更新情報

2011年12月12日
3回目の仙台自転車提供報告

 12月12日(土)(杉本、特掃西村)AM00:00西成区出発→12月12日(土)PM2:00過ぎ仙台市太白区(共同事業体郡山事務所)着 リサイクルプラザの皆さんの気持ちのこもった自転車20台を現地物流本部に届けました。今回で3回目、合計で60台になります。自転車は、一時事務所に借り置きし、今回は避難所で生活をされている方に届けられるようです。
自転車は本当に役に立ち何台あってもありがたく皆さんに喜んで頂いていますと話しをしていると、その気持ちがこちらにも伝わって来ます。

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2011年7月22日

第2弾 仙台自転車提供報告

 7月16日(土)当機構のリサイクルプラザの皆さんの気持ちのこもった自転車20 台を現地対策本部へ届けました。

 事務所のスタッフの方々にも手伝って頂き、まずは事務所に自転車を 仮置きし、被災され生活をして行く上で自転車を必要とされる方のもとへと届ら れて行きます。
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2011年6月1日

6月1日朝日新聞の朝刊市内版に、再生自転車寄贈の記事が掲載されました。 避難12世帯に22台の再生自転車寄贈

 大阪市社会福祉協議会がNPO法人釜ケ崎支援機構(同市西成区)のリサイクルプラザの協力を受け、5月に3回に分けて、東日本大震災で宮城県や福島県から同区内の市営南津守第2住宅に避難している12世帯にリサイクル自転車計22台を贈った。

 マンションや学校から自転車を引き取って修理する活動を続ける同プラザが大阪に来ている被災者に自転車を提供できると市社協側に申し出て実現した。

 31日は3世帯に計7台が届けられた。3月12日に福島県南相馬市の自宅を出て、仙台市の弟宅などに身を寄せた後、4月に大阪に来たという中橋清甚(せいじん)さん(67)は妻と長男の妻、孫の4人で市営住宅に暮らす。

 「自転車があれば、行動範囲が広くなる」とうれしそうだった。
同プラザ所長の楮本(かごもと)吉章さん(41)は「喜んで使ってもらうのが一番。少しでもお役に立てれば」と話していた。

 

 

「2011年6月1日 ・ 朝日新聞/asahi.com より」


2011年5月5日

5月2日朝日新聞の朝刊市内版に、仙台行きの記事が掲載されました。 西成発仙台行き 自転車20台提供

NPO法人釜ケ崎支援機構(大阪市西成区)が大阪市内のマンションや学校などから引き取って修理した自転車20台や車いす2台、修理用具などを載せたトラックが1日、東日本大震災で被災した仙台市に向けて出発した。自転車などはNPO法人ワンファミリー仙台を通じて宮城県内の被災者に提供される。

 同機構のリサイクルプラザでは、10~60代の元ホームレスや日雇い労働者らのスタッフが自立、就労に向けてリサイクル事業に取り組んでおり、NPO法人ホームレス支援全国ネットワークから4月初め、東日本大震災の被災者支援の要請があり、リサイクル自転車などを送ることにした。

 スタッフの男性(17)は「気持ちを込めて作った。少しでも東北の人の助けになれたら」と話し、積み込み作業をしていた。同プラザ副所長の西村喜雅さん(63)は「人生の再スタートをしようとするスタッフたちから、被災地でこれから前に進もうとする方々に応援の気持ちを届けたい」と話した。

 

 

「2011年5月2日 ・ 朝日新聞/asahi.com より」


更新情報
2011年4月1日
「東北関東大地震」義援金についてのご報告
この度は、義援金にご協力をいただき 誠にありがとうございます。

3月18日から29日までにお預かりしました義援金は166,310円となり、
うちワンファミリー仙台へ75,000円、ホームレス支援全国ネットへ91,310円
振り込みをいたしましたのでご報告します。



指導員の仙台ボランティア報告
〜NPOを代表して先月24日から仙台へ向かった指導員からの報告

皆さん!報告が遅れて申し訳ありません。
今、拠点にしている仙台市青葉区は、海からはかなり離れているので津波のえいきょうはまったくなく、地震で建物にヒビがはいった程度で屋根の落ちた仙台駅を除けば外見じょうは普段とかわりません。
震災当日は、水道やガスなどライフラインが完全にマヒし、また津波のえいきょうで市内にも多くの帰宅難民があふれ大変だったようです。
仙台の仲間たちは、連日1000個のおにぎりの炊き出しをおこないながら津波被害地をまわり食料、衣類をくばる作業を今も続けています。
津波被害にあわなかった所は、ライフラインも回復し始め、物流も回復しガソリンスタンドの列が長い事を除けばほぼ平常に戻りました。しかし、津波被害地区は町ごと消失した地域や海岸部だけ流されあとは一階部の浸水だけの地域と程度の差こそあれ大きな被害を受けています。この様子は、新聞、テレビなどを通して伝わっていると思いますが、現地にきて車で向い峠を越えて前を見るとあるべき建物が全くなくガレキの先に海が見えるという風景そしてさいしょに書いたようにその海がまるで11日がウソのようにおだやかなのを見ると言葉も出ません。
ましてやガレキの中、必死に不明者や思い出の品をさがしている人たちを前にして写真も撮ることはできませんでした。
現地では復興に向け大きく支援の輪も広がり前に向かって進み始めています。
ガレキ、ヘドロ、車や舟で通れなかった道路も一日行かなければおどろくほどのスピードで整備されていっています。また電気も、まったくのガレキ野原に道路に沿って新しい電柱がたてられ(これはまったく不思議な風景です)ています。こうした中、やっと各避難所までは物資も行き渡りはじめ、当初の津波で生きのびた命をつなぐための支援から健康に気をつけて復興へと向かう大きな転換点にきていると思います。
仮設住宅の建設も始まりました。しかし、指定避難所でも物資の搬入に大きな差があり、集落ごとの「民間避難所」や避難所にはいけず病院や施設でガンバッている人たちの所ではまだまだ物資、そしてなによりも人出が不足しています。
こうした状況の中、私は物資の配送を手伝っています。


「NPO釜ヶ崎・現場通信・2011年4月5日・第150号より」