釜ヶ崎に生きる ― 藤 井 利 明

(釜ヶ崎日雇労働組合・釜ヶ崎反失業連絡会)

 

最初に釜ヶ崎に来たのは、1976年、27歳の時だった。それまでは、会社に勤めて組合活動をしたり、職を転々としたこともあった。

78〜79年頃、釜ヶ崎日雇労働組合に関わり始め、80年代より暴力飯場の争議や賃金闘争など、組合活動を積極的にやりだした。この頃が、運動をやっていて一番楽しい時期だった。一時期山谷(東京)に8年程いたが、それ以外は、現在に至るまで釜ヶ崎を拠点にして活動を続けている。

釜ヶ崎反失業連絡会結成へ 第一次釜ヶ崎暴動(1961年)の後、釜ヶ崎において三者協議体制といって、労働対策は大阪府労働部、民生対策は大阪市民生局、治安対策は大阪府警(西成署)とする、府、市、府警の三者協議会が設置された(労働の窓口は西成労働福祉センター、民生の窓口は大阪市立更生相談所=市更相=となる)。しかし、市民生局は「仕事がないのは労働行政(府労働部)の担当」、府労働部は「野宿者対策は市民生局の担当」と互いに責任転嫁をして、一切対策を講じてこなかった。

バブル崩壊後の不景気で仕事が激減する中、92年7月、「顔つけ」(選別求人)で雇用拒否された労働者が、求人車輌に放火するという事件が起きた。この事件は、日雇労働者の使い捨てに対する労働者の怒りの噴出であり、その労働者の救援活動を行った。また9月には、市更相は応急援護金として1人1500円程度を労働者に支給したが、700万円の融資資金が底をついて窓口を閉鎖すると、10月には暴動となった。このような状況の中、大阪府や大阪市と交渉を始める流れの中で、93年9月に釜ヶ崎反失業連絡会が結成された。

 

また、府議会で釜ヶ崎総合対策実施を内容とする「請願51号」が受理され(93年9月)、これを契機に釜ヶ崎対策の社会問題化が進んだ。

センターの夜間開放、高齢者特別清掃事業の開始 94年6月、かねてから要求していたあいりん総合センター(センター)の夜間開放について団体交渉を行う中、センターを人質にとり、労働者が寝泊まりを始めた(センター夜間開放)。また、交渉を重ねる中で11月より高齢者特別清掃事業が開始し、最初はセンター内清掃(雇用人数30名)と地域内清掃(同20名)から始まった。

大テントそしてシェルターの開設へ 98年10月の大阪市との交渉で、寝場所となる大テント用の土地の貸与と乾パンの支給が決まり、当時大テント(310名)とセンター(900名)との両方で寝泊まりした。99年9月には、センターを明け渡す条件として、南職安分室敷地のテント(250名)が開設され、このテントと大テントを使用するようになる。2000年4月には三角公園シェルターが開設される。その後、特別清掃事業の地域外の開始や、長居、西成仮設一時避難所の開所へとつながっていった。シェルターは行政が作ったものと思われがちであるが、これは運動の要求によって作られてきたものである。

釜ヶ崎について思うこと 大阪の野宿生活者は、釜ヶ崎の出身者か、日雇をしていた人が大半であり、そこが東京や横浜など他の地域と異なるところである。だから、釜ヶ崎対策をやれば野宿生活者は減る。散らばれば散らばるほど対策しにくくなる。日本の経済のひずみが一番にくるのは寄せ場で、仕事が減れば一番に切られる。府や市は対策が後手に回っており、余計に金がかかっている。

釜ヶ崎は福祉の町ではなく、労働者の町である。府下全域で7000〜8000人規模の公的就労が必要だと思う。行政は、もっと労働者の声を聞かなければならない。

 

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藤井氏は、一時は生活道路清掃の指導員もしていたが、99年頃より体調を崩し、その後癌であることが判明、以来入院・闘病生活を続けている。

「労働者が、テントと毛布だけで30日も40日も野営を続けてくれるようなところは他にはない。声をかけたら労働者が1000人も集まってくれるところは他にはない。運動をやる側が目の色を変えているかどうか、労働者には分かる。己の運動の弱さが労働者の立ち上がりを遅らせていることを反省する」と、これまでの運動を振り返る。また、「多くの人に、釜ヶ崎に来て釜ヶ崎を見て欲しいと思う。釜ヶ崎に来る時は、いつでも案内します」と話していた。

