差別の構造について思うこと
テレビ東京常務取締役 制作担当
人権・放送倫理委員会委員長 倉益琢眞
「浅草橋ヤング洋品店」のコーナー企画として、昨年夏に放送した「ヒッピーはヤッピーになれるのか」の差別性について、主に釜ケ崎で組織された「ヒッピーはヤッピーになれるかを考える会」の方がたと、数度の確認会において話し合いをさせていただいた事は、
私にとってのみならず、私どもテレビ東京や系列各局にとっても大変貴重な経験であり、また何よりもそれを通じて、改めて差別の問題を考える機会ともなりました。
その話し合いの内容を改めてここに再現するよりも、話し合いの中で、特に私が強いインパクトを受けたことを書かせていただきたいと思います。
それはかつての横浜・寿町の野宿者襲撃事件についてであります。野宿者をおもしろがって襲撃し、ついには殺人にまで至らしめたその事件について書かれた「日雇労働者差別と教育問題」(1984・8・24、当時の釜ケ崎日雇労働組合執行委員、久保利明氏)の論文を読んだ時です。
この中で特に私に大きな衝撃を与えたのは、ジャーナリズムの多くは、襲撃をした高校生達の置かれた境遇、学校教育や家庭教育のあり方を問題にしている中で、ある女子高校生の新聞投書として紹介されていた文章です。この少女は、次のように指摘しています。
『横浜で浮浪者を殺した少年達は、いま世論のフクロだたきにあっていますが、あの子たちを一方的に責める大人たちもずるいと思います。駅の人が浮浪者にバケツの水をぶっかけて追い散らしたり、警官が野良犬でもしかるようにどなったりしているのをたびたび見見ました。大人が悪いお手本を見せながら、いまになって理性の弱い少年たちを血祭りにあげているみたい。』(83・2・20、毎日新聞)ー久保氏の論文からそのまま引用ー
私なりに解釈すれば、人を傷つけたり、ましては殺したりしてはいけないという倫理性についての学校教育のあり方の問題ではなく、社会全体が野宿者を余計なもの、在ってはならないものとして扱っていることを、加害者の少年たちは常日頃から感じ取っているのではないかという指摘だと思います。
私には、この女子高校生の投書の指摘は、社会の中の差別の根源を鋭く突いているように思われました。そしてこの女子高校生が指摘する差別の図式は、暗黙のうちにいつの間にか出来上がった社会の約束からはみ出した者を抹殺してしまおうとする、差別の根源に位置する図式である事を思い知らされたと云って良いでしょう。
部落差別も、マイノリティーである先住民差別も、身障者差別も、あるいは外国人差別もこうした図式の中で成り立っているのではないかと思い当たったのです。
今回「ヒッピーはヤッピーになれるかを考える会」から、野宿者差別の指摘を受け、話し合いをしている最中に、この女子高校生の投書を見た瞬間から、差別指摘の正当性をはっきり認める気持ちになったのは事実です。
われわれは、いかに抗弁しようとも、野宿者をいわゆる一般社会に属さない人間として見ていたという意識構造ーこの中にある差別性を否定することはできません。
人間は複数になれば相手に対して優位性を持ちたがる本質的に差別性をもった動物ではないかと思います。しかし一方で、人間は智恵を持った動物であり、差別された側の痛みに思いを至すことのできる動物でもあります。
差別される側の怒り、差別する側の心の中の検証、この作業は人類が存続する限り続けられなければならないものであり、人間が乗り越えていかなければならない基本的な義務であると思います。
番組差別問題について
(株)テレビ東京「浅草橋ヤング洋品店」
プロデューサー 伊藤成人
第一回の確認集会の冒頭で、司会の松繁氏は、「私達自身もまた、いつ差別する側に立つかもしれない。差別を問うとは、自分の中の差別意識を問うことと、自ら痛みを感じたものを他者に問うことだ」と述べられました。
今回の問題は、私達制作者自身に内在した差別意識と、社会的差別を前提とした笑いの企画であることについての基本的認識の誤りによって起こりました。
「自分がそう思わずに差別するのが差別である」「(差別的な)現象を現象として映せば、それは差別である」…数次の集会のなかで、鋭く指摘された言葉です。
野宿せざるをえない人々に対する差別を前提とした笑いの企画であった、と自己批判するに至るまで、私達制作者は、各人少なからず自問自答を繰り返しました。みずからの差別意識を自己切開するということは、非常に難しいことでありました。
「笑いと差別」という大きな問題は、まさに芸能や娯楽のあり方に及ぶ本質的な課題です。
今回明らかにされたことは、差別を前提とした笑いこそは最も許されざる笑いであること、それを以て観客の笑いを誘おうとすることは最も恥ずべき芸能の姿であること。
アンダーグラウンドであれ小劇場であれ、ましてマスメディアに於いて差別を笑いの手段とすることは、広く社会に差別を拡大助長するのみならず、人類の生存や尊厳そのものを危 うくする行為であるということでありました。
差別の多くが歴史的社会的に意図的に生み出されてきたものであり、また存在が意識を規定するものであるならば、私達は今回の問題を痛苦に自戒、総括し、差別のない社会の方向へ、如何なる行動をとるべきかの自問に努めなければならないと思います。
テレビに於いて、娯楽番組は、言うまでもなく非常に重要なシャンルです。
時代や社会との関わりに於いて、報道・ドキュメンタリーの後位に属するものではありません。
人間のタテマエでなくホンネの視点から、演出を加えて現実を描き出すべきジャンルです。それ故、なおさらモラルの限界を厳しく問われる世界であります。
今回の私達の逸脱をはじめ、最近のテレビに関する多くの問題提起に対して、テレビ界には、「危ないものは避ける」という風潮が広がっていることは否定できません。
問題や告発を恐れるあまり、先住民族、障害者はじめ差別を受ける人々のテーマに「触れない」とした形でメディアから抹消してゆく傾向があることを認めざるをえません。そのことは、「自己規制」の名のもとに、言論弾圧や差別の潜在拡大化への道を開く危険性が充分にあることも明らかです。
本件について、視聴者からは賛否両論、様々かつ真剣な反響が寄せられました。
新聞報道の後、差別番組にはロケ場所を提供できないとする反応もありました。視聴者の皆さん各々が、今回の問題を包み隠さず各様に捉え考えていただいているものと思われます。
私達は、今回の自戒を機に、こうして提起された課題に真摯に取り組む姿勢を構築し、意義ある番組作りに努める所存です。