわけではない、と、担当編集者から「解説」を受けました。

それは、引き続いて“『浅草橋〜』の場合、制作側は陳謝する、と「お詫び」のテロップを流したが、視聴者にはどう映っただろうか。”と書かれていることで明らかである、とも…。

では、斎藤氏や中野氏の場合では、「差別したとされる側」とはどのような人々を指しているのでしょうか。また、この場合の「差別したとする側」は誰のことでしょうか。

「先に挙げた三つのケースでは、」と書かれているのですから、『「ヒッピーはヤッピーになれるか」を考える会』や小森龍邦氏や「読者投稿」した人たち、ということになるのでしょうが、

「三つのケース」でなされたのは具体的差別事象を巡っての直接の行為責任者に向けて行われた指摘・批判であり、松原さんや視聴者・斎藤氏や中野氏の支持者に直接向けられたものではありません。

もし、「差別したとされる側」を松原さんや視聴者・斎藤氏や中野氏の支持者まで含むものと枠を広げるのであれば、「糾弾する側」の枠も広げられなければ釣り合いがとれないでしょう。

「糾弾する側」には『「ヒッピーはヤッピーになれるか」を考える会』や小森龍邦氏や「読者投稿」した人たちに同感する人たちが入ることになるでしょうし、「テレビ東京」の担当者も、差別事象であったことを認め、事後に野宿者差別を緩和するためにいささかでも貢献するため、ニュース番組で企画を立てて放映しているのですから、広げられた枠である「糾弾する側」に入れてもおかしくはないでしょう。

とすると、「糾弾する側」というのは「差別事象に気付いた人たち」、「差別したとされる側」というのは「差別事象に気付かない、あるいは認めない人たち」と言い換えることができるでしょう。この両者の位置は固定的なものではないことを前提として。

結局、松原氏は、…先に挙げた三つのケースでは、差別事象に気付いた人たち、その人たちの主張に納得した人々以外の、差別事象に気付かない、あるいは認めない人たちが、納得していない、という問題がある…と、書かれている、いや、そう書いたつもりでいるはずであるということになるでしょうか。

もっとも、「テレビ東京」の関係者も本当は納得していなかったのだが、「あっさりと陳謝する」「という典型的な戦略をと」ったにすぎない、視聴者にもそう映っていると、素直に読めばそう読めるように元もと意図して書いているのだ。担当編集者の「解説」は私とは関係がない、と松原さんが主張されることは考えられます。

そうでなければ、後のご自身の論議に結びつかなくなりますから。

188頁中段に、「差別に関する我々の意識向上にはつながらない。そこには、糾弾する側・される側の間には、対話不能状況、ディスコミュニケーションの深い溝が横たわるばかりだ。」とあります。

これに先の言い換えを当てはめると、…差別事象に気付いた人たち、その人たちの主張に納得した人々と、差別事象に気付かない、あるいは認めない人たちの間には、対話不能状況、ディスコミュニケーションの深い溝が横たわるばかりだ。…と書かれていることになります。

また、「我々」にも先の言い換えを当てはめると、「我ー松原さん」は、「差別したとされる側」というのが前提でしたから、…差別に関する差別事象に気付かない、あるいは認めない人たちの意識向上にはつながらない…となります。

しかし、『浅草橋〜』の場合は、当初、差別事象に気付かない、あるいは認めない人たちが、差別事象に気付いた人たちと対話し、その人たちの主張に納得した人々ー差別事象に気付いた人たちになったのですから、対話不能状況、ディスカミュニケーションの深い溝が横たわっていたのではないことになります。松原さんのこの部分の指摘は、自己破綻することになります。

これはやはり、ひどい誤読といわざるをえないでしょうね。

松原さんがお書きになったのは、…テレビ東京は納得していないのに謝罪した。それに見られるごとく、糾弾する側・される側には対話不能状況にあるのだ。だから、当事者でない我々には何が問題であったのかが充分に伝わってこず、全体として差別にかんする意識の向上につながらないのだ。…と、いうことでしょう。

ひょっとすれば、テレビ東京云々とは切りはなした一般論をいっている箇所だ、と、言われるかも知れません。

いずれにしても、松原さんの今回の論稿に『浅草橋〜』の事例をとりあげられたことは不適切であり、テレビ東京の関係者や「ヒッピーはヤッピーになれるかを考える会」に参加した人々を不当に侮辱したものであるとされるべきでありましょう。そのことを、松原さんもお認めになるだろうと考えますが、いかがでしょうか。

これまで述べたことを、すべて無にする解釈もあります。

「糾弾する側」を差別事象について積極的・社会的に発言する人々というように極めて狭い範囲に限定し、一方、「差別したとされる側」を、マス・メディアに関わり差別糾弾される可能性のある人々や視聴者、読者など、先に狭く限定した「糾弾する側」以外の、すべての人々を含むものとして最大限に拡大して規定している、との解釈です。

この場合、「糾弾する側」は常に少数者に留まります。なぜなら、「糾弾する側」で想定される被差別者相互間でも、時として、「糾弾する・される」関係になることがあるからです。「差別したとされる側」は、常に多数者になります。

とすれば、松原さんの論稿を、差別をめぐっての積極的少数者と受動的多数者との間に対話不能状況があることについての考察であり、どちらかといえば、少数者の側の対応に対話不能状況が生じた責任を認めている立場で意見表明なさっているものである、と要約しても大きく的を離したものであるとの批判は被らないものと考えられます。

さらに言葉を補い、松原さんが論稿の中でなさっているように意訳を重ねるなら、

…最近、「お笑い」について積極的少数者からの差別糾弾が目立っている。

その動きは、「お笑い」を楽しんでいる受動的多数者には理解のできない不愉快なものであり、「お笑い」を楽しむ生活がかきみだされる不安な動きである。

よく知らないけれど、差別糾弾は「乱暴」な「紋切り型」のもので、まともな対話がなり立たず、糾弾された側は謝るしか逃れる方法がないというではないか。

これは「自由」に対する許しがたい侵略行為である。

「自由」は守らなければならないのだから、積極的少数者に忠告する必要がある。

「生活世界の中で自由が差別を生むのを恐れず、そこから平等が育つのに希望をつなぐべきだ。」「礼儀」を保って、抽象レベル、市民モラルとして、差別なき社会の実現をお願いし続けていれば、きっと、「異質なものを排除するようなシステムとしてではなく、異質なものを共存させるようなシステムとして」日本「社会を構成する」「天皇制」が現れ、天皇の下、差別なき平等社会が実現するであろう。

日本民族以外の諸民族との付き合いにおいても、その諸民族の持つ日本民族との差異、「過剰な」ところを「おおみこころ」の寛大さで「引き受け」れば、「イデオロギー衝突の危機が去り、」「文明の衝突」も回避されるであろう。…ということになりましょうか。

(これはもちろん「お笑い」です。)

簡単に言えば、情緒的不安あるいは不満を基に稿を起こし、情緒的であるがゆえに不合理・不条理な言動を重ねたものが、松原さんの今回の「お仕事」だったということです。

その点についての指摘は、@ーBまででも充分だと思いますが、それ以外にも具体的に指摘することができます。

しかし、あまりにも時間を置くことになりますので(担当編集者に電話してから、もう一月になろうとしている)、それは次のお手紙にしたいと思います。

誠に勝手で、中途半端な手紙を差し上げることは、正しく「礼」を失したことではありますが、それだけ真剣に松原さんの論稿に取り組み、対話したいと考えていることの現れとお受け取りの上、お許しくださいますようお願いいたします。

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