「釜ヶ崎を大いに語る」 ―12・7 釜ヶ崎講座・第4回講演の集い―

釜ヶ崎講座開設1年・釜ヶ崎形成100年にあたり

日時   12月7日(土)午後6時開場・6時半開演

会場   エル・おおさか(府立労働センター)709号室

(地下鉄・京阪電車「天満橋」「北浜」下車8分)

講師   藤井利明氏(釜ヶ崎日雇労働組合・釜ヶ崎反失連)

     島和博氏(大阪市立大学 文学部社会学助教授)

資料代 500円     主催 釜ヶ崎講座


今秋、釜ヶ崎支援機構は2団体から助成金贈呈を受けました。

社会福祉法人丸紅基金様より、福祉相談の相談記録のデータベース作業費(200万円)を、財団法人松翁会様より、福祉相談事業費(80万円)を頂きました。有益に使わせていただきたいと思います。ありがとうございました。


路上死件数213人(2000年・大阪市)

 

 2000年の大阪市内における、野宿生活者の路上死が年間213人にのぼることが、黒田研二・大阪府立大学教授(公衆衛生)らの調査により明らかになった。

報告によると、調査は、2000年に大阪市内で発生した野宿生活者の死亡の実態について、大阪府監察医事務所の資料等をもとに分析を行った。その結果、野宿現場を確認できているか、発見時状況から野宿生活者と考えられる死亡が213例あった。

213人のほとんどが男性(209人)で、年齢層は、多くが50〜59歳(87人,40.8%)と、60〜69歳(69人,32.4%)で、合わせて7割を占めている(表1)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

死亡時の発見場所を見ると、路上が111件(52.1%)と最も多く、その他公園や河川敷、駅・地下街等であった(表2)。

死亡直前の生活場所は、テントや布団・毛布、段ボールハウス等であった(表3)。

 

 

 

 

 

 

 

また、死因については、心疾患が最も多く(38件)、その他肺炎、肝炎・肝硬変、肺結核と続く(表4)。また、11月には餓死が、2月には凍死が目立った他、全体として1〜2月の極寒時の死亡が、他の月に比べて顕著に多かった(図1)。

(本調査は、10月24日、第61回日本公衆衛生学会総会で発表された。表及びグラフは発表データを基に作成した。)

 

 

 

 

 

 

 

 


日本型CANの設立を目指すとりくみ

 

 2002年5〜11月、“日本型CAN*の設立”を目指して、「ソーシャルインクルージョン*の理念による住民主導のまちづくりに関する調査研究会」が開かれた。この研究会は、環境省総合環境政策局長(前厚生省社会・援護局長)の炭谷茂氏の呼びかけで発足し、主として西成区の福祉に関わりを持つ有識者が集まり、隔月で開催された(右写真)。

イギリスにおいて、NPOの一つであるCANは、ソーシャルインクルージョンの理念のもと社会起業家という手法に基づき、高齢者、障害者、外国人等の諸問題について相当の成果を挙げている。研究会は、イギリスにおける経験も参考にしつつ、日本において社会的排除、孤立による諸問題を解決するためソーシャルインクルージョンの理念に基づき、西成区をフィールドとしてとらえて住民主導によるまちづくりの可能性を探るというもの。テキスト ボックス: 特定非営利活動法人 釜ヶ崎支援機構 会報 14号 2002年11月30日
〒557-0004 大阪市西成区萩之茶屋1‐5‐4
   電話06(6630)6060 FAX06(6630)9777
会費・寄付の振込口座:郵便振替:00900-1-147702 釜ヶ崎支援機構
福祉部門への振込口座:UFJ銀行萩之茶屋支店(普)1114951 釜ヶ崎支援機構
これまでに、イギリスのCANの事例について大学の研究者からの報告や、大阪(特に西成区)の現況や行政の対応について現場からの報告、そして住民主導のまちづくりの具体的な方策についての議論を行ってきた。研究会は今年末でまとめられ、来年以降は具体的な活動を目指す。

  CAN(”キャン”):コミュニティー・アクション・ネットワーク(Community Action Network)の略。イギリスの民間非営利団体(NPO)。地域の高齢者・障害者を含む全ての住民が参加して、共に暮らすまちづくりを進めている。

  ソーシャル・インクルージョン(social inclusion):貧困や失業等により社会から孤立・排除された人々も社会の一員として包み支え合う、という理念。

テキスト ボックス: 2002年度第4回会員の集い12月15日(日)午後2時より
NPO事務所2階で行います。
近況報告を行いますので、ご参加ください